第4話 今日はこちらでお休みください

 最初はこの人を説得して警察署に連れて行くべきかな、と思っていた。記憶喪失とか、精神的なご病気だとか、そういうことなら保護する必要があるのだろうから。

 それとも、本当に時代と場所を超えて何かの間違いでここに来てしまったのだとしたら、戻る方法を考えないといけない? こういうことを考えているとSFや異世界が得意ではない私は頭が混乱して訳がわからなくなってくる。

 とりあえず…とにかく、この人のことをこれからどうするべきなのか、本人と話し合って目下の対応を検討しようとカフェに行ったらそこで延々楽譜を書き続けるばかりの大作曲家。結局そこでは何も考えられないまま、お茶一杯でそこに粘るにはあまりにも時間が経ち過ぎていたような気もして…だからそこは一旦出た方が良いかな、と察してそのカフェを後にする。もう結構いい時刻。

 もし今日、この人に本当に居場所がないのだとしたら……

 賭け、かな……。私の勘だと、この人は本当にその時代から来たシューベルトで、謙虚で優しくて、決して悪い人ではない。私の目にはそう見えた。だけどそんなわけない。そんなことがあるはずがない。と頭の中では冷静に警戒する気持ちも。私の勘なんかいつも大抵当たらない。でもやっぱり素直にシューベルトだと信じられる何かがあるような気がする、というこの感じを信じたい気持ちと……

 もう私だって何をどう考えれば良いのか分からない。考えたって本当に何も分からない。もう、全てを放棄して考えるのを止めようかな……。


 だから私はカフェを出てそのままこの自称音楽家のシューベルト氏を母のいなくなった一軒家の実家にご案内することに。

 正直、ずっと母と二人だったのに急に一人暮らしになってしまって一人で家にいることがつらかった。だから先生をお招きできた、というのもあるかもしれない。

「先生、今日は我が家へご案内します。ここから少し歩きますが、すぐ着きますからご辛抱いただけますか」

「ありがとうございます。感謝します」

 シューベルトって…腰が低いのかな……。さっきから、大作曲家の割に全然偉そうじゃない。

 二人で歩き出す。私にとってはいつもの道だけれど、先生にとっては初めての道なのだろうし、そもそも初めての時代だし。時代ってもう……何だかよく分からない。

 そういえば、サンダルが何かも買ってあげれば良かったのかもしれない。先生の靴は土埃を被ったような古いもの。

「詩さん」

「はい」

「ここには馬車はないんですね」

「馬車はないですね。馬を飼うのは大変ですから……。先生は普段は馬車でご移動を?」

「いつも乗るわけではありません。でももちろん、馬車を使ったことはあります」

「すごいですね。おとぎ話みたいです」

「おとぎ話ですか? 馬車が?」

「ええ」

「詩さんが暮らすこの世界ではあの車輪がついている乗り物が馬車の代わりなんですね?」

「ああ、そうですね……。あれは車と言います。今日は歩かせてしまって申し訳ないです……。車には今度…いつか…お乗りいただく機会を作れたら……」

「あんなものに乗れたらすごいですね」

「私からすると馬車の方が素敵ですけどね」

 お互いの世界が違い過ぎてちょっと話をするだけで混乱するけれど異文化交流みたいで楽しい。異時空交流、かな……。

「詩さん」

「はい」

「夕焼けも、ぼくの見ていた空と同じですよ。空は、変わらないんだなあ……」

 向こうの空を見るときれいな夕日が沈んでいくところだった。

「ああ、確かに。空、きれいですね」

「この世界も同じなんですね。きれいな景色がある」

 空を見上げる時の先生の表情が何とも言えない。優しくて繊細な人なんだろうな、と思う。

 お話しながら先生がどういう方なのか、本当にタイムトラベルをしてきたのだとしたらどうやってここに来たのかその経緯を聞いて元の世界に戻る方法を考えなくては。なんて、そんな映画みたいなことがあるはずないよね、と結局、このことを考えようとすると頭の中が混乱して何も考えられなくなってしまう。

