第2話 お茶しに行きましょう
楽器店を出て、ではお茶でもご馳走してお話を聞いてみようかな、と店の外に出ると危険な暑さ。今日は熱中症の警報が出ているのに違いない。外に出て数秒でもう汗。時刻もちょうど昼時だし…一番暑い時間帯かな……。
それなのにこの人のこの格好……。大道芸人みたいな服を着たシューベルトはその格好のままだと確かにシューベルトに思えるけれど、これではさすがにこの暑さにやられて倒れてしまう気がする。
「暑いですね」
「信じられないほどの灼熱ですね。何か起こっているのですか? なぜこんなに暑いのですか?」
「温暖化だから、ですかね……。この世界の夏なんか、いつもこんなです。とりあえず具合が悪くなる前にどこか涼しいところへ行きませんか」
「見てください」
「え? どうされました?」
「空です」
「はい?」
シューベルトが空を指して眩しそうな顔をしている。
「空がどうしたのですか?」
「何もかもが違っているのに、空は…同じなんですね……」
「ああ……」
「違う世界でも同じ事がある……」
今日は雲一つない真夏の青い空。空は同じ、か……。詩的だなって。私はこういう男性と普段話す機会がないから…こういう男の人が「空が……」なんて言うのが不思議な感じがして、でも、この人が芸術家なのだとしたら、そういう感性を持っている?
もしこの人がシューベルトで、その世界から飛んできたのだとしたら、確かに何もかもが違うはず。でも空は同じ……。それは、そうだよね……。シューベルトの音楽だって、あなたが作った時のままだと思いますよ。
「やっぱり、世界はつながっているのか……」
空を見つめるシューベルト。見上げるその顔に乗っている眼鏡が光る。もう…その格好……。見ている方が暑くて……。
「あの、とりあえず行きませんか?」
「はい」
「あの、シューベルトさん。一つ提案があるのですが」
「何ですか?」
「お荷物って、何もお持ちではないですか?」
「はい。気が付いたらこういうことになっていたのでぼくは何も持っていません。だから困っています……」
「そしたら、ちょっと一緒に買い物をしませんか。ご案内しますから」
「買い物?」
「服を買いましょう。今は夏です。そのお召し物、どう見ても暑そうです。暑いですよね? もう少し涼しい服を着ませんか?」
何とも答えない作曲家を半ば無理やり駅ビルに連れて行ってよくあるチェーンの衣料品店へ。
店内には夏向けの軽い感じの服が展示されていて、こういう服を着てもらった方が一緒に歩く時に違和感もないし。あのホーンテッドマンションコスチュームではちょっと目立ち過ぎて…一緒に歩きづらいし私が恥ずかしいから……。
「服、こういう感じのものの方が涼しいと思うんですよね。色はどれがいいですか? 夏服に着替えませんか?」
慣れない場所だからなのか、見慣れない服装だからなのか、遠慮して躊躇いがちなご様子。でもその格好でいる方が……。
「あの、お好み……。色とか形とか、どれがいいですか?」
「全然わからないですね。ぼくは普段、着るものに無頓着なので」
「これなんかどうでしょう?」
「あなたが選んでくれたものなら何でも良いです」
「そしたら、これと、これ。試着してきてください。サイズとか着心地とかを確認していただいても良いですか?」
「ぼくのサイズに仕立ててくれるんですか?」
「いや、そこまでのことは……。サイズに問題がなければそのまま購入しましょう」
「ここは本当に豊かですね。こんなに衣服が溢れている。それに、どこを見ても眩しいですね」
「豊か、なんですかね……」
とりあえず、試着室に入ってもらって現代の服を着ていただく。
試着室から出てきた大作曲家を見ると、ライトなファストファッションが…それほど似合うわけでもないけれど、こういう人はまあ、いるよね、程度の雰囲気にはなったから、まあ…いいか。
アロハっぽいシャツにカーゴパンツ。これで良かったのかな……。こんな格好をした大作曲家って……。何だか…その辺にいるただのおじさんにしか見えないけれど。いや、実際にこの人はただのおじさんで私はただ騙されているだけなのかもしれない。けれど…これで一緒に歩いていてもさっきより違和感はない、はず……。
「お似合いです。着心地はいかがですか?」
「はい。しかしその、申し訳ないです」
「いえ、先程のあのお洋服はちょっと…季節が合わなさそうでしたし……」
「ありがとうございます。このことのお返しができるように考えます」
「そんなのいいですよ。ええと…そしたら、お茶でも飲みに行きませんか。もう少しお話をうかがって、これからどうするのか一緒に考えましょうよ」
「はい」
「あの…あなたは本当にシューベルト…ですか?」
「そうです。どうすればそれを信じていただけるでしょうか」
「いえ、その…信じてますよ……。シューベルトさん……」
「あの、戸塚詩さん」
「はい」
「ぼくは、これからどうするべきだと思いますか?」
「ええと…それをこれから考えます。お困りなんですよね。お茶でも飲みながら、この世界のことなら私の方が少しは……。いかがですか?」
「カフェですか?」
「そうですね。ご案内しますよ」
