第3話 At the café with Schubelt
カフェで五線譜に向かう大作曲家を目の当たりにして、最初はすごい勢いで音符を並べていくので「すごい」と感心していたのだけれど、それも大変無礼なもので見慣れるとその凄さも時の経過と共に薄れてしまう。
さっきの楽器店で楽譜を見ていた時と同じ。先生の瞳が集中して燃えている。この様子では声を掛けづらいし、話しかけてもきっと今は聞こえない。
お腹空いたな……。さっきからずっとこうしている。先生は楽譜を書き続けていて、私はそれを眺めながらお茶を飲んでいてほぼ会話はなくて。
シューベルト、いつまで書き続けるのだろう……。
スマホで暇つぶしにゲームをしていたら充電がみるみるうちに半分以下。さすがにそろそろ……
「先生」
「はい」
「その、それって…あと、どのくらいかかりますか?」
「ああ、そうですね……。すみません……。もう波は引きます」
「それは何を書いていらっしゃるのですか?」
「これは弦楽四重奏曲です」
「弦楽四重奏……」
「浮かんだことは書き留めておかないと忘れてしまいます。それで、今書いたこの曲がいいものになる予感がしたんです。だから、書き留めておきたいな、と思って」
「なるほど……」
「これ、どう思いますか?」
小声で私に向かって口を尖らせ何やらメロディーを呟く大作曲家先生。
「なんか、暗い曲ですね……」
「そうですね。まずいですか?」
「いえ全然。ただ、私には…よく分からなくて……」
「Fmoll」
「はい?」
「エフモール。他の楽器と重なるともっと雰囲気がわかるかもしれませんが」
「なるほど……」
「詩さんは音楽ができますか?」
「ピアノを少しだけ。本当に、少しだけです」
「素晴らしいです。さっきは何の楽譜を見ていたのですか?」
「あなたの楽譜です。だって、あなたがシューベルトだとか言うから」
何だか、この状況がものすごくおかしく思えてきて、一人で笑ってしまう。このおじさんがシューベルトだとか。アロハシャツのシューベルト。そんなことがあるわけがない。
「シューベルトはおかしいですか?」
「いえ。でも、今日からこの楽譜を練習してみようかな、と思います」
困惑気味のシューベルト。さっき自分用に購入した楽譜を取り出して見てみる。これは現実的に、私にはちょっと難しいかも。でも、そういう縁だと思って買ってみた。
「私はおそらくこの楽譜は難しすぎて弾けないと思いますけど……」
「ぼくの曲なんか全然難しくはないと思います。もしうまく弾けないところがあるなら、どうぞ他に弾ける曲を探してください」
「先生が作った音楽の中で一番のおすすめは何ですか?」
「ぼくが作った音楽の中で、ですか?」
「はい」
「もう、自分で作ったのに忘れている曲もあるんです」
「そんなものなんですか?」
「そんなものです。頼まれたり、友人のリクエストでさっと作ったものなんか、記憶に残りづらくてすぐに忘れてしまうものもあります」
「そんなに曲が浮かぶのはすごいですね」
「いや、曲なんかいくらでも。即興だったらその場で生まれてすぐに消えていく」
私を見てからまた五線譜に目を落とす先生。不思議だな。ねえ、大作曲家先生。そんなことより、とりあえずごはん食べに行きません? お腹空きませんか? なんて、こんな真剣に楽譜を書いている人には言い出しづらい……。
ようやく先生のペンが止まる。
「小休止ですか?」
「ええ。目と手が疲れました」
「そうでしょうね。こんなにずっと……。先生、お腹空きません?」
「ああ……。そうですね……。しかし……」
どうしようかな……。どこかで一緒に食事でも……。この人、何を食べるのかな……。
「先生、好きな食べ物は何ですか?」
「食べ物……。そうですね、ぼくはグラーシュが好きですね」
「グラーシュ?」
「詩さんはグラーシュ、食べませんか?」
「どんな料理ですか?」
「グラーシュを知らない人にそれがどういう料理か説明するのは初めてです。どう説明したらいいのかな……」
「私はモノを知らないもので……。すみません……。そしたら……」
スマホ検索。あ、出た出た。あるんだ、そういう料理が。なるほど、シチューみたいな料理か。
「先生、これですか?」
「ああ、そうですね。しかし詩さん…なぜこの絵をお持ちだったのです?」
「これは確かにおいしそうですね」
「あの」
「はい?」
「その四角い道具は一体何なのですか? どういう仕組みで……」
「これはスマホです」
「スマホ?」
「スマートフォン、ですね。電話であり、パソコンみたいな使い方もできて……」
「電話って何ですか?」
「え? 電話というのは……」
「皆それを持っているんですね? 向こうの人も、道を歩いている人達も、皆それを見ていますね」
「そうですね。これがあるといろんなことができるんですよ。こうすると画面が動くんです。それでこうして押してみると……。あ、そうだ。先生の作品を」
シューベルトで検索。ご自分の曲を聞いていただく。しかしシューベルトにシューベルトを聞かせる、というのも……。
「おお、これは!」
「この曲、ものすごくきれいですよね」
「ああ、ありがとうございます。これは評判が良くて、そんな評価をもらったときにはぼくもうれしかったんです」
「そうですか」
「だけどなぜぼくの曲がこの板から?」
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