第9話 この世界に溶け込みながらあの世界の悩みを思い出す
先生はほんの数日でこの世界の暮らしに順応しつつあるようなご様子。エアコンを調整し、自分でお湯を沸かしてお茶を飲む。iPadで音楽を聴く。デジタル機器を使うシューベルト……。音楽のサブスクをしておいて良かった。先生にとってそれがとても興味深いご様子。いろいろ試しているようでたまにうれしげに私にも「こんな音楽を見つけた」と報告してくださることがある。その純粋なご様子がかわいいな、なんて思ったり。クラシックだけではなく、美しいバラードに感動していることもあって切ない歌詞を繊細なメロディー載せて歌うそれが刺さることがあるようで、その時の先生の心の中のことやその曲への感想を教えてくれる。
一人でタブレットを操作して好きな音楽にちゃんとたどり着けているし、その手さばきがすでにすっかり熟れている。
その一方で時間が経ってもそのことには慣れないのかどうか……。水道からきれいな水が流れてくることや馬車の代わりに車や電車が走っていること、電気がいろんなところでいろんな形になってとても便利なことに何度も驚く先生。
私が自転車に乗ろうとしたら「噂には聞いたことがある」と自転車を興味深そうに見ていたので「どうぞ、乗ってみてください」と勧めたら自分はそんなものに乗る勇気が出ない、と怖がってたじろぐ。いろんな場面でかわいい、と思ってしまう。
ある日の夕方。先生に食前のお祈りをしていただいてからいつもの晩酌の時間。向かい合って二人でビールを飲みながら先生と話をする。
「先生、今日は焼き鳥、召し上がってみてください」
「はい。焼き鳥とは?」
「こちらですね。鶏肉を焼いたものです」
「鶏ですか?」
「そうです」
「この緑色の豆は?」
「枝豆です。中に入っている豆をそのまま召し上がってください」
「ああ、この料理は、食べたことがあるかもしれません。豆とか鶏とか、そういう食べ物はぼくの世界にもあって、ですね」
「そうなんですね」
「しかしこんなに緑色だったかな……。豆は大抵スープに入っていました。こういう形で出されるのは初めてですね」
「料理と言って…これは茹でただけですが」
「ああ、これは、いいですね。ぼくは好きです。おいしいと思います」
「良かったです。先生の世界ではお食事と言うとスープなのですか?」
「そういうものが多かったような気がします。ぼくはほぼ料理をしないのですが、食事と言うと普段は簡単なものが多いです。パンにわずかな保存食を添える程度のもの、とか。料理をするのは大変ですから」
「確かに大変ですよね」
「だから、詩さんは大変優秀な女性だと思います」
「この程度で? 焼き鳥なんか買ってきたものです。枝豆はただ茹でただけですよ」
「火を使う料理が大変だというのはぼくにも分かります。毎日こんな立派な食卓を整えることができるなんてあなたは本当に素晴らしい」
「立派な食卓だなんて……。お言葉が……。でも、ありがとうございます。この程度でそんな称賛されると恐縮です……」
「ただね、ぼくはこの葉っぱをウサギみたいに食べることには馴染めないんですよね」
「あ、サラダがお得意ではないんですよね。先生の世界で生で野菜を食べることはあまりないですか?」
「ないですね。その辺から採ってきた草を水で洗って盛り付けてそれが料理だと言われても…ぼくは何とも……」
「草……。ええと、そうなんですね。その、レタスはその辺から採ってきた草ではなく、農家できちんと食用に栽培したものを買っているのですが……」
「そうですか。でも、その葉っぱを洗った水に何かあるかもしれませんよ。水には気を付けたほうがいい」
「ああ、なるほど。しかし…この国の水道の水にはご心配されることはそれほど……」
「そうなんですね。ぼくはまだこの世界のことが全然分かっていませんね。水をそのまま飲むことには不安があります」