 でも、一番混乱しているのは他でもない先生ご自身なのだろうし。現代に来てしまったシューベルト。そんな下手なストーリーがあるはずないのに。


 とりあえず…先生は何を召し上がるのかな。まずは夕飯のことを考えることの方がが現実的かもしれない。先生がどこの誰で、どんな時代から来たとしても、お食事は召し上がるのだろうし。

 さっき教えてもらったのは「グラーシュが好き」ということだけれど…グラーシュと言われたって……。初めて聞いた料理名……。作ったこともないし材料も揃っていないし。それにカフェであまりにも長く過ごしすぎて時刻ももう遅いから今日は今から料理をするのも……。


 ひとまず住人が私だけになってしまった家へご案内。

 母が亡くなりこの家の主がいなくなってしまった。ついこの間まで母と二人で住んでいたのに。

 さっきまでいた人が突然いなくなる。そんなことがあるのかな……。でも、これは現実に起こった出来事で……。

 母は体調を崩した、と思ったらあっという間に亡くなってしまった。だから私は今でもそれが信じられなくて、まだ母が帰ってくるような気がしていて。

 だけど現実的にこの家をどうするべきなのか、私がここに住むかどうするか、今、母亡き後のいろんな手続きをしながら迷ってる……。でも、家や土地を売却するのも大変そうだし、ここは残しておいた方がいいのかな……。でも私、一人なのにこの一軒家って……。

 父がもうかなり前に亡くなって母まで。そして私が一人でこの家に残った……。

 死亡後の手続き諸々、分からないことばかりだし、もう考えたくないのだけど……。

 今日のところは、シューベルトを連れて帰ってきてしまったからこのことを考えるのはやめておこうっと。

 家のこと、母の死後の手続き、大作曲家先生のタイムトラベルのこと。どれ一つとして頭の中がすっきりクリアになるものがない。こんな問題に苛まれている私って一体何……。

 もう、全てのことを考えるのをやめにしたい。


 とりあえず先生をご案内しなくちゃ……。

「先生、こちらです。どうぞ」

「失礼します。ははあ。ここが詩さんのお母様が住まわれていたお家なんですね」

「はい。狭いですけど、適当に過ごしてください。あ、ここでお履物を脱いでいただいてもいいですか?」

「え? 靴を脱ぐんですか?」

「申し訳ないのですが、どうか…お願いします」

「分かりました」

「ではこちらへ。一つずつご案内していきますね。こちらはお手洗いです。こちらは浴室。キッチンはここで、お休みになる時は向こうの部屋のベッドをお使いください。あとでベッドメイクをしますね。エアコンはご自分が快適になるように調整してくださいね」

「よくわからないのですが、エアコン、とは何ですか?」

「あ、エアコンは、部屋を涼しくする道具です。これがリモコン。これが電源ですね。これを押すと風が出始めます。それで温度はここで調節してください。こちらを押すと涼しくなります。こちらを押すと暑くなります。あそこから風が出ているんです。もうすぐ部屋中涼しくなりますから」

「ほう……」

「お風呂の支度もしますね。使い方をお見せしますので付いてきていただいていいですか?」

「はい。お風呂、とは?」

「あ、ええと…先生、ご入浴、されたいですよね? 今日は暑かったですし……」

「湯浴びですか?」

「ええ、まあ……」

 湯浴び……。感覚的なものが完全に違うのかもしれない。この人は本当に時代と場所をワープしてきたのか……。多分こういうお風呂なんかは、シューベルト先生の時代には無かったのだよね……。

「一応説明しておきますね。これがお湯のスイッチで、ここで温度の調整ができます。蛇口をひねるとお湯が出ます」

「詩さん」

「はい」

「誰が湯の番をしているのですか?」

「え?」

「この家はどういう仕組みで……」

「お湯は電気で作っていますから。湯の番なんて……。ここには私達しかいませんよ」

「一体何なのだろう。ここはあまりにも不思議です。驚きますね……。明かりはガスですか? ろうそくではないですよね? どこもかしこも昼間のように明るい」

 普通のことにいちいち感動するシューベルト先生。何だかおかしい。湯の番って……。何時代、と思ったけれど……。先生の時代って…何時代…?

