残花
日の沈んでいく山の影に隠れる街を背に一人の老人が杖をついて歩いてくる。少し不安な足取りだが、ゆっくりと地面を掴んでいる。私の前まで来て
「やあ、今年も来たよ。調子はどうだい。」
と彼は声をかけてくる。それに私は
「ぼちぼちかしら。あなたはどうなの。」
と返す。ゆっくりと私の隣へよっこらせと腰を下ろし、
「こっちもぼちぼちだよ。お互い年を重ねたなあ。」
と言う。
「あなたは私が一番綺麗なときに来てくれればいいのに。」
そう愚痴をこぼすと、
「いいじゃないか。僕だけが年老いていくのを感じるのも好きじゃないんだ。」
と彼は笑う。しかし、急に眉間にしわを寄せ、
「あぁ、でも確かにこの大木いっぱいに花が咲いているときの君はとても美しかったな。」
と恥ずかしげもなく言う。「まぁ、いつでも君が美しいことには変わりないけどね。」と付け加えてこげ茶色の目でこちらを見る。私はその顔を見て若い頃の彼の姿が浮かぶ。今も昔も外見は変われど、内面は変わらず。彼から溢れるオーラは周りを優しく包み込む。私もそれに救われたことが何度あったことか。彼はきっと知らないだろう。
「少し思い出話をしてもいいかな。」
と彼は空を眺めながら聞いてくる。私は「ええ。」と返事をする。一息ついてから、
「初めて会ったときのこと覚えているかい。」
と言う。私は確認するまでもないと思いながら頷く。
「あの時は桜がそこら中満開の日だったね。僕が猫を追いかけていたら気づくと辺りは真っ暗になっていた。自分がどこにいるか、全くわからなくなっていた。どうしょうもなくて、その場に座り込んだ僕に君は声をかけてくれた。はじめはもう腰が抜けるほど驚いたね。『おばけだ。』と思った。」
「そのときのあなたはこっちが申し訳ないと思うほどに私におびえていたわね。どうすれば落ち着いてくれるか、足りない頭で考えたね。」
「そうだったのか。それはすまなかったね。でも君が僕が追いかけていた猫を呼んで触らせてくれたから平気かなって思えたんだ。」
彼は猫を撫でる動作をしながら「すごくそれで安心したんだ。」と呟く。
「あら、私が言うのもなんだけどあまり簡単に得体の知れないものを信用しちゃだめよ。何があるかわからないんだから。」
「はは、そうだね。だけど君は何もしてこなかった。いや、そればかりか当時の僕の悩みを受け止めてくれたじゃないか。あれは、嬉しかった。救われたよ。ありがとう。」
彼は私に頭を下げる。「そんな礼を言われるようなことなんてしてないわ。」と私は視線をピンクの絨毯に向ける。
「そんなこと言わないでおくれ、本当に助かったんだから。もう廃校になってしまったこの校舎にも足を運べるようになったんだからさ。」
「わかったわ。」
私は視線を動かさず返事をした。
この廃校になった小学生の生徒だった彼は 小学四年生になるまで いわゆる不登校だった。本人曰く、いじめが特にあったわけではないらしい。ただ、『なんとなく』行きたくないと思ったらしい。でも、親からは「理由がないなら学校へ行きなさい。」と強要されるようになり、より『行きたくない』気持ちが『なんとなく』日に日に強くなっていった。それによって学校に行けない自分はダメな子なんだ、いらない子なんだと思うようになったと彼は虚ろな目をして、あのとき語った。それを聞いた私は
「別に行きたくなければ、行かなくていいんじゃない。なんとなく行きたい時だけ行けばいいよ。」
と言った。その時、彼の目は少し光を得たように見えた。私は思った、彼が欲しいのは学校へ行くために背中を押す言葉ではなく、今の自分の状態を肯定し、一緒に手をつないでゆっくり進んでくれる言葉なのだ、と。あの頃私は少し雰囲気が明るくなった彼を
「猫さんについていけば、お家に帰れるよ。ここにはいつでも来ていいからね。」
と心配しつつ送り出した。
私がその時のことを思い出していると、彼が口を開く。
「でも、よく思い出してみると、君と会った日から毎日君に会うためにこの学校に来ていたな。」
