シューベルトと過ごした夏

岸野るか

第1話 彼は何者?

 いつもの楽器店に楽譜を買いに行く。弾きたい曲に出合えるかな。それともたまには違うジャンルに踏み出してみようかな。

「いらっしゃいませー」

 店内に進む。いつもの私の場所。静かに流れる弦楽器のBGM。楽器店というマニアックな場所は当然いつも混むこともなく、どうせ今日も来ているのは私だけかな、とピアノ譜のコーナーに行こうとすると先客。あれ、海外の方? もっさりした髪型に何だか妙な格好をしている。大道芸人さんかな……。ちょっと近寄りがたい雰囲気……。こういう人がどうしてこんなところに…?

 彼はちょうど私が物色したい棚の前にいて楽譜を見ている。仕方がないのでその一段後ろの棚に回って彼が移動するのを待とうかな。あのおじさん…一体何なのだろう……。

 見た目が何だか音楽家みたい。教科書で見かけるような昔の。でも、音楽家がこんなところにいるわけもないし。なんて思っていたら…うわ、振り向いた……。こっち見てる……。目が合ったところで話し掛けられた。

「すみません」

「え? あ、私? はい……」

 私? 店員ではありませんけど……。

「あの、本当にすみません。ここはどこですかね?」

「は?」

 やばい……。これは、この人は…何? 誰……。まともに答えたり相手をしたりしない方がいい? 大体、真夏にどうしてあんな服装……。何とも言えない服装。何て言うのかな…あの、ボロいよそ行き、みたいな……ホーンテッドマンションにいそうな雰囲気と言うか……。絶対芸人さんだよね……。

「気が付いたらここにいて……。ここがどこだかわからなくて困っているんです」

「はあ……」

「信じてもらえないかもしれませんが、ふと気が付いたらぼく、ほらそこ、その道端に立っていたんですよ」

「はあ……」

「でもね、楽器があったからここに入ってきたんです」

「ああ……」

「それにしても…おかしなことになってしまった……。ここがどこなのか分からなくて困っているんです」

 ほんと、何この人……。っていうか、そんなことを私に言われても……。でも、困っているのかな……。もしかしてテレビか何かのドッキリ企画? そうかも。そうでしょ。その線が濃厚。そう気が付いたらそういうふうにしか考えられなくなって、そうでないと合点がいかない、こんなこと。

 でも、こんな町で? 逆に田舎だから? 私、どこかから撮影されてるのかな……。定点カメラがどこかにある…?

「あの、これ、テレビですか?」

「え?」

「これ、テレビの企画か何かですか?」

「テレビって、何ですか?」

「え、テレビって……」

 なんか変。いや、この人のこの風貌といい、醸し出している妙なオーラといい……。確実に何かがおかしい……。

「元いた場所に戻りたいのですが、馬車はありますか?」

「馬車?」

「あの、ここは、どこでしょうか? ぼくが今いるこの場所って……。訳がわからなくて……。ここは一体何なのでしょうか」

 さてはこの方…記憶喪失で彷徨っている? それなら警察にお連れした方が良いのかもしれない。

「ウィーンに戻らないと……」

「え? ウィーン?」

 ウィーンは知ってる。オーストリアの首都。もちろん、知っているだけで行ったことはないけれど。でも、遠いよね? それは分かる。それなのに今この人、馬車でウィーンに行こうとしているようなことを言ったような気がする。またまたご冗談を。無理ですよ、そんなの。大体、どうやって海を越えるつもり? 馬車って……。今どき真面目な移動手段として馬車って……。それともやっぱりドッキリ企画だから? それなら設定があまりにも飛びすぎているし無理がある。

 でもこの人、本当に困ってるのかも…? 戸惑いと躊躇いの表情を見ているとお気の毒な気もして……。だけど、本物の詐欺師というのはそういうものなのかもしれないし、企画で雇った俳優さんならそんな演技は朝飯前、かな……

「ここは、どこなのでしょうか…?」

 何だか怖い……。記憶喪失? 初対面なのにそんなことを私に相談されても……。悪い人ではなさそうな雰囲気だけれど……。そう見せ掛けて私を騙したり笑ったりするつもり? それともこの方…何かしらのご病気か障害をお持ちなのかどうか……。

