満開
今宵は満月だ。雲一つない空と風で舞う花びらを見る。今日はここに誰も来ないのだろうか。いや、たまにはそのような日があってもいい。大木に体を預ける。何年経っても、この景色には変わらないところがある。
「ニャー」
廃校舎から猫の鳴き声がした。「また、あいつか」と思って見ると、月明かりに照らされ歩く白猫が現れる。私の予想は合っていた。
「おぉ! 猫ごろうじゃないか。また抜け出してきたんだろう。何年連続だい。そろそろお前は猫又にでもなるんじゃないか。」
私の大きな声に反応して、跳ねながら駆け寄ってくる猫ごろうを抱き締めた。
「いいのかい。こんな時間に。お前の飼い主が心配するだろう。」
これに、猫ごろうは首を振り「大丈夫だ」と尻尾で返事をした。相変わらずこいつは私の言っていることを理解しているようだ。まぁ、私がこの間だけ人の形をしているだけの存在だからなのだろうか。ゴロゴロと猫ごろうは喉を鳴らす。
「お前は餌もくれない私のところにいつも来てくれるが、どうしてだ。」
人の言葉で返答など来るはずもないが問いかける。猫ごろうはキョトンとし、「そんなこと考えたことなかった」というようにゴロンと寝そべる。私が見つめていると、「撫でろ」というように一声鳴く。
「はいはい。」
促されるまま猫ごろうを撫でる。気持ち良さそうに伸びをして、自ら撫でられたい部分を差し出す。幸せそうな顔を見て私は呟く。
「ねぇ、猫ごろう。私の生涯においての幸せって何だろうね。」
「ンニャア」
「何の話をしようとしているの」と澄んだ海を閉じ込めた目で私を見上げる。その目に全てが見透かされているように感じる。深い青に包まれる。この『哀』に全てを溶かしてしまえたら、なんて考える。続きを催促するように尻尾をふる猫ごろうに急かされて口を開く。
「私ここからある程度の範囲までしか動けないでしょ。毎年広がっているとは言っても、廃校舎に行くことはできない。行きたいこともやりたいこともできず、制限の中で生きている。その中の私の幸せって何なのだろうってね。」
答えなどない。他者に聞いて分かるはずもない。答えは自分自身でたとえ間違いだとしてもそれが正しいとして決めなければならない。そうしなければ私の身と心は疲弊を重ねていってしまう。でも簡単には決められないから。悩み続けることが苦手な私はきっとどこかで思考の糸を切ってしまう。考えないほうが楽なのだ。自分の生涯は楽をして生きていたい。だが、その楽はいずれ自分の首を絞めていく。もっと考えていればこの場所はこんな制限のかかった世界ではなかったのかもしれない。私があの時、一歩踏み出す勇気があったのならここから出られていたかもしれない。たらればが頭を染めていく。こうなると分かっていたから私は考えることをやめたはずだった。辛く、苦しい。息が上手く吸えない。体にあり得ないほど力が入っている。あれ、力の抜き方ってどうだっけ。呼吸の仕方はどうだっけ。考えるのってどうやってやめるんだっけ。
パシッと頬を叩かれる。我に返ると鼻と鼻が触れる距離に猫ごろう、がいた。プニッとおでこに肉球が置かれる。「大丈夫」と心配そうな瞳で私を見つめる。
「大丈夫。ありがとう。」
肩で息をしている。以前もこのようなことはあった。だけど前は思考を強制的に切って、止めることができたから、今回もなんともないと思った。けれど、思考を止められなかった。猫ごろうが居なければきっと、私は……。いいやそれはもういい。私は一度休むべきだ。そう思ってバッと起き上がり少し体を動かしてから、大木の上へ登り始めた。幹の側の太い枝を掴み体を持ち上げ、一息ついて顔を上げる。寝静まった街の上で星々が静かに瞬いている。ここは私の好きな景色が見れるお気に入りの場所。大木の下に居ては見えない、山の向こう側が顔を覗かせる。そこには海というものがある。時々ここに居ても不思議な香りはする。私は「海」についてほとんど知らない。「夏休みは家族と海に行くんだ。」と言っていた子供たちが昔、夏休みの前にはよくいた。「海」は一体どんな場所なのだろう。一度は行ってみたいと思うが、どれだけ願ってもそれが叶うことはない。この木の根、その先へ出てしまえば私はきっと消えてなくなってしまう。直感的にそう感じる。本当は猫ごろうやここに度々訪れてくる人々のように自由に外へ行きたい。自由に街の中を歩いて、好きなところへ好きなように行きたい。でも、この欲は要らない。生きるものが必ず持っているとしても、私の身には余る。出てきた欲はいつも心の中で紙のようなものに書き、丁寧に錠前四つ、鍵穴一つの箱の中に入れる。ただ最近困りごとの一つとして上手く閉じられなくなってきた。ぐっと押し込んで、そのまま蓋を閉めなければ鍵をかけられない。そろそろこれを整理しなければならない。「面倒だ」と放置してしまえば、溢れて収拾がつかなくなることが目に見えている。私は感情の波に飲まれ、私が私でなくなってしまうだろう。そのようなことはあってはならない。必ず。