懐かしそうに笑う彼にはあの頃の面影が残っている。無邪気な少年、この前出会った犬を連れた少年にどこか似ている。気のせいだろうか。私は「そうだねぇ。」と遅れて返事をする。
「あなたは私がいる時はいつも来てくれたわね。卒業した後にも毎年来てくれて嬉しかったわ。」
と言うと彼は
「僕がそうだったけど、一人は寂しいだろう。君は昼は見えないから誰にも気づかれない。薄暗くなってきた夕方から夜にかけて姿がはっきりしてくる。それを知っているのは僕だけだった。きっと『特別』だったんだろうね。その『特別』を大切にしたかったんだ。幼いながら君に寂しい思いをさせたくなかった。僕の勝手ではあったけど喜んでもらえていたようで良かったよ。」
と照れくさそうに言う。そして、お互い特に示し合わせることもなく、星空を見上げる。
私は初めて知った少年の思いに驚いた。気づかないうちに「誰かの『特別』」になっていたらしい。身近に幸せは落ちている。けれど 前を向く私たちは足元にある小さな紫の花を通り過ぎてしまう。一度立ち止まりあたりを見回すことで、私たちはそれを意識の内側に入れることができる。私はきっと、たくさんの幸せを取りこぼしてきた。だからどこか満たされない。たとえ、小さな金魚鉢だとしても大きなスプーンで水を一杯だけ入れる、その作業を毎日やったとしても満杯になるのはいつになるだろうか。ものすごく時間がかかることは想像に難くない。今の私は3割ほど溜まったところだろうか。長い年月を重ねてもこれしかない。私は今、取りこぼしたものを拾いに戻っている。全てを見つけられたら8割くらいまで溜まるだろうか。どうなるかはわからない。けれど、心が満たされるだろうということはわかる。自分以外の他者がいることで少しずつ、気づき、満たされていく。
「今年、孫が中学生になるんだよ。」
と前触れもなく彼は話し始める。
「やんちゃだけどいい子でね。たまにうちの犬、カイって言うんだけど散歩に連れて行ってくれるんだよ。この前、遅くまで帰ってこなかったから 心配したんだけどね。」
私は点と点が繋がった。どうりでどこか似ているんだ。
「あなたの孫の名前、もしかしたらハヤテじゃない。」
と問うと、彼は頷いた。
「そうだよ。やっぱり君のところへ行っていたんだね。なんとなく、ハヤテの様子とこっそり聞いた話からそうじゃないかと思っていたよ。世話になったね。」
「世話になった、だなんてそう言われるようなことをした覚えはないわ。」
「でも、散歩へ行く前よりも帰ってきたとき、明るくなっていたんだよ。少なからず、ハヤテの話を聞き出してくれた君のおかげだ。ありがとう。」
見つめてくる彼の目を見て少し照れくさくなった。今までこんなにも、真っ直ぐ、感謝されたことなどない気がしたからだ。
「こちらこそ、ありがとう。」
と私は言う。彼は
「何だい、急に。僕こそ感謝されるようなことしていないよ。」
と首を傾げる。
「気にしないで、なんとなく言いたくなっただけ。」
私のこの言葉に彼はさらに考え込んだ。
「本当に、あなたがいてくれたから私は見落としていたことに気づけた感謝してもしきれないんだよ。」
と心の中で呟く。横を見ると彼はそのままの姿勢で夢へと冒険をしていた。私は彼の肩へ、そっと寄りかかり、はらはらと落ちてくる花びらを眺めていた。
いつしか空は朝が顔を出し始めていた。私が姿勢を変えると、彼は目を覚ました。キョロキョロ とあたりを見回し、ぽつりと
「あぁ、もうこんな時間か。帰らないと、みんなに心配かけちゃうねぇ。」
と言い、杖で体を支えながら腰を上げる。私もそれに合わせて立ち、行けるところまでついていく。私にとっての境界線、その内側で彼は振り向いて、
「また来年も来る。」
と宣言する。
「待っているよ。」
と私は小さく返事をし、ゆっくりと遠ざかる背を見送った。
「また、来年も、本当に、ここに来てくれるよね。」
この言葉を胸の内にしまったまま。
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