「あの、元いた場所って……。ウィーンに住んでいらっしゃるんですか?」

「はい。今は兄の家に住んでいます」

「ああ、ウィーンのお兄さんのお家……」

「大変恐縮ですが、ウィーンはどちらの方向でしょうか? ご存知ですか?」

「ええと…どっちですかね……。ええと、だって…ウィーン…?」

 まさか。まさかとは思うけど、これ、ミステリー? いや、まさかね。そんなことがあるはずがないし、あったとしてもどうして私がそんなことに……。

 だけどこの人の服装といい、雰囲気といい……。何かしらのことがあって時空をワープしてきたとか。なんて?まさかそんな非科学的なことがあるわけがない。と言って、私は根っからの文系で、物理も数学も全然分からないしそもそも科学自体を理解してはいないから時空が何なのかさえ分からないのだけれど。

 とにかく…そんな余計なことを考えるのはやめよう。何だか私も訳が分からなくなってきた。でも、馬車って? どの時代? この人、タイムトラベラー? まさか、そんなわけないよね……。でも……

「あの、初対面で恐縮ですが…生まれ年って何年ですか?」

「ぼくが生まれた年ですか?」

「ええ。あ、でも…すみません……。急に失礼ですよね。分かってはいるのですが、その…ちょっと確かめたくて……。ご自分の生年月日ってお分かりになりますか?」

「ぼくは1797年1月31日に生まれました」

「1797年?」

「はい……」

 ほら、もう。そういう企画だ。テレビでしょ。絶対そう。それともユーチューブ? それともティックトック…?

 よくその設定を仕込んだものだよね。この役者さんは淀みなく生年月日を答えた。

「あの…記憶をなくしてしまったわけではないですか?」

「記憶は…どうしてここにいるのかは分かりません。でも記憶はあります。自分が誰だかも分かっています」

「そうですか。それでだけど、自分がどうしてここにいるのか分からないんですね?」

「はい。だから今、とても困っています」

「なるほど……。ええと、いつからここにいらっしゃるのですか?」

「ほんのさっきだと思うのですが、自分でもよく分からないのです」

 何だろう。こんなことを言ってはいけないけれど、やっぱり……。精神病院を抜け出してきた方? ただ、この話し方。謙虚で丁寧で静かで品もある。決して悪い人ではなさそうだし知性もありそう。

「私は戸塚詩と言います。あなたのお名前は…?」

「シューベルトです。フランツ・シューベルト」

「シューベルト? あ、呼び捨てにしちゃってすみません……。ええと、そのお名前、聞き覚えがあったので」

 私、もう完全に騙されてるよね? カメラ、もう来ていいよ。これはもう完全に何かしらの企画。もう確定でしょ。シューベルトってそんなの。早くネタばらしをしてください。もう分かったから早く来て。

 それともまさかこの方、本当にあのシューベルト? なわけないよね。さすがにそれはない。

 でもこの見た目。どこかで見たことがあるとは思ってた。言われてみればシューベルトっぽい。シューベルトを模していたわけだ。って、シューベルト本人を見たことはないけれど、何となく教科書に載っていてこんな雰囲気だったような気がするだけだけど……。

 でも、テレビ、だよね…? テレビ局の人にかかれば歴史上の人物を再現するのなんか朝飯前だろうし、そういう設定でこの方を用意した、と。

 それにしても。何だかちょっと面白くなってきたかも。

「人違いだったらすみません。でも…私はあなたのことを知っているかもしれません」

「ぼくのことを知っていますか?」

「ええと、知っているというか、そうですね……。はい、と言うか…はい、なのか…いいえ、なのかな……。もし、あなたが音楽家なら。作曲家のシューベルトなら知っています」

「ぼくは音楽家です」

 やっぱりそう? 設定にブレはないらしい。でも、違う、かな……。シューベルトに似た役者さんを連れてきたわけだ。どこかの誰かが。何だか愉快で笑える。

 だって音楽家のシューベルトです、と言われて、ああ、そうですか、なんて。そんなことになるわけがない。そんなのどうやって信じたらいいのだろう。それとも私、夢を見ているのかな……。これ、夢? そうか…そうなのかな……。

