第6話 先生との晩餐

 私が入浴を終えて浴室を出た時もまだ、やっぱり先生はピアノの傍にいた。世界や時代が違っても変わらないこともある。空が同じだと先生はおっしゃったけれど、音楽やピアノだって先生のいたところとここで、多少の違いはあるのかもしれないけれど本質は同じなのでは。先生が元いた世界とそこにあるあのピアノが同じかどうかは分からないけれど、別世界に来てしまった先生は不安で、だから変わらないもののそばにいる方が落ち着くのかもしれない。


「先生、お待たせしました。そろそろお食事にしましょうか」

「ああ、詩さん」

 開けたままのドア。ここから声を掛けると先生は愛想の良い顔でこちらを見る。

「先生、何を弾いていたんですか?」

「特に何も……。ただ何となく、この鍵盤と戯れていただけです」

「鍵盤と戯れ……。なるほど……」

「このピアノはなかなか粘度の高い感触がしますね」

「粘度の高い感触、ですか?」

「ええ。しかし大変良い楽器です。いい音がしますし、よく手入れされている感じがします」

「そうなんですかね……」

「詩さんがいつもこの楽器を?」

「私なんか、小学生の頃に少し習っていただけで…練習しなかったから全然上達もしなくて……。最近はあまり弾いていませんでした……」

「ピアノはお嫌いですか?」

「いえ、好きです。好きは好き、なんですけど……」

「こんなのはいかがですか?」

 シューベルトが突然ピアノを弾き始める。何か美しい感じの、難しそうな曲。シューベルト、めちゃくちゃ上手いな、ピアノ。指の動き方が早いししっかりしているし…軽々とこんなことができるところを目の当たりにすると……。でも、この人は大作曲家、シューベルトなのだから、当たり前、なのかな……。

 先生がピアノを弾くと部屋の空気が変わる。とても優しく美しくて、うっとりするってこういうことなんだろうなって、うちのピアノがこんなに美しく聞こえるのって初めてだな、なんて思ったりして。

「詩さん、この世界のあなたがこれを聴いてどう思うのかぼくには分かりませんが」

「いえ、すごくきれいで…なんかすごいなって……。すみません、私…上手く言えないんですけど、感動しました。素敵でした」

「ありがとうございます」

「シューベルトの、いえ、その、先生の音楽が素敵なのは時代とか国とか、そういうのは関係ないと思います。私、今のこの曲、すごく好きでした」

「詩さんがそう思ってくださって良かったです」

 何だろう、この不思議な感じ。私は今、シューベルトの音楽をシューベルト本人の演奏で聴いた?

 なんか、音楽の詳しいことがきちんと分からなくてちゃんとしたコメントを言えなくて……。でも、今感じた音楽は本当に素敵だと思ったし、好きだなって。あまりにも単純過ぎる感想だけど……。

 そんなことしか言えなかったけれど、先生はそれでもうれしそうだった。

 この程度の感想で申し訳ない、と思いながら先生の顔を見ると温和な微笑み。この人のことが何だかものすごく不思議に思えてその瞳を見つめると、吸い込まれそうなほどの何かを感じる。それでいても立ってもいられなくてつい、違う話をしてしまう。

