三章 家族の話
1
思いもよらない光景が眼前に広がった時、全てが根本から瓦解するような感覚に襲われた。
そして思わず硬直した心身が僅かながらに自由を取り戻した際に脳内を駆け巡ったのは、とにかく【家族】を守らなければならないというぐちゃぐちゃな感情。
「……ッ! リタ!」
三等滅魂師、ロイ・ヴェルメリアは半ば無意識にそう叫び、その場から逃げ出したリタを。
ずっと探していたミカ・ヴェルメリアの写身を追い始めた。
「ロイ!」
アイザックがこちらを呼び掛けていたが、一瞬視線を向けただけ。
立ち止まる事はせず、応答する事もせずただただ走り続けた。
何がなんだか分からない現状でも、自身にやるべき事があるのは分かっていて、その為に彼らが障害になると判断したのかもしれない。
その辺りの自らの行動原理すらまともに認識できない程に、自分の中で色々な事が酷く曖昧になっていた。
(どこだ……どこ行ったアイツ……!)
リタは自身よりも滅魂師として遥かに格上の存在だった。
ホーキンス大尉の写身を追っていた際に距離を離され続けたように、既にリタは林道の中に消え姿が分からなくなっている。
そんな中で、半ば無意識に発動したのは写身を探し出す探知魔術だった。
滅魂師の訓練校を首席で卒業した自分の中で、最も秀でていると教官から言われていた魔術。
そんな物を無意識に発動してしまう位には、先程目の前で起きた事は致命的だったのだ。
そして目に見えた地雷を踏み抜くように、探知魔術に写身の反応が一つ引っ掛かった。
位置的にホーキンス大尉の写身の物では無いだろう。
突入後に一瞬視界に入った満身創痍の写身の相手は、アイザックとミーティアが引き継いだ。その後アイザックがこちらを呼び掛ける余裕が有ったという事は、既に消し飛ばす段階まで事を進めている筈なのだ。
つまりこれはリタの反応。
どうしようもない程にリタの反応なのだ。
どれだけ今までの記憶と矛盾していても、それでも。
(この先だ……ッ!)
どこまでも離されると思っていた距離は、リタが立ち止まった事によりあっという間に縮まりだしていた。
故に探知を終えてしばらく走った所で……再びその姿を視界に捉えられた。
「……リタ」
向き合わなければいけない相手を視界に捉えられた。
……リタはこれまで見た事が無い程に憔悴した表情を浮かべている。
それを見て、一気に全身が重くなる錯覚に陥った。
踏み出さなければならないのに足取りが酷く重い。
鉛のように。
杭でも打たれたように。
情けない話だとは思う。
妹の為なら何だってやってやれると思っていた筈なのに。
「……」
今のリタに一体どんな言葉を掛けてやれば良いのかがまるで分からないのだ。
あまりにも残酷な事実を浴びせられた【家族】にどう接してやれば良いのかが、何も。
実際、そんな姿を見たら尚更に。
それでもとにかく一歩一歩前へと踏み出した。
下手な事を言って。
下手な事をやって傷付けてしまうかもしれないけれど。
それが怖くて立ち止まってしまったけれど。
例え何ができるか分からなくても、あんな状態の妹を一人になんてさせられなかったから。
それだけははっきりと思えたから。
逃げずにリタの前へと辿り着く事が出来た。
そこでようやく気付いた事がある。
……リタの右手が酷く震えていたのだ。
「……」
その場でしゃがんで視線の高さを合わせ、その手を握った。
……結局やれた事は本当にその程度だ。
これにしたってこうするべきだという根拠があった訳ではない。
気が付けばそうしていただけ。
そして気休めの言葉一つだって何も絞り出せやしないのだ。
大丈夫だなんて虚言すら口にしてやれない。
情けない兄で……本当に申し訳無いと思う。
「……」
リタからも何も言葉は返ってこない。
こちらの手を弱弱しく握り返して、顔を俯かせてすすり泣き始めただけ。
その表情を晴れさせてやる事は、今の自分にはできない。
それどころか。
(……何やってんだ俺は。俺が救われてどうすんだ……)
それどころか、ほんの少しだけ落ち着き始めている自分が居た。