「これ、夢ですかね?」

「え? 夢?」

 って、夢の中の登場人物に訊いたって仕方がないか……。もう私、どうすればいいのかな……。

「私、夢を見ているのかな、なんて思って」

「夢、ですか?」

「いえ、その…時代が違うみたいだったので……」

「時代?」

「あの、これ……。シューベルトの楽譜ですが、あなたの作品ですか?」

 目の前の楽譜の中からシューベルトのピアノ曲を選んで広げて見せる。

「ああ! まさに。これはぼくの曲ですね。ぼくの作品が出版されているんですね。ちなみにここはオーストリアから遠く離れた国ですよね? ここの地名は何ですか?」

「ここは…日本ですけど、ご存知ですか?」

「日本?」

「はい」

「日本?」

「はい。ご存知ないですか?」

「そうですね……。知らないですね……。ぼくは本当に、どうやってここまで来たのだろう……。どうしてここにいるのか……。あまりにも違った世界に来てしまった……」

「きっと…いえ…私にはよく分かりませんが、シューベルトさん、記憶喪失になっているのかも。あの、どこかに入院していたとか、何かそういうことがありますか?」

「そういえば…この前とても具合が悪かったんです……。兄の家にいたような……そう…ぼくは兄の家にいました。入院はしていませんでした」

「ああ、そうなんですね……。あの、体調、今はどうですか? 大丈夫なんですか?」

「今は何も気になりません。全く問題ありません」

「精神的なこととかは…?」

「打ちひしがれるのはいつものことです。しかしそれで入院などはしません」

「それは良かった……。そしたらご一緒しますから、警察署に行きませんか?」

「え、なぜですか? いいえ、戸塚詩さん。ぼくはそんなところに行くわけにはいきません」

「どうして? だって…お困りのようだし…警察に事情を話したら助けてもらえるかも……」

「警察はだめです」

「でも……」

「戸塚詩さん」

「はい……」

「ぼくは警察は嫌なんです。せっかくの提案ですが、警察に行くことはできません」

「そうですか……。でも……」

「戸塚詩さん。ぼくは今、この身一つです。必ずお返ししますから、ウィーンに戻るために、その……」

「お金ですか?」

「ええ……」

「あの……。私、あなたがウィーンに戻るための飛行機代を払ってあげられるほどお金を持っていなくて……」

「飛行機とは?」

「あ、ここは日本なので、飛行機に乗らないとウィーンには行けないのでは?」

「馬車はだめですか?」

「馬車?」

「はい」

「ここに馬車はないんですよ」

「そうですか……」

「ひとまず警察署に行ったほうがいいと思います」

「しかし、ぼくは警察とは話したくないのです」

「大丈夫ですよ。それとも、何か犯罪歴でも?」

「とんでもない。でも、つまらないことを疑われたりしたくないんです」

「それは分かりますけど……」

 何だかこの人、警察をやけに嫌がっているような。過去に何かあったのかな……。

「そしたらシューベルトさん。これからどうされるおつもりですか?」

「本当ですね。どうしたらいいのでしょうね。ここがどんな世界なのかもわからないのに、ぼくはどうするつもりなのでしょう……」

 危ないからやめた方がいい。そう、心の中の自分が引き止めるのだけれど、やけに好奇心が高まって彼から目が離せなくなっている。

 こんなの……。そもそもこの設定。多分偽物だと思う。かなり泳がされてからネタばらしのカメラが登場するのかもしれない。だけど、私みたいな素人を笑い者にするなんてテレビだったら随分残酷なことをするつもりだな、なんて。だけど、もしこの人が本物だったら? なんてまさか、そんなことがあるはずはないはずだけど……。

 でも…そういう企画とは違うとしても……。偶然関わったこの不思議な人物について、なぜか惹かれて興味が湧いた。それに、もしこの人が本当に困っているのだとしたら? この人は悪い人ではない。なぜかそんな確信があって……。

 気が付いたら私は言っていた。

「あの、もしよければ、お手伝い…しましょうか。どうやって手伝えばいいのかはまだ分からないのですが……。お困りのことについて一緒に考えさせていただいてもいいですか?」

「手伝ってくださいますか? なんて親切で美しい方なのだろう」

 親切で美しい、だって。そんなことを言われることが普段は全くないから。どんな顔をすればいいのか……。いや、ここは一度否定しておかなくちゃ……。

「あ、あの…そんなことありません……」

 シューベルトなのかどうか……。優しく微笑む目の前の大道芸人みたいなおじさんは微笑んでもう一度言った。「お美しい。素晴らしい方です」

 もう……。どうしよう……。だけどちょっとうれしかったり……。でも…うまく反応できないしなんて答えたらいいのか分からない……。

 本当にワープしてきたのかどうか……。やけに落ち着いている目の前の自称音楽家、フランツ・シューベルト。シューベルトって、フランツっていう名前だったのか。大作曲家なのにこの人はとても謙虚で大人しい。

 とりあえず、この人はまともな大人なのだろうか。それとも、ご病気のせいで…?