「あ、あの…これ、ここを押すと明かりがつきますから、暗くなったら電気を使ってくださいね」

「また電気ですか?」

「そうですね。また電気ですね」

「電気も神が作ったのですよね?」

「あ、ええと…その……。この世のものは全て神の創造物なんですよね?」

「詩さんはどう思いますか?」

「ええと…先生はキリスト教徒ですか?」

「もちろん。まさか…あなたは違うんですか?」

「まさか、と言われるとつらいのですが……。その、私は……」

「神を信じていない?」

「何とも言えませんね。分からないと言うか……」

「なんと。それは……」

 なぜか悲しそうに下を向く先生。私、キリスト教徒になる必要がある? でもここ、日本だし……。

「あの、お食事、私も先生とご一緒していいですか?」

「もちろんです」

「そしたらぜひ、向こうで一緒に」

「詩さんが支度してくださったのですか? それともここには誰か他に……」

「すみません、今日は買ってきたものです。先生がお好きなグラーシュはまた後日に……。今日は出来合いのものを召し上がっていただいても良いでしょうか」

「お世話になっているのに何を言うつもりもありません」

「さっき、水を飲むと体調を崩す、とおっしゃいましたよね?」

「はい、言いました。具合が悪くなっては良くないですから」

「水って体に悪いんですか?」

「そのまま飲むと病気になることがありますよね」

「そうなんですか……」

「水に当たって死ぬことだってあるじゃないですか。だからビールです」

「な、なるほど……」

「ビールなら栄養もあるし発酵している。生水は本当にやめた方がいいですよ」

「生水……。そうですか……」

 ビールで栄養を摂るという発想……。私には斬新に聞こえるのだけど……。


 テーブルを整えて大作曲家先生と向かい合う。買ってきたものを並べて、さっと簡単に拵えたサラダも置いて。先生はどれを召し上がるかな。先生が食べられるものってあるのかな……。

 食事を前に何かをぶつぶつつぶやき始めるシューベルト。よく聞こえない。どうしたのかな……。心配で先生をつい観察してしまう。

「大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫です」

「良かったらこちら、どうぞ。先生、ええと、ここに並べた食べ物、食べられそうですか?」

「見たことがないものばかりが並んでいますね」

「そうでしょうね。こちらは天丼。天ぷらです。こちらはかつ丼。豚肉を揚げたものを卵でとじたものです。これはピザ。ピザはご存じですか?」

「ピザ?」

「ご存じないですか? イタリアの食べ物なんですよ」

「イタリアは知っています」

「そうですよね」

「でも、ぼくはそこへ行ったことはないんです」

「そうですか。私もないです」

 ひとまずいろんなものを少しずつお皿に取り分けてお出ししてみる。フォークとナイフ、それにお箸。どれをお使いになるのか。

「よろしければどうぞ、お試しください」

「ありがとうございます。食事前のお祈りはされますか?」

「あ、ええと…すみません、私、普段はそういうことをしていませんでした……。ただ、代わりにここでは…「いただきます」と言うことがお祈りみたいなもので……」

「いただきます、と言うのがお祈りなんですか?」

「まあなんて言うか…そうなのかな……。文化の違いですかね……」

「ははあ、なるほど。ぼくは両親ともキリスト教徒なんです。だからいつも神に祈ってきました。食事の前にも感謝を捧げます。食前の祈りは我が家の習慣でした。子どもの躾にもなりますしね」

「なるほど。そしたら、そうしましょう。あの、先生…私も一緒にいいですか?」

「分かりました。では」

 目を閉じるシューベルト。私もそれに倣って……

 私が目を閉じるとシューベルトがおもむろに声を出す。

 来たれ、主イエスよ、われらの客となりたまえ。あなたが与えてくださったものを祝福してください。アーメン。

 うわ……。シューベルトが食前の祈りを唱えている。と、彼の声を聞きながら私はうっすら目を開いて目の前のおじさんをこっそり見つめる。キリスト教徒は、こういうふうにするのか。

「詩さん」

「はい」

「私達の友情に乾杯しませんか?」

「あ、ああ、ぜひ……」

 友情。私達の友情、だって。

 不思議だけれど、本当に不思議なのだけれど、私はこの人のことが全然嫌ではない。大体、さっき会ったばかりでこの展開。見知らぬ人を家に泊めるとか……。自分でもこの流れについていけていないことは理解している。ただ、先生がお困りのようだったから。それにしても……。何だろう、これ。

 そもそもこの人。自称シューベルト。時空を超えた大作曲家。そんなことがあるはずは……。でも、少なくともピアノの腕前は本物だった。ものすごく上手かった。ピアノ一つで私を世界の反対側まで連れて行ってくれた、それくらい素敵だったから。