手を握ってリタの体温を感じ取って、まだ目の前に居てくれているという事を実感できた。
直近で写身を跡形もなく消し去る事を覚えた自身にとって、その事実があまりにも心に安らぎを取り戻させてくれる。
そしてリタから感じられる体温が、此処に居ない家族の安否も同時に伝えてくれるから。
双方共に最悪な状態になっているのは分かりきっていて、何一つ楽観的に捉えてはいけないのは分かっているのだけれど、それでも。
それでも、まだ何も失っていないのだと、安堵する事ができた。
そしてその安堵が、少しずつ思考をクリアな物へと変えていく。
(……これからどうする)
リタの手を握りながら、これからの事を考える。
多くの謎が生まれてしまったこれまでの事を掘り返していくよりもまずは、これからの事を。
(ミカも心配だ……あれだけの怪我が治ったという事は、それに必要な生命力がミカから供給されている事になる。その負担は……あまりに大きい)
ゼロから一を生む際に多大なる生命力が持っていかれるというのは、直前ホーキンス大尉が倒れたのを見て改めて理解した。そしてあれだけの大怪我からの回復は、それよりも幾分も必要な生命力は落ちるだろうが、幾分程度の違いでは非常に重い事には変わりない。
特に常に衰弱していたミカの肉体には、あまりにも酷な重さ。
……考えたくなくても、最悪の可能性を考えてしまう。
(とにかく今すぐにでも家に帰らないと駄目だ。だけど……今のリタを家に連れて帰って大丈夫なのか?)
この状態のリタを見て、三人に悟られてはいけない事を悟られてしまわないだろうか。
そして今の状態のリタが……最悪にほど近い状態になっていてもおかしくないミカの姿を見てどう思うか。
(……どう考えても大丈夫じゃない。今それだけは絶対に駄目だ……ッ)
ではどうするべきなのか。
自分はどうする事が正解で、リタやミカにどうしてやる事が正解なのか。
そんな事をすすり泣くリタの声を聞きながら考えていた所で、背後から物音が聞こえた。
「……ッ!」
警戒するように手はそのままに視線を向ける。
「見付けたよ、二人共」
現れたのはアイザックだった。
……だったら良かったと、そんな風には流石に考えられない。
だってそうだ。
目の前に居るのは、写身を討伐する機関である滅魂局の支部長。
滅魂師なのだ。
これからどうするべきか。それを考えていくにあたって。
目の前に居る男はその最初の障害となるかもしれないのだ。
楽観的な考えではいられない。
「……ごめん、リタ」
静かに丁寧に手を解き、静かに立ち上がった。
腰の刀を抜く。
手遅れになる前に身構えておくのだ。
妹を助ける為に。
妹を守るために手に入れた力を目的通りに振るう事ができるように。
そして刀を構えてアイザックに言う。
「そこから先に進まないでください」
「どうしてだい……なんてとぼけるつもりはないさ。キミが僕を止めようとしている理由は分かってるつもりだ」
この一件が始まってからずっと変わらず軽さを見せないアイザックは、そのままの調子で真剣な声音を向けてくる。
「僕は滅魂師でキミの後ろには写身が居る。その事実を正しく認識していれば、流石の僕でも理解できるさ。何もおかしな事は無い……そうだ、おかしな事が起きなくて良かった」
そう言ったアイザックは……あろう事かこの状況で、安堵するような表情を浮かべた。
「キミが僕を止めようとしてくれて本当に良かった」
「……?」
分からない。またしても何も分からない。
アイザックはリタが写身だと判明して、そして部下である自分に凶器を向けられていて、そうした状況に安堵しているのだ。
その感情を何一つ理解できない。
そんな状態のロイに、アイザックは言う。
「さて、回りくどい物言いであまり変な誤解を植え付けてしまっても困るからね。信用して貰えるかどうかは分からないけれど、僕の……というより62支部のスタンスを此処で示しておこうと思う」
そしてアイザックは似合わないが力強い声音で言うのだ。