「しかしそれより、今日の宿……。戸塚詩さんのお住まいはどんなところで、どんな暮らしをされていますか? あの、そのつまり、そこに今晩、ぼくがお世話になることは可能でしょうか?」
「あ、ええと、そのことなんですけど、ちょうどお貸しできる場所があるのでよければそこを使っていただこうかな、と思っています」
「ぼくが泊まることができる場所があるんですか?」
「実は、私の実家なのですが、今は私しかいなくて」
「あなたのご両親のお家ですか?」
「ええ。ただ実は…この前、母が亡くなりまして……」
「ああ、それは……。なんてお気の毒なんだ。そうでしたか……」
その時からまだ数日。母のことはその後の現実的なことがひたすら忙しいばかりでまだ心が全く癒えていない。というか、母が亡くなったことを私はまだ理解できていないのかもしれなくて、自分でも訳がわからなくなっていて……。ただ、そのことをこうして改めて思い出すとたまらなく寂しくて……。
今日こうして外に出てきたのだって忌引で……。
さっき出会ったばかりの自称作曲家だと言う見知らぬおじさん。自称シューベルト氏を相手にその出来事のかけらを口に出しただけでもうすでにちょっと涙が浮かびそうになる。でも、まだ数多くこなさないといけない手続きも全然進んでいなくて、ゆっくり悲しんでいる暇もなくて……。
こんなところで突然泣かれてもシューベルトだって困惑するだろうし。どうにか感情を抑えながらの受け答えを。
「ええと、そんな家で良ければ泊まってもらって構いませんよ。あ、アップライトですがピアノもあるんです」
そう言って彼の顔を見たら優しい瞳で見つめられ、それから抱き締められた。これは彼の文化圏の慰め方? そうくると思っていなかったから、だけどその仕草がとても優しくて。
努めて平気なふりをしていたけれど、ちょっと気を緩めて一瞬涙が浮かんだところを見られた、かな……。私、悲しみを隠しきれていなかったのかな……。
そもそも人に抱きしめられるなんていつ以来……。さっき出会ったばかりなのにこんな街中でぎゅっとされてる……。
そういうふうにされながら私、すごく悲しいんだな、と改めて思う。そしてここにいるこの人って、すごく優しいんだな、と思ったら……何だか優しい気持ちになって…心の中に何とも言えない淡い色が溶けて広がっていく。
シューベルトって(この人が本当に時空を超えてやって来たシューベルト本人だとすれば、の話だけど)…優しいんだ。そんなこと、みんな知ってた? そんなところまで教科書には書いていないよね。シューベルトのイメージって、魔王みたいな怖い曲を書いた大作曲家。だけど生身の彼は(って、本当にこの人がシューベルトなのかどうかは怪しいけれど)とても思いやりがあって温かくて優しい人なんだなって、一瞬この人の胸を借りたからしみじみ思う。それともこの気持ちは私が母を亡くしたばかりで弱っているからなのかな……。
この人に対して警戒と気を許してしまいそうな気持ちが混ざってちょっと混乱してる……。
それで、こんなに優しくしてもらってそんなことを言ったらいけないのは分かっているのだけど、シューベルト、ちょっと変わった匂いがする……。この距離だったから…つい……。何だろう、これ……。ろうそくみたいな…何とも言えない香り……。歴史の香り? そんなわけないか……。古い部屋みたいな、埃みたいな……。
「あの、ええと……。慰めてくださったんですよね…? すみません、つまらない話をしてしまって……。でも、その…ありがとうございます……」
「母親を亡くすなんてつらいことです。まだ最近のことですか?」
「はい……。まだ最近……。本当に…最近……。ここ数日のことで……。もう、いろいろと大変なんです……」
「そうですか……。それは、とても悲しいですね……」
彼も悲痛な表情になってくれているけれど、大丈夫、と言うしかないし、見ず知らずのおじさんにそれを話したところで母が生き返るわけでもないし。
泣きたいけれどこんなところで泣くわけにはいかない。それにこれは、涙を流したところでどうにもならない。
けれど、その日からまだほんの数日。実は今はまだ毎日一人になると泣いている。
駅ビルの中の適当なカフェ。ここに入ろう、と二人で席に着く。まるでデートだな、と、それほどハンサムでもないような(なんて失礼な)自称大作曲家の顔を見ながら心の中で呟く。
「戸塚詩さん」
「はい。あ、もう、呼び方、そんなにかしこまっていないで詩って呼んでいただいていいですよ」
「では詩さん、こんな時に恐縮ですが、五線譜をお持ちですか? さっき、印刷してくださる、とおっしゃっていたような」
「ここが済んだら私の家で印刷しましょうよ。何枚でも刷りますから。それより何か飲みませんか?」
「今欲しいのです。五線譜。今。だめですか?」
「え、今ですか? 後にしません? お茶を飲んでから……」
「今欲しいんです。どうか、お願いできないでしょうか」
ものすごく切羽詰まっているような、悲痛な様子になってきたシューベルト氏。もう一秒だって待てない、そんな雰囲気。音楽が浮かんだのかな……。作曲家って、そういうもの?