「なるほど、それはそうかもしれません。ここは水がそのまま飲める土地ですが、そうでないところの方が多いですからね。それに、子どもなんか大抵生野菜を嫌がるものですし、よく考えれば人間が生の草を食べるというのは不自然なことかもしれませんね。未知のこの世界に慣れていらっしゃらない先生が不安になるのは当然です。どうか、受け入れられないことについてはご無理なさらず。私は先生がなじめるようなお食事を考えてご用意するよう努力しますね」
「詩さんは優しい方ですね。あなたのそんな心の美しさに触れて今、ぼくは母を思い出しました」
「先生のお母様?」
「はい、時々、優しかった母を思い出すことがあるんです」
「そうなんですね。きっとすてきなお母様なんですね」
「そうですね。いつもぼくらのことを、子ども達のことを気に掛けていて母は優しい人でした。料理をしている母、縫い物をしている母。主婦は大変です」
「たしかに、主婦は大変ですよね」
「育たなかった子も多いのですが、うちには子どもが何人もいて母は大変そうでした。この世界は本当に素晴らしいと思います。電気が多くのことを人の代わりにするのですから。主婦の仕事のほとんどを電気がしますね? 忙しく動き回っていたぼくの母に電気を見せてあげたかった。服も電気で作れますか?」
「あ、ええと…服は、半分電気で、もう半分は人間が作る感じですかね……」
「詩さんはご自分の服はご自分で仕立てるのですか? それとも、ぼくにご用意いただいたような、仕立て屋で購入される?」
「服は服屋で買います。私は服なんか…全然作れませんよ……」
「やはり上流の方はそうなんですね」
「全然上流ではありませんが…先生のお召し物は…その、元々いらした世界ではどうされていたのですか?」
「ぼくは服なんかほとんど買いません。子どもの頃はたまに母が仕立ててくれましたが、ほとんど兄のお下がりです」
「ああ、なるほど。お兄様がいたらそうなりますよね」
「ぼくは着るものには頓着しないのです」
「それがいいと思います。ファッションはお金がかかりますからね」
「ええ。でも、大事な場面では、それなりの勝負服も必要だな、と思うことはありましたけどね」
「大事な場面、と言うと?」
「例えばぼくの曲が演奏されて聴衆が喜んでくれたとします。その時、もしかしたら聴衆はその音楽を作った作曲者を見たいかもしれない。でもその時にぼくがみすぼらしい服装だったら。ひどい格好では聴衆の前には出ていけません」
「そんなことは……」
「実際にそういうことがありました。ある曲の初演でぼくはその会場にいて、思いの外、聴衆が喜んでくれたんです。それでぼくを呼んでいる。だけどあの日のぼくの服装はみすぼらしいものでとても人前に出られるものではなかったのです。あの時は周りから、そんなことはいいから早く姿を見せるように、とかなり強く言われて舞台袖から押されたものです。だけどそんなことができるはずないのです。それでね、いないことにして聴衆の前には姿を現さず、そのまま帰ったりしたことがありましたね」
「え、そうなんですか? もったいない」
「いい服を着ていなかったことが恥ずかしくて」
「それでもきっとお客さん達は先生を見たかったと思いますけど」
「どうでしょうね。あの時ぼくがもっとまともな服を着ていたら出ていたのですがね」
「そうですか」
「ぼくがあまりにもそういうことに無頓着だから、気が付いたら友人が服を用意してくれていたこともあったりしました。あとは友人のところに住んでいた時にはその家にある服を勝手に着たりして」
「そうなんですか。何だかおもしろいご関係ですね」
「ぼくは友に恵まれていたのです。友人達には本当に感謝していて、いつも助けてもらっていました。友人の家に居候していたり。家族と友人と、ぼくは周りの人に随分……」
「なるほど。先生…元の世界に戻りたいですか?」
「それを考えても仕方がないのかもしれないですよね。母はもう亡くなっているし……。しかし家族にも友人にも会いたいとは思いますね。皆ぼくのことを思ってくれる大切な人達です。ぼくがこんな世界にいると知ったら驚くはずです」