「ボク達はリタの味方でありたいと思っている」
「……ッ」
正直、困惑した。
困惑に困惑を重ねた。
自分がこうしてリタを守る選択を躊躇う事無く選べたのは、他でもない家族であった事が大きいだろう。
そんな自分ですら躊躇いはしなくても頭の中はぐちゃぐちゃだったのだ。
それなのに、先程起きたばかりの最悪な事態に対してアイザックはとても落ち着いた様子で、一切の迷いを感じられないような感情をこちらにぶつけてくるのだ。
迷いが無さ過ぎて罠なのでは無いかと。
演技では無いかと思えるほどに、透き通った感情を。
だから思わず問いかけた。
「……なんでそんな事が言えるんですか。滅魂師なのに」
味方として振る舞おうとしている言葉の中に歪を見付ける為に。
味方として振る舞ってくれている言葉の核が透き通っている事を証明する為に。
そしてアイザックは答える。
「まず大前提として、今回のケースは深刻な社会問題である写身による被害についての事以前にキミ達家族の問題だろう」
「家族の……問題」
「そう。ヴェルメリア家の問題だ。それは部外者が土足で踏み込んで荒らし回って良いような事じゃない。家庭内で留まっている内は。留めようとしている内は管轄外だ」
だとすれば、とアイザックは言う。
「そういう理屈ならば、やりたくない仕事を放棄する理由になるだろう」
「ちょっと……ちょっと待て! 待ってくださいアイザックさん!」
アイザックの言葉にこちらを欺こうとするような雰囲気は感じられなかった。
結局そう思いたいだけなのかもしれないけれど、それでもこの人は本当に自分達の味方をしようとしてくれているんじゃないかと思う事が出来た。
否……しようとしてくれているのではない。
そんなこれからの話をしてくれている訳ではない。
「留めようとしている内はって……一体どういう事ですか」
アイザックはリタの問題を家族の問題だと言ってくれた。
それは良い。その通りだ。
だが留めようとしているなんて言葉は、これからの指針の話ではない。
これまでどうして来たかという過去から繋がった現在進行形の話に思えて。
そしてそう認識してしまえば……段々とこれまでの言葉に違和感が無くなって来る。
「まさか……知っていたんですか。リタが写身だって」
「……ぇ?」
背後からリタの掻き消えそうな声が聞こえて来た。
……そんな反応をするのも仕方が無いと思う。
だがそれでもこれまでの言動は全て、事が起きた直後にしてはあまりに落ち着きすぎていた。
リタが写身であるという最悪な事態に加え、その現実はこれまで接してきて見てきた事や自分達が滅魂師として学んできた事とあまりにも矛盾する訳で。
そんな碌でも無い上に支離滅裂な情報の濁流に晒されて、此処まで落ち着いていられる訳が無い筈なのだ。
……事前にリタが写身であるという事実を知ってでもいなければ。
そしてアイザックは隠す素振りも無しに応える。
「ああ。知っていた……だから僕はあの時リタを止めたんだ。対写身以外の魔術で大怪我を負えば、こうなる事は目に見えていたからね。あの時は突き放すような事を言って済まなかった」
「……ッ」
繋がった。
自分達が観測できた明らかな違和感が、アイザックがリタが写身であると認知していた事の信憑性を確固たる物へと変えていく。
そして62支部のスタンスとしてリタの味方でありたいと言ってくれた以上、ミーティアや他の皆にも周知の事実という事になる。
そして……今の話が本当なのだとすれば、何もかもが瓦解する。
「ミカは!」
これまで目立った反応ができる程の余裕が無かったであろうリタが、それでも声を上げた。
「ミカは……知ってるんですか!? お父さんや……お母さんは……?」
アイザックは、家庭内で留まっている内は管轄外だと言った。
その判断を下した事が、アイザックが真実を知っていたという事実に繋がった。
ではそもそもの判断材料である、自分達以外のヴェルメリア家の人間は。
「勿論知っている。知らなかったのはキミ達だけという事になるね」