 とは言え念のため…見知らぬおじさんだし……。もし危険な目に遭いそうになったらすぐに逃げることも考えなくては、とも。

「あの、とりあえず何か食べますか? お食事したいですか?」

「食事ですか?」

「何か食べました? それとも、お茶でも飲みますか?」

「ええと……」

「おごります。何でも」

 なんか面白いから、とは言わないでおこう。

「その前に、ここの楽譜をもう少し見てもいいですか? ここにはすごく興味深い音楽がたくさんある。もう少し確認したいんです」

「ああ、ぜひどうぞ。ってここは私の店ではないですけど。私も楽譜を買いに来たので自分の好きなものを見ています。どうぞごゆっくり」

 異世界に来たのに楽譜を見る精神的余裕があるのだとしたら…彼は本物の音楽家? いやまだまだそんなの分からない。

 そうして私達は別々に自分の思い思いの楽譜を好きなように見て回って、私は自分用に一冊曲集を購入。シューベルトに出会った設定なのでシューベルトの楽譜。ちょっと私には難しそうだけれど、今日の偶然の出会いに賭けてみることにして。

 自称大作曲家シューベルトさんはどうしているかと思って見ると真剣な表情で楽譜を鋭く見つめていて、あまりにも集中しすぎているようなので声をかけることができない雰囲気。

 そのうち「もういい」と言うと思って声を掛けずにしばらく時間を潰しながら待っていたけれど、いつまで経っても終わらない。一冊終わると次の楽譜。その繰り返し。

 さすがにこんなこじんまりとした楽器店にあまりにも長居するのも……。


「あの、シューベルトさん……。そろそろどうですかね。お茶でも飲みに、ここは出ませんか?」

「戸塚詩さん。あの……」

「はい」

「お金を貸していただけないでしょうか」

「え? 楽譜を買いたいんですか?」

「はい。すごい作品が…斬新で見たことがないようなものもあります。ぼくには作れないような、思いつかないような美しい作品があります。これをもっとじっくり見たいと思ったのですが、あいにくぼくは今何も持っていないのです」

「ええと、どの楽譜ですか?」

「すごくたくさんあります。ご恩はお返しします。お金は必ず返します。だからどうか、お願いできないでしょうか」

「あの…そんなにたくさんは……。すみません、私もその、お金をそんなに持っていないもので……」

 私がそう言うと彼はしゅんとしてものすごく残念そうな表情になって、でもそれ以上押してくるつもりはないようだった。何だかこちらも申し訳なくなって、でも私も…お金…そんなに持っていないしこの人とは初対面だし……。

「あの…シューベルトさん……。そしたら…二冊だけ、どうぞ。厳選してもらって…それくらいだったらどうにか……」

「そうですか。ありがとうございます。それから、五線譜を買いたいのですが……」

「そんなもの……。もしお時間があるのならうちのパソコンでいくらでも印刷しますよ」

「パソコンって何ですか?」

「あ、ええと……。コンピューターです」

「コンピューターとは?」

「その、何でしょうね……。ええと、その…電気で……」

「電気?」

「電気をご存知ないのですか?」

「その、パソコンというものはコンピューターで、電気だということですか?」

「ええと…何と言うのでしょう……。後でお見せしますよ。見たらわかります。まあなんていうか、印刷機、みたいなものですかね」

「ああ、印刷機。それをあなた達はそういう言い方をするんですね?」

「ええ……。まあ、そういう感じです、かね……」

 違うかもしれない。違うことを言ってしまっているかもしれない。でも、今更パソコンなんて、どうやって説明したらいいのかわからなかったし……。

 いつまで経ってもテレビ局らしき人もカメラも出現しないし、この人、本当にシューベルトの時代から来たシューベルトなのかな……。まさかね。まだ信じてはいないけれど……。

 とりあえず彼が選んだ二冊の楽譜と自分の楽譜を一緒にレジに出してお会計。

 私、なんで見知らぬおじさんに楽譜を買ってあげているのだろう。



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