「そうですよね……。ご家族やご友人に会いたいですよね……」
「でも、ここには詩さん、あなたがいてくださいますね」
「あ、ええ……。私は…何もして差し上げられませんが…服くらいだったらまた買いに行きましょうか……」
「この世界も全然悪くないですよ。とても快適だと思います。電気がいろんなことをしているのが不思議ですね。素晴らしいと思います。それに、この世界にはこの世界らしい美しさがあって、そして、ぼくの世界と変わらないものもある。あなたの世界とぼくの世界は結局一つの同じものです。ここだってとても美しい世界です。それに、人の心は同じなのだろう、と思います。あなたと私がこうして話をして何かを考えたり感じたりする、その事自体がこの世界が一つであることの証明なのではないでしょうか。そしてきっとあなたがいてくださるからだと思いますが、ここは大変優しい世界だと思います」
「そうですか?」
「元の世界にいた頃、ぼくは生活や健康上の悩みにずっと苛まれていました。ぼくがこの世を好きになれないのはそういうことがあるからです。そういうことに心を曇らされるたびに、そんなことがない音楽に集中できる環境がほしい、と思っていたものです」
「なるほど。たしかに、現実って煩わしいですよね」
「ぼくの音楽がもっと知られて理解されれば良かったのですが」
「なるほど」
「なかなかそれは難しく、ぼくの望むようにはなりません。自分ではベートーヴェンのようなセンセーションを起こすことはできない」
「そうなんですか……。だけどこの世界で先生は大変……」
「父なんか、ぼくの顔を見るたびにずっとまともな職に就くようにと言うのです。音楽は、それはそれとして、とにかくきちんとした職業を、と。父のような教師になるように、と何度言われたことか」
「お父様はどんな方でいらっしゃるのですか?」
「父も悪い人間ではありません。ただ、母ほど優しくはないですね」
「そうなんですか」
「父はぼくらの父であり、職業は教師でもありましたから、まあ、それなりの人間です。子どもの躾には大変厳しかったですね。父親というのはそういうものです」
「なるほど。教師って大変ですものね」
「そうですね。ただもちろん、父は家族を愛していましたから、ぼくらもそういうところは信用してはいました。ただ、父としても教師としてもとにかく厳しかったですね。父は時には子どもを引っ叩いたりしていましたし」
「え、そんなことをします?」
「子どもって、そうしないといけない時もあるじゃないですか。ぼくが教師だった時には自分ではそういうことはほとんどできませんでしたが、父や兄は慣れていたのか、そうして子どもを机に向かわせることもあったようです」
「この世界でそんなことをしたら問題になりますよ」
「子どもを叩いたらだめなんですか?」
「だめですね。私も仕事で落ち着きのない子どもたちをどうにかしないといけなくて、どんどん冷静さが奪われてそういう必要があるのかもって思うことがないこともないです。でも、それをしたらもうきっと仕事には戻れないと思います」
「では、この世界ではどうやって躾をするのですか?」
「ゆっくり話して聞かせる、とか、やって見せるとか、方法はいろいろあります」
「それは大変素晴らしいですね」
「理想はそうですけど現実……毎日大変です」
「そうですよね」
「先生もそういう、体罰を受けたことが?」
「まあ、子どもだったら言うことを聞かなかったとかつまらないいたずらをしたとか、そういうことで罰を受けることはありますよね」
「男の子は元気ですからね」
「ぼくは大人しい方でしたが、父のお仕置きは怖かったし、だからいい子にしている、みたいなところはありましたね」
「ああ、まあ確かに、怒られたくない、というのは抑制にはなりますよね」
「兄達が怒られているのを見てそうならないように用心する、ということですね。ぼくは末っ子だったのでその点うまく立ち回って得をしていたのかもしれません」
