第7話 先生への恋心

 認めないように努力はしていた。気を緩めるとどんどん先へと進んで行ってしまいそうな心の中の流れをどうにか止めようと、進み行く気持ちに逆らおうとして…それよりとにかくそれに気が付かないようにしていたけれど……もう認めるしかないのだと思う。

 私は先生のことが好きなのかもしれない。こんな、どこから降って湧いたのかも分からない未知の人のことを……。でも、私だってこの気持ちを自分でもどうにもできない……。私、どうすれば良い…?

 母が突然亡くなったから……。私は途方に暮れて、あの時以来毎日ずっと一人で泣いていて……。そんな悲しい気持ちをどうすればいいのか分からずにいた。そこへ、多分本人も来るつもりはなかっただろうに、この世界へ来て私と出会ってしまったシューベルト。過去の外国からやってきたかもしれない、その上教科書に載っている有名人。

 私には悲しい思いを聞いてくれるような彼氏も兄弟もいない。友人達はまだ死別なんか経験していない人がほとんどで…だから余計に……。そんな友人達が心配して私にかけてくれるその言葉が却って悲しかったり期待外れだったりして。向こうも純粋に気を遣ってくれているのだろうし死別直後で悲しんでいる雰囲気を纏った私なんか相手にしづらいはずなのに無理して共感するような言葉を言ってくれたりして、それなのに肝心の私がそれにどうにもうなずけなかったりして……。

 人の厚意に対してそういうふうに思ってしまうのも嫌だし申し訳ないし、だけど私はまだこんな時期で…そんなことに気を遣うことにも何だか疲れてしまって……。もう誰かとこのことを話すのは嫌だな、なんて……。

 疲れるし悲しいしぎこちない会話にお互い気まずくなるのなんて、何の意味もないよね。それならもう、誰とも話さなくていいかな、とか……。

 そこに突然現れた大作曲家。近くにいるととてもそんなふうには見えなくて、ごく普通のおじさんにしか見えないのだけど、この人は歴史的人物。なの? 本当にそうなのかどうか……。でも、そういうことにしておくとして……。本人も自分がそこまでの有名人だなんて思っていないみたいだけれど、とにかくこの人は他の人とは違うから……。

 先生は出会って数時間、私がふと漏らした母がいなくなった悲しみを受け止めてくれた。あの時、出会ってまだ少ししか経っていなかったのに私を抱き締めてくれた。先生のそれは愛ではなくただの哀れみだということはわかってはいるのだけれど、私はその時の感じを忘れられずにいる。

 あの時以来、私達にそういう触れ合いは一切ない。ただ、私の気持ちがそれ以来……。私は、もう何もなくてもそれでいいから先生の傍にいたい。


 今日も先生はピアノの部屋でピアノを鳴らしながら楽譜を書いている。そんなに曲を書いて、先生は自分の世界にそれを持って帰れるのだろうか。そもそも先生は……

 考え始めると、自分がいる世界と先生の持っている世界がどうしてもつながらなくて、そもそも物理的に、時空的に、シューベルトが私と生活しているなんておかしいよね…? という結論になって、その考えが浮かぶとどうにも不安な気持ちにはなるのだけれど……。

 だってそういうことが私には全く分からないから……。ただもし、その謎が解けるとしたら……。なぜ先生がここにいるのかが分かったとしたら……。そうなったらそれはそれで先生がいなくなってしまうような気がして…そんなことを考えると怖くて不安になる。私が見ている先生は本当に存在していてその実態がここにあるのかどうか。

 ある日突然先生がいなくなってしまったら? せっかく少しずつ親しくなっているところなのに。

 そういうことを深く考えようとすると混乱して結局何も分からないし…もし先生が幻だったら? でもそんなことはなくて、だって先生は私と一緒に食事をするしピアノを弾いている。先生が書いている楽譜は確かに先生が書いたものだし、私が聞いているピアノの音は先生が鳴らしているもの。その音が私の耳に入ってきて私は心を動かされたりしている。確かに物理的に私はそれを聞いて、実際の先生を見ていて、先生のウェーブする髪が可愛らしいな、と思ったりもして。やっぱりこれはどうしたって現実。夢や幻であるはずはない。

 でも一抹、目の前にその姿を見ていても、やっぱり実感がないような確信の持てない何とも言えない思いが浮んで……。

 だから、そういうことが頭に浮かぶたびにそれを考えないように、心を無にする。



「ただいま。今帰りました。先生、調子はいかがですか?」

「ああ、詩さん。おかえりなさい。お仕事は終わりですか?」

「はい。今日は早番だったので。先生、お風呂、まだですよね?」

「ねえ、詩さん」

「はい」

「毎日入浴する必要なんかあるのでしょうか」

「まあ…そうですね……。先生は家の中に引きこもっているから汗もかかないでしょうけど、私は子ども達と走り回って汗だくなのでお風呂、入りたいですね」

「ぼくは今日はいいです」

「え、お風呂、入らないですか?」

「はい」

「入浴剤を入れますよ」

「しかし、ぼくは今日はいいです。水がもったいない」

「しかし…どうせ私が使いますし」

「正直に言うと…ぼくはあの髪を乾かす道具の音が怖いんです」

「ああ、ドライヤーですね。そしたら…ドライヤーは今日はやめておきましょうか。髪は自然乾燥でも……。慣れれば平気だとは思うのですが」

「はい。あの機械は嫌です。自分が燃えてしまいそうです。熱くて…それにあの音がぼくはとにかくどうにも……」

「燃えませんよ。爆発したりもしないし。音は風の音ですから。大丈夫ですって」

「風はもっと優しい音だと思います」

「ええ……。自然界ではそうですよね……」

「詩さん」

「はい」

「ぼくは何となく気になっていることがあって」

「何ですか?」

「この暮らしにはどれだけお金がかかっているのですか?」

「あ、すみません……。無駄遣いしているつもりはないのですが……」

「いえ、そういうことではないのですが。ぼくはお金には無頓着で借金をしていたこともあります。でもあなたが苦しい思いをするのは良くない。詩さん。お金が足りないのは苦しいことです。だからもし、ぼくのせいであなたが大変なのであれば……」