 そして何よりも先生のお人柄。今のところ、嫌なところが全然ない。謙虚で優しいし誠実なのが隣にいるとよく分かる。多分、先生はどこの世界にいてもものすごくいい人なのだと思う。自然と人を気遣うことができる優しさを持っていて控えめで、私にも、時代も世界も違う人間なのにそういう元々の気質で接してくれている。きっと誠実で曲がったことなどしないのだろう、ということがそばにいるだけで伝わってくる。だから私は先生をこの家に招き入れたのだろうし。

 認めたくはないけれど、私が先生に急速に惹かれていることは…まだ認めないでおくことにしよう。私はまだ、この人に会って数時間……。

 目が合うと恥じらいを含んだ微笑み。それが何だか堪らない。そのシャイな笑顔から察する。この人、人見知りなんだなって。

 そんな顔を見ているとなぜか私がとろけてしまいそうになるので、それを抑えるために私は無駄に声を出す。

「どうぞ。よろしければ召し上がってみてください。お口に合わなさそうだったらどうかご無理はなさらず」

「ありがとうございます」

「サラダはどうですか?」

「これは?」

「サラダはあまりお得意ではないですか?」

「サラダ……。これは、葉っぱをそのまま食べるのですか?」

「葉っぱ? ええ、そうですね。葉っぱと言って…食用ですし洗ってありますよ」

「ウサギみたいですね」

「ウサギ……」

「ウサギや馬は草をそのまま食べますが、ぼくは普段はこういう草をそのまま食べる、というのは…その…あまりしたことがなくて、ですね……」

「あ、そうなんですね……。草……。すみません、よく存じておりませんで……」

「すみません。見たことがない食べ物ばかりで…楽しいですね……」

 無理をしてくれているのかな……。何もかもが違う世界なのだろうから、それもそうだよね……。

 せっかくだからシューベルトに何か聞いたほうがいいのかもしれない。音楽のこととか、元いた世界のこととか。だけど、実は私はクラシックに疎くて……。きれいな曲がたくさんあるのは知っていてそういうのは好きなのだけど、シューベルトがどの曲を作ったのかよく知らなくて……。