ぼーっと景色を眺めているともう月が頂点を過ぎていることに気づく。いつの間にか膝に乗って私を見上げていた猫ごろうを撫でる。きれいな毛並みだ。余程大切にしてもらっているのだろう。飼い主はどんな人なのだろうか。一度は会ってみたいな、と考えているうちに猫ごろうは喉を鳴らしながら夢の中へ行ってしまった。できることもなくなり、しょうがなく私も目を閉じる。ゆっくりとあの箱に手を伸ばす。一つ一つと鍵束から鍵を選ぶ。錠前を外していく。最後に残ったのは真っ黒な鍵。これで開けてしまったら、思い出さないといけなくなってしまう。鍵穴の寸前で手が止まる。体が震える。武者震いと思い込み、深呼吸をした後、覚悟を決めてゆっくりと鍵穴へ挿し込む。
カチャッと音がすると同時に勢いよく蓋が開く。ブワッと紙が飛び出す。あぁ、私はこんなにも抑えていたのか。心に小さな欲が積もっていく。その中から一つずつ拾い上げて、何を書いたのか思い出していく。「外へ出てみたい」「あの子供たちと一緒に遊びたい」「ブランコに乗ってみたい」「人間の食べ物を食べてみたい」「誰かの大切になりたい」急速にフラストレーションが溜まる。仕方がない。これが、気づかないふりをしていた結果だ。一個一個整理していく。これはもう叶った。これは実現不可能。これはできるかもしれない。ふと、取り上げた1枚の紙。それに目が釘付けになる。『誰かを助けたい』紙から飛び出しそうなくらいの大きな文字で力強く書かれている。たったの七文字。でも、それが私には空に輝く北極星に見えた。いつも同じ場所で私たちを見守っている。それを見れば進むべき道がわかる。希望の光だ。何で今まで気づかなかったのだろう。いつの間にか欲と夢を同一のものとして考えてしまっていた。避けていた深淵の底に私がずっと探していたものがあった。闇を切り裂く光芒。私はこれからそれを抱え、心に灯し、生きていく。やっと見つけたんだ、私の幸せに続く糸。
目を開くと月はもう沈みかけていた。未だに膝の上でのんびり寝ている猫ごろうを揺すって起こし、
「ねぇ、私見つけられたよ。私の幸せ。」
と噴水のように飛び出してくる思いを、その勢いのままぶつける。寝起きの猫ごろうは尻尾を振っているけれど気づかないふりをした。まぁ、気持ちよく寝ていたのに急に起こされて、大きな声を出されたらこうなるのは必然的なことだろう。ただ、まだまだ口が止まらない私はどんどん話し続ける。その間「しょうがないな」と猫ごろうはじっと聞いてくれていた。一通り言い終えると私は息が上がっていた。
「猫ごろう。あなたはどう思う。」
と問う。すると、私の頭に肉球をポンポンする。「良かったな」と言うように。私の思いはしっかり届いている、そう思えた。猫ごろうは月の方を見て、木から飛び降りた。
「どうしたの。」
と聞くと、
「ニャー」
と返事をする。家へ帰るようだ。もうそのような時間になってしまったのか。行ってほしくないという思いが少しあるが、引き留めることはできない。それをしてしまえば猫ごろうの飼い主に心配をかけてしまう。私は下を向く。またいつ会えるかわからないさよならが一番怖い。
「ねえ、猫ごろう、来年もここへ来てくれる。」
そう口走ってしまった。確実なことなんてお互い無いのに。来年猫ごろうが生きている確証など無いのに。変な考えが頭の隅からブワッと広がる。
「ニャーオ」
思考を断ち切る一声を上げる。「大丈夫、また来るよ」と言うように。廃校舎へ走る猫ごろうに「またね。」と私は呟いた。出てきた朝日に照らされ、光を纏いながら完全に廃校舎に消えていったのを見送り、大木の幹にしっかり掴まりながら降りて、その下で息をつく。私の幸せはこれだったんだ。無意識にも私は幸せを手にしようと動いていた。そして、それに気づけた私はもう、大丈夫。ここから出られなくても下を向くことはない。私らしく明日を迎えられる。
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