「そこまでご心配なさらず。それは大丈夫ですから」

「生活が大変なのはぼくにも分かります。もしもあなたがぼくのために入浴や食事の支度を整えてくださっていてそれが大変なのであれば。金銭的なことも他のことも」

「あ、いや、その……。ここではお風呂に水を使ったくらいで借金にはならないはずなので……。水代のことはそこまでご心配なさらず……」

「そうですか?」

「はい……」

「それなら良いのですが……」

 先生の心配そうな、でもその後で見せる謙虚で感謝する純粋な笑顔がたまらない。この人は所謂「いい人」なのだと思う。性格の根っこが純粋で優しくて居候であることが元々控えめなのであろう先生のご様子をさらに謙虚にしている気がする。そこに何だかどうにも、私は自分の心を掴まれている気がする。


 先生、いつまでここにいられるのかな……。

 そもそも違う時代の人。ある日突然また時空が歪んだらいなくなってしまうのでは。って、先生がここに来たのがそもそも時空が歪んだからなのかどうかは分からないけれど。

 この生活をほんの一日送っただけで先生は私の心にずっといていただかないと困ってしまう最重要人物になってしまった。一目惚れに近いのかな……。まさか私がそんなことに? しかも相手がシューベルトって……。ほんと、自分でも訳が分からない。

 最初はこの人は男性だし私は相手のことを全然知らないし。そう思って警戒していたのだけれど、この人はそういう穢れた人間ではない、ということがしばらく見て、話をしてよく分かってきたから。そんなの、私のただの勘だけど……。

 何と言うか、先生はいつも紳士でいらして物事の加減を大変よく分かっていらっしゃる。だから、一緒に暮らしていても私はそのせいで疲れたりはしない。むしろ先生がいてくださることでいろいろと救われていて、精神的に助けられていて。

 母との二人暮らしは気楽で自由だったしすごく楽しかった。いろんなところで手を抜いて、二人で協力し合って緩く暮らしていた。シングルマザーで私を育ててくれた母は大変だったのだろうとは思う。だけど私はそんなことを感じることもなく幸せに育ってきて、ようやく母と同じ仕事を始めたばかり。そんな母が、突然いなくなってしまった。

 そしてそれからすぐ先生に尽くす生活が始まってまだ数日。

 実は母が生きていた時には家事の多くを母がしてくれていたから私は家のことをあまりしていなくて……。私は実家でぬくぬくと楽してばかりして生活していた気がする。それが今は家事をする人が私しかいなくなってしまった。何から何まで自分でしないといけなくて、先生の分の手間も増えて、そういうのって結構大変なんだなって、今さら思い知っているところ。

 お母さん、ずっとこんなことを何十年もしてきて、大変だったんだろうな……。そんな当たり前に今さら気が付くなんて。お母さん……。こうなることを知っていたら、もっと何度もありがとう、と伝えていたのに……。

 いろんな瞬間にお母さんのことが思い浮かぶのが寂しすぎる。あんな、一番近くにいたはずのお母さんにもう二度と会えないなんて。シューベルトがここにいることよりも訳が分からない。

 作曲家大先生のために家事をするのはうれしくて楽しいけれど、自分の仕事もあるから大変だなって思うけれど、お母さんは仕事をしながら家事もしていたのだものね……。ほとんど私のために……。お母さんはいつも上手く手を抜いているから、なんて言っていたけれど、手を抜きながらでも私にはこんなこと……すごく大変に思えるし上手くできていない。

 お母さん、大変だったんだよね。私ももっと手伝うべきだったな、なんて今さら思っても……。お母さん、ごめんね、と思ったら涙がこぼれる。もう…いつこれが治るのかな……。私、いつまで泣くの……。

 するとお母さんの声が聞こえた気がした。家事なんか今からやったら大丈夫。やってあげたい人がいるなら余計にね。もうがんばっているじゃない。大丈夫。詩、そのままでいいから。好きな人がいるのならがんばりなさい。

 そう言ってお母さんが笑っているような気がした。お母さん、そう言っている?

 やってあげたい人がいるなら……。好きな人がいるのなら……。

 それなら私は先生のために……。

 私は先生に尽くしたいと思っている。未来に放り出された先生は一人になったけれど世界は変わっていない私よりもずっと大変なはず。先生は元の世界が恋しいのかな……。それはそうだよね……。でもそれなら先生はどうやってその元いた世界に戻れば良い? その方法は……。いや、どうか…そんなところへは戻らないでここに……。

 もう私…どうすればいいのか、何もかもが分からない……。

 お母さん、私、どうしたらいいのかな……。


 私はできれば先生に、この世界が快適で、ここにずっといたいと思っていてほしい。ここにどうかとどまり続けていただきたい。

 というのが私の願い。

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