 だから…どういう話をしたらいいのかな……。

「あの、先生」

「はい。詩さん」

「いえ……。何でも……」

「詩さん。あなたがぼくを呼ぶ時の先生という呼び方」

「あ、すみません……。嫌ですか?」

「いえ、全然。呼びやすいように呼んでいただけばいいのですが、ぼくは実際に教師をしていたことがあるんです。だから、そのことを思い出したりしました」

「え、そうなんですか? 先生、先生だったんですか?」

「クソガキどもの相手ですよ」

「え?」

 シューベルトが、笑ってる……。これ、冗談? 私ももっと笑った方がいい…のかな……。

「いや、失礼。ぼくの家は学校をやっていましてね」

「へえ、お家が学校をやっている?」

「ぼくが生まれた家は学校だったんです。一階が教室、二階はぼくら家族の居室です。ぼくの父は教師なんです。今は校長です」

「へえ、すごい。お父様も先生なんですね」

「そうです。兄達もね。だからぼくも……」

「ご自宅が学校だなんて、賑やかそうでいいですね」

「ええ。朝から子ども達が集まって来るので賑やかでしたね」

「そこで先生も子ども達に勉強を教えていたんですか?」

「そうです」

「小学生?」

「そうですね」

「へえ。それはかわいらしいですね」

「聞かない子ばかりで苦労しました」

「そうですか」

「クソガキなんですよ」

「そのお言葉は……」

「いえ、子どもはかわいいのでしょうけれど、ぼくはあの仕事があまり好きではなくて」

「そうですか。先生は子どもがあまりお好きではない?」

「どうでしょう。ぼくは子どもを静かにさせて勉強させるのが得意ではなくて」

「なるほど。分かる気がします。では、教師の傍らで作曲を?」

「そうですね。教師は仕方なく、ですね。兵役を逃れるため、というのもあって」

「ああ、なるほど。実は私、保育士なんですよ」

「保育士とは?」

「子どもの世話をする仕事です」

「ああ、そうなんですね」

「子どもが好きなのでこの仕事を選びました」

「それは素晴らしい」

「亡くなった母も実は保育士だったんです」

「ああ、なるほど。それであなたも?」

「私は自然に、そういう仕事をしたいと思ったからこの仕事を選びました。母に強制されたわけではないのですが」

「それは良かったですね。ぼくは父に強く言われ続けていました。教師になるように、と」

「そうでしたか。だけど先生は教師の仕事があまりお好きではなかった?」

「ぼくは作曲をしていたいのです。ぼくには音楽だけです。そもそもぼくはああいう世俗的なことが苦手なんです。教師なんかぼくには向いていません。やりたいと思ったこともないし、無駄な時間ばかりです。子ども達を静かにさせて勉強させる、なんて性に合いません。子ども相手なんてね。そんなことよりもぼくは音楽に時間を費やしたいのです」

「なるほど、そうですか」

「教師になりたいなんて微塵も望まないのにそれをしたのは父の意向です。ぼくはそれを本当に全くやりたくなかった。だけど言われるがまま、教壇に立つことになりました。当時は若かったので親の意向と仕事と、どうすれば良いのか分からなかったんですよね。どうすることもできなくて」

「なるほど、そうなんですね……」

「ぼくはいつだって音楽を書いていたいんです」

「先生には才能があってその頭の中に音楽がたくさん入っていらっしゃるのでしょうから、もちろんそうですよね」

「ぼくはやっぱり、教師より音楽がいいですね」

「教師の仕事というのは、何の科目を教えるのですか? 音楽は?」

「音楽を教えることもあります。でもぼくは子どもにそれを教えるよりも自分の作曲に時間を使いたかったのです。それに、教師としてのほとんどの時間は子ども達に読み書きと計算を教えるような、つまらない時間ばかりです」

「ああ、なるほど」

「詩さんはご自分のお仕事が好きですか?」

「はい。私は子どもが好きなので。もちろん…嫌なことも多いですけどね……。だけど私も本心は先生と一緒です。現実って、仕事って、大変だしつらいことも多いし面倒なことばかりで嫌になります。本当はもっと夢を見て生きていたいですけど……」

「大変ですね」

「皆同じですよね」

「詩さん。あなたの人生乾杯しておきましょうか」

「いえ、私達が出会えたことに乾杯しましょうよ」

 先生が常に優しい笑みを持って私を見てくれることが心地良かった。だからかな……。一緒にいていい気分だな、と感じていて……

 先生は会話が大変お上手なのだと思う。良き聞き手で、自分が話す時にもその口調が全然押し付けがましくない。聞く、と話す、の加減が絶妙で、先生を相手に話しているとつい心地良くいろんな話をしてしまう。

 そこから私は先生が相手してくれるのをいいことに飲み過ぎてしまったのかどうか……。二人でお酒を注ぎながら夜遅くまで話していたような気がする。おそらく酔っぱらっていたのかもしれない。

 気が付いたら眠っていて、目が覚めた時、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。

 そうだ、今日は早番。忌引後の復帰初出勤。

 身支度をして仕事に、と思いながら昨日のことを思い出す。昨日の出来事って、どこまでが現実?


 寝室をそっとのぞくと…やっぱりいる……。シューベルト。

 でも、そこにいるのがもう、私がイメージする教科書に載っている作曲家のシューベルトではなく、私の友人である「先生」になっている。

 先生も酔っぱらったのかな……。眼鏡をかけたまま寝てる……。

「先生」

「ああ…詩さん……」

「おはようございます。ご気分はいかがですが?」

「ええ、大丈夫」

「私、仕事に行ってきます。テーブルにパンとお茶を置いていきますから召し上がっていてください。今日は家の中にいていただけますか?」

「わかりました」

「夕方には仕事から戻りますから」

「分かりました。お仕事、がんばって。お気を付けて」

「はい。では、先生はまだごゆっくりお休みくださいね」

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