第8話 詩の葛藤

 正直、一人よりも食費はかかるのだと思う。

 先生に喜んでいただきたくて、ただ単に私が先生と一緒に楽しく食事を囲みたくて、それで勝手にがんばっているところもあるから。それにしても。

 無職の先生にもお金はかかる。いや、無職と言って、先生はずっと作曲をしているようで、もちろんそれが先生のお仕事だということは分かってはいるのだけれど。ただ、その労力を掛けた作品がこの世界では全然お金になってはいない。

 芸術家にお金の話なんかをしたらいけないことはもちろん分かってはいる。

 同居人が増えて支出は倍に。先生の分の衣類や日用品が多少は必要になるし食費に光熱費。五線譜をかなりたくさん印刷するのでプリンタインク代。先生はずっと家にいるのでエアコンの分の、次の電気代はどうなるのだろう……。

 なんてつまらないことは言いたくないけど、現実って、収入と支出のバランスを上手くやっていかないといけないから……。もちろん作曲家である先生にはそんなことは言えない。そんなことを本人に言うつもりなんかないし、現実はこういうものだと分かっているのだけれど。

 だけど私の低賃金では芸術家である先生のことを養いきれないのかもしれない。けれど先生がいなくなるなんてことは考えられない。先生にずっとここにいていただくためにはどうにかやりくりしなくちゃ。だって私はとにかく先生にいてほしい。好きだから。こんなにすてきな人だから。好きに理由なんかない。先生を見ていたら分かる。その誠実さ。いつも謙虚で相手を尊重する自然な仕草。他の大人が持っていないような純粋さ。

 先生は別世界から何かを超えてここへワープしてきたのかもしれないけれど、どんな理由があるにせよ、先生がこんなに素敵な性格を持った魅力的な人であることは事実。

 私はだからただ、先生にここにいていただきたい。ただそれだけのこと。

 ずっとここにいていただきたいからお金のことなんか。私ががんばれば良いのだものね。なんて、そんなことを言ってだけど、先生は私の恋人でも何でもないのに? 先生はただの居候。私と触れ合うこともないし甘い愛の言葉を言ってくれるわけでもない。どうしてこういう展開になったのか私は、おそらく先生ご自身も、いまだによく分かっていない、ということだけがここにある事実。

 それでも何でも、私にとって先生は最高の話し相手で、ただ話を聞いてくれるだけで、そこにいてくれるだけで支えになっている。そんなかけがえのない存在。

 私達が今、どんな関係なのかは分からないけれど、私はとにかく先生のことを心の拠り所にしている。私はただ先生の近くにいてその気配を感じている。ただそれだけ。私はそれで満足。

 母との死別の悲しみを先生がその存在で和らげてくれている。何をするでもなく、ただそこにいてくれるだけで私は救われている。もし先生がいなくて私一人だったら……。お母さんを失った私の心は壊れていたと思う。

 あの時偶然楽器店に入っていったのが私だった。だから今ここにこうして二人でいる。

 なぜ先生と出会ったのか、どうしてこんなことが起こっているのか。どんなに考えても私にはわからない。そんなことを繰り返し思い浮かべて考えて、結局何もわからないからそこで思考停止。時も場所もワープしているって…一体どういうことだろう。

 どこかの専門家に尋ねてみたら何かしらのことが分かるのかな……。って、タイムトラベルの専門家? 物理学の教授とかになるのかな……。私には当然そんな知り合いいないし……。そもそもこのことをどうやって説明したらいいのかも分からない。大体こんな話を誰も信じてくれるはずもないし。だけど万が一、専門家が何かしらのヒントをくれるとして、もしそれで先生が元の世界に戻れる方法が分かってしまったら……。

 って、そんなこと…あるわけないよね……。だってそれなら他の人だってタイムトラベルしているはずだし。

 だけどシューベルトがここにいるということは……もしかしたら密かにそういう人っているのかな。私が気が付かないだけでその辺に時間旅行人っているの?

 まさか。そんなことあるわけがない。そんな設定、あまりにも現実離れしすぎている。

 だけどそれなら先生はどうやってここに来た? 先生がこの世界にいるのは事実……。そして先生がここに来たのなら戻る方法だって……。

 もう、本当に訳が分からない。でも多分、先生は本物のシューベルト。だって話していると本当の音楽家っぽいから。根拠はそれだけだけど。

 もう、何でもいい。先生、とにかくどこにも行かないでください。ずっと、私の傍に……


 そんな私のささやかな生活の悩みについて…日々の暮らしにおいては生活費のことを少し考えながら過ごしたい、大変恐縮ではあるのだけれど、ほんの少しだけご協力をいただけませんでしょうか。ということをある日ごくわずかだけ、先生に話してみた。

 私は高給取りではないし生活に余裕があるわけでもない。もちろん先生はずっとここにいて作曲をしてほしい。ただ、先のことを考えるとお金が足りなくなってしまうかもしれない。だからこれからは多少お金のことを考えながら生活しても良いでしょうか。

 先生は私の話を聞いて、そうしたらいいと思う、私が考える通りにしたらいいのでは、と静かにつぶやいた。そして、もしも自分が迷惑な存在であるのなら今すぐに出て行くつもりだ、ともおっしゃった。大慌てで迷惑だとは全く思っていない、どうかずっといてください、私は先生にいてほしいと思っているのです、とお伝えする。先生どうか、出て行くなんてそんなことは言わないで。

 でも…先生、いつまでここにいてくださいますか、と…訊きたかったけれど、それは訊けなかった。

 先生、ずっとここに。どうか。もう私、一生先生の面倒を見ますから。私が働いて、先生は作曲を。

 私は心の中ではそう思っているのだけれど、私がそんな気持ちを抱いていることを知ったらきっと先生は気味悪がって出て行ってしまうかもしれない。それだけはどうにか避けなくては。

 先生を失いたくない。先生がある日突然いなくなってしまうことが怖い。なんてもちろん、先生には言えないけれど……。

 ただ、先生としても居候生活はそれなりに気を遣うのだと思う。常に低姿勢だし、ご本人が何か仕事をするべきだということは分かっている、なんて言い出したから、それはそれで何だか不安だからそんなことは気にせず作曲に集中してください、と言ってから一つ思い付いた。

「先生、私にピアノを教えてくださいませんか? それが先生のお仕事です。いかがでしょうか?」


 家の中で先生にしていただける最も向いていると思われる良い仕事だし、私も少しはピアノを上達させたいとは思っているし。収入にはならないけれど……。お互いの気持ちとして多少は……

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