「そんな……だったら……」
リタは掻き消えそうな程に力ない声音で言葉を紡ぐ。
「ミカは……どんな気持ちで私に……ッ」
「……」
ロイから見て、ヴェルメリア家はとても仲の良い理想の家族だと持っている。
そこに自分達の知らない裏側があった。
その裏側に悪意が存在しない事は確信を持って理解できるのだけれど……だからこそ尚更。
特にミカは……一体どんな思いでリタと接してきたのだろうか。
自分の家族の事なのに。良く知っている人達の筈なのに、途端に何も分からなくなってきた。
そして困惑する自分達に対し、アイザックは柏手を打って注目を集める。
「さて、当然僕はもう少しキミ達の知らない話を知っている訳だけれど……その話はまた後でだ。やるべき事があるからね」
「やるべき……事?」
今此処で自分達が知らなかった話を聞く事より、すべきことがあるのだろうか。
そう思ったが、アイザックは至極真っ当な返答を返してくる。
「リタの腕が酷い事になっている。きっと自爆攻撃でもかましたんだろう……応急処置は早い方が良い」
言われて、今更気付いた。
色々有って。色々有って。色々有って。
それに追いやられるように、リタが先月の非じゃない程の大怪我を負っているのだ。
正直立ち話などしている場合ではない。
「ごめんリタ、そこまで気が回って無かった……真っ先にやるべきだったよなそんな事」
思わずリタに謝罪するが、リタは小さく首を振る。
「……そんな事無いよ。ありがとう、手を握ってくれて」
そう言ってリタは本当に小さくだが、笑みを作ってくれる。
(……駄目だな、こんな状態のリタに気ぃ使わせちまってる)
……とにかく、早急に腕の治療をすべきなのは間違いない。
そう判断しながら、ようやく刀を鞘へと納めた。
「それで、良かったのかいロイ」
「何がですか?」
「キミは元々僕をリタに近づけさせない為に刀を抜いたと思うんだけれど、その刀を仕舞ったという事は、僕はようやく立ち入り許可が出たと思って良いのかな?」
「……本当に味方してくれるんだなって思えましたから。これ以上刀なんて向けられませんよ」
「それは良かった。何せキミはとても強いからね。もしも本格的に戦闘になったら、果たしてキミを無力化できるかどうか心配だったんだ」
「……すみませんでした」
「いや、良い。さっきも少し言ったけど、僕はキミが刀を向けてきて安心したんだぜ」
「結局どういう意味だったんですかあれ」
……分からない事だらけの中で、あの一言だけは別軸の謎だった。
そしてその問いにアイザックは答えてくれる。
「言っただろう。これはキミ達家族の問題だと。キミが果たしてちゃんとリタの味方をしてやれるかどうか、それが心配だったんだ……まあキミがリタを追い始めた時の表情を見れば大丈夫だろうとは思っていたけどね」
「ああ、そういう事ですか」
腑に落ちた。
そして刀を収めるという判断が間違っていないと改めて思う事もできた。
「そういう事だ……とにかく此処を出ようか。もうそろそろ皆が到着するだろうしね。回収してもらってそこで治療だ」
「……皆?」
リタの言葉にロイが答える。
「お前が飛び出す前にミーティアさんが呼びに行ってただろ。多分言葉の通り、皆が来る」
「……ッ」
その言葉にリタが緊張するように声にならない声を上げる。
……恐ろしいのかもしれない。皆の反応が。
当然だろう。
例え皆が事実を知っていたとしても、自分を写身だと認識してその人達と顔を会わせようとする事へのハードルはきっと高い。
寧ろ何も知らない相手よりもそれはずっと高く感じるのではないだろうか。
……きっとそれは家族の場合でもそうだ。
「少しずつ慣らしていこう……少なくとも62支部は、それができる環境だ」
そう言ってアイザックは先導して歩き出す。
「行こう、リタ」
「……うん」
そしてロイも、リタの手を引き歩き出す。
……足取りが重いのは自分も同じだ。
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