「そしたら…ここでちょっと待っていてください。すぐご用意しますから」
幸いここは駅ビルなので行きがけに急いでコーヒーを二つ注文。それからちょっとカフェから席を外して文具店へ。五線ノートとペンを購入。シューベルトが何だか悲痛で苦しそうだったから急いで走って彼の元へ戻る。
「お待たせしました、シューベルトさん」
「詩さん」
「はい」
「ぼくのこと、フランツと呼んでください」
「フランツ……。何だか呼びにくいですね……。あなたは私達からするとどうしたってシューベルトなので。だって…あなたがもし、あの有名作曲家のシューベルトだとしたら……」
「”私達からするとシューベルト”というのは、どういうことでしょう?」
「いえ、何でも……。あなたは有名だから…今まで心の中では呼び捨てにしていたので……。だって…シューベルトはシューベルトだし……」
「そのシューベルトは、ぼくのことですか?」
「もちろんそうです。私は他のシューベルトなんか知りません。魔王のシューベルトですよね」
「おお! 詩さん、あなたもそれをご存知で?」
「日本人ならほとんどの人が知っていますよ。学校でも教わりますから。あの曲、結構怖いですよね」
「怖いですか?」
私は結構失礼なことを言っているかもしれないのに、なぜか異様にうれしそうなシューベルト氏。
「ああ、光栄です。あの曲をあなたのような異国の方にも知ってもらっているなんて」
「シューベルトさん……。あなたは…本当に、あの…シューベルト…なんですね……」
「逆に、ぼくがシューベルトでなかったら誰なのでしょう」
「すみません、変なことを言って。でも私、まだこの状況を飲み込めていなくて」
「それはぼくもそうです」
「ですよね……。気が付いたらこの世界にワープしてきたのですものね……」
「本当に訳が分からなくて困惑しています。ここは、あまりにも眩しいです。何もかもがぼくの見ていた世界とは違っている」
「そうですよね……。そのことについて、これからどうすれば良いのかを今から一緒に考えましょう」
「ありがとう。あなたがいてくださってぼくは本当に救われています」
「いえいえ。そしたら…フランツ……はやっぱり呼びにくいですね……。あなたのことをフランツ、と呼ぶのは何だか違和感があって、ですね……。シューベルトはシューベルトなんですよね。とは言ってもそう呼ぶわけにもいかないし……。どうしたら良いのですかね」
「はあ……」
「なんて言われても困りますか?」
「よく分かりませんが、それなら、フランツルはどうですか?」
「フランツル? ほぼ同じでは…? むしろ「る」を追加しているというのはどういう意図で…?」
「少年時代にはぼくをそう呼ぶ人もいたんです。ならば、ベルトルは?」
「ベルトル?」
「若い頃のあだ名です。シューベルトの後ろの音をベルトで取ってルで止めているのです」
「はあ……。なるほど……。ええと…何だか…私にはよくわかりませんが……。ベルトル……」
「あともう一つあるんです」
「何ですか?」
「シュヴィンメルルです」
「え? 何ですって? シュヴィン…? 何? 随分言いにくいですね」
「キノコ君です」
「キノコ?」
「シュヴィンメルルはきのこです。ぼくの髪型と頭がこういう形なので」
「ははあ、なるほど。可愛らしいですね。しかしどれも…何とも、私には呼びづらいような……」
「そうですか?」
「シューベルトと言ったら私達にとっては大作曲家ですからね」
「その大作曲家のシューベルトって、ぼくのことですか?」
「もちろんそうですってば。他のシューベルトなんか、私は知りませんから。本当に」
「しかしそうだとしたらそれは人違いかもしれませんね。ぼくは…そうなることが夢でした。音楽家として成功したかった……。だけど……」
「夢、叶っているじゃないですか。私達、みんなあなたのことを知っていますよ。シューベルト。鱒、ですよね?」
「ああ、まさに」
「シューベルトは誰に聞いたって大作曲家です。そうだ、お声掛けの仕方。先生、がしっくりくる気がします。作曲家先生でいらっしゃるので。先生、とお呼びしてもいいですか?」
「ぼくはまだそれほどの作曲家ではありませんが」
「それほどですよ。先生」
「あの、詩さん、五線譜をいただいても……」
「あ、そうでした。すみません、お待たせをしてしまって。こちら。どうぞ」
「ありがとうございます。本当に感謝します。では、ちょっと良いでしょうか」
話に夢中ですっかり忘れていたけれど、私は即席でこの大先生に音楽ノートとペンを買ってきて脇に抱えていたのだった。それを渡すとシューベルトは早速ノートを開いて筆を滑らせる。書き始め、ペンの書き味を喜ぶ一言を呟いた。そしてすぐ、さらさらと音符をいくつも並べていく。
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