「ええと、大体電気なんですよね……。明る過ぎるようなら調節しましょう」

「はい」

「ひとまずお部屋で休憩されますか? ご入浴の準備が出来たらお声掛けしますので。と言って…そうでした……。先生、すみません。一番大切なところをご案内していませんでしたよね」

「一番大切なところとは?」

「こちらに来ていただけますか?」

「はい」

「ここです。見てください、先生。この部屋がピアノの部屋です。と、言うほど大層なピアノではないのですが、良ければ好きなようにお使いください」

「ピアノをお持ちだなんて素晴らしいですね。ちょっと楽器を触ってみてもいいですか?」

「もちろん。どうぞ」

 やっぱり音楽家、なのかな。ピアノへの食いつきは何にも勝っていた。ピアノに向かって軽く音を出したかと思うと何かとても難しそうな曲を奏でている。あんなに弾けるなんて。上手い。当たり前か……。シューベルトだものね……。シューベルト? 本当に? 今日、このおじさんに出会ってからこれをもう何回思ったのだったか。

 とりあえず、ピアノの腕が鮮やかなことは証明された。この方、相当お上手……。ピアノの実技で苦労した私とは大違い。試し弾きでさらりと鳴らしているその音が、指が並ではない。

 私が聞いたことのない曲を奏でてさっきの五線譜を取り出す。また書き始めた。

「あ、あの、すみません。しばらくここにいてもいいですか?」

「もちろんどうぞ。作曲されるのですか?」

「はい。少し曲を練ります」

「分かりました。どうぞ、ごゆっくり……」

 またしばらく集中するのかな……。どうぞごゆっくり、ご自由に。

 ベッドとお風呂の支度をして、それから、買い物に行こうかな。今日はもう訳が分からなさすぎて疲れたので出来合いのお惣菜でも買って……。

 ピアノの前から動かない大作曲家先生にそっと声を掛ける。

「先生……」

「はい?」

「すぐ戻ります。ちょっと買い物へ……」

「ああ、分かりました」

「お食事、何か食べたいものはありますか?」

「この世界の食べ物ってどんなものなのでしょう」

「そうですよね……」

「どうぞ、お構いなく」

 優しく微笑むシューベルトの笑顔がやけに脳裏に焼き付く。


 自転車で近所のスーパーに向かって走り出す。大作曲家先生用のパジャマと洗面用具。あとは何? 男の人だから髭剃りも必要? そしたらそれ用のクリーム? あと何か、化粧水みたいなものも使うのだっけ? それから何? 男性の身支度が未知で困る。

 それから今日の夕食。先生って…シューベルトって…何を食べるのかな……。

 お惣菜コーナーを見てみると、当然日本の庶民が食べるものしか並んでいない。どれもこれもおいしそうだけど、時空を超えてやって来た先生のお口に合う食べ物なんか……。

 カツ丼、天丼、サンドイッチ。ピザなんか食べるかな。あ、焼き鳥は? お寿司? でも昔の人に生魚なんてちょっとハードルが高いかな。

 お酒は飲むのかな。せっかくだからご一緒に。ワイン? ビールかな。あとは万人受けしそうなお菓子を買っておこう。こういうものなら時代も国も性別も問わずに食べられるのでは。

 なんて、どうして私、こんなふうにわくわくしているのかな。

 先生は確かに音楽家のようだけど、それがなかったらただのおじさん。本当に、その辺にいそうな、ただのおじさん。でも実は歴史的大作曲家。シューベルト。

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