「末っ子ってそうですよね。いろんなご家庭のお子さん達を見ていても、どこも大体、上の子を見ている下の子っていうのは処世術に長けていたりするものです」
「ぼくには何人かのきょうだいがいて、その中でも年の近いすぐ上の兄がいるのですが、年が近いので一番近いところでいつもずっと一緒に育ってきました。いつも二人でいて、ぼくは大抵悪い役を彼に押し付けて上手くやっていました。おかしいですね。詩さん、ごきょうだいは?」
「うちは私だけだったんです。母と私だけです。もう、私が幼い頃に父は亡くなって……。そこからずっと私は母と二人きりでした」
「なるほど。大変でしたね」
「そうでもないですよ。気楽なものです。母とは親子というより友達同士みたいな感じでいましたから」
「そうですか。詩さんがご立派な娘さんだったから当然体罰なんか不要だった、というわけですね」
「まあ…どうなのでしょう……」
「ぼくがいたコンヴィクトという寄宿制神学校では体罰に対する恐怖みたいなもので皆お行儀よくする、みたいなところがあって、あそこは大変厳しい場所でした。他の生徒が何かしらの罰を受けているのを見れば自分は気を付けるようになる、と」
「寄宿生活で実際にそういう体罰を見たことは?」
「まあ、躾の一環ですよね。決まりを破ればそれなりに」
「それなりに……。何だか怖いですね」
「怖いから統率が取れていたのかもしれません。いろんな年齢の少年が何十人も集まって集団生活を送るのです。教師側でもそれをまとめて管理するのは相当大変なのでしょう。でも、ああいう恐怖で子どもの心を支配するというのは子どもの心にはあまり良くないですね」
「そうですよね」
「詩さん、あなたは良き教育者です。尊敬に値します」
「いえ、そんなことは……」
「大変なお仕事ですよね」
「はい。先生もそれをご経験されているのですものね」
「ぼくはそれで実際にやってみてそれが自分には向いていない、ということが分かりました」
「いえいえ、そんなことはないと思いますが、先生には作曲の方がお似合いかもしれませんね」
「でも、作曲ではなかなか生活できなくて」
「でも、先生はそれでも音楽がいいんですよね?」
「そうですね」
気が楽、なんだよね、この人と話しているのは。なぜなのかな……。こうしてどうということのない時間を一緒に過ごしているだけでこんなに満ち足りた気分でいられるのは、どうしてなのかな……。
「ところで…あの、先生」
「はい」
「唐突な提案ですが、せっかく夏なので、たまにはどこかへ出かけませんか?」
「出かけるというのは?」
「三日後にこの近くで夏祭りがあります。一緒に見に行きませんか?」
「お祭りですか?」
「はい」
「二人で浴衣着ません?」
「ユカタ?」
「日本の民族衣装みたいなものです。先生の分もご用意しますから」
「では、せっかくなので。何だか楽しそうですね」
「私達は大人だからご期待されるほど楽しいのかどうかはわかりません。でも、雰囲気を楽しめたらいいかなって」
「なるほど。ぼくも子どもの頃にはそういったものに参加した記憶がありますよ」
「お祭りがありました?」
「ありましたね。フェアです」
「フェア……。どんなかんじなんですか?」
「踊ったり、音楽もあって、露店があって。身分にもこだわらず、多くの人が出てきます」
「もしかしたら、お連れする夏祭りはそれに似ているかもしれません」
「ぼくの世界では秋に収穫を祝うお祭りがありました。収穫祭、それ用の服を着て、大人も子どもも繰り出して」
「ああ、なるほど。収穫祭という言葉はほんの少しだけ馴染みがあります」
「あなたにも見せてあげたいです。子ども心に、ああいうイベントはわくわくするものでした」
「そうですか。素敵ですね」
「この世界のそういうものを体験できるのなら、それはとても楽しみです」
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