道の穴

真花

道の穴

 穴に落ちた。そうだと思う。

 仕事からの帰り道だった。家に着いたらまずは風呂に入ろうとか、ネット麻雀をするのが先かとか、考えていた。あるはずの地面が急になくて、そのまま落ちた。何が起きたのかあまり把握出来ないまま体が下がって行く感覚に、落ちたことだけは理解したけど、だからどうすることも出来なくて、とにかく混乱したまま落下して行った。

 穴ならそのうち底がある。だけど、底につく前に俺の混乱は治った。冷静になるのが早かったのではない。底がいっこうに来ないのだ。時間にして十数分落ち続けた。俺は無様な体勢を整えて、空中にあぐらをかいた。どうせ底に激突すれば死ぬ。それまでの間に何か最後のことをしてやろう。

 周囲は真っ暗で、空気はちゃんとある。気温は外気よりは少し低くて過ごしやすい。見上げても落ちた穴はもう見えない。ただただ落下していることだけが体感として分かる。スカイダイビングってこんな感じなのかも知れない。でも景色がないからスカイダイビングのよさの半分も体感出来ていないような気がする。持っていたカバンはちゃんとある。だからスマホもあって、電波はどうかと思ったらそれは届いていなかった。こんなに深いのだから仕方がない。ここから表に出ることは不可能だろう。つまり俺は既に現世から隔絶されている。底に到着したときに死ぬ、それまでの猶予期間を泳いでいる。孤独な老後ってこんな感じなのかも知れない。俺がここで何をしても誰にも影響しない。そっくりだ。そう考えると、誰かに何かの影響をしたいと言う気持ちが俺にはあるのだ。それは案外大事なものなのかも知れない。

 俺に嫌がらせをするあいつの心理も影響を与えたいと言うことからなのかも知れない。迷惑だし、殺したいけど、この状況になってみるとちょっと理解出来てしまう。誰にも影響しないと言うのはつまり存在しないと言うことと同義なのだ。人間関係をどうこうすることが大好きな人々も同じ心理なのだろう。逆にゴシップとかを楽しむのは、影響を受けることを確認しているのだ。この状況だと影響を受けることも出来ない。影響を受けられないと言うのも次第に苦痛になっていくだろう。

 真っ直ぐに落ちて行く。底には着かない。景色は変わらない。

 仕事のことはもう忘れてしまえ。俺がいなくても、ちゃんといなくなったなら、誰かが何とかするはずだ。結局代替可能なところにしか俺はいなかったし、こうなってみればそれでよかった。結婚はしてないし子供もいない。両親は元気。俺が行方不明になったら心配するだろうな。でもどうしようもない。友達は連絡がなければ別にと言うところだから、どこかで最近あいつ見ないなと思うだろう。俺の持っている関係性なんてそんなもんだ。

 後は思い出をくるくる回してみようかと思ったけど、何だかそれはつまらない。そんなものなんてなくたっていい。そうやって生きて来たのだから今さら思い出に浸れない。

 あの人に告白していなかったことだけは後悔して死のう。ずっと片思いだったのは間違いなくて、同じ職場で出会ったことは奇跡で、でもあの人は俺をひとりの人間としては扱っても男性として扱ったことはなかった。確実にフラれるだろう。だから、もうちょっと距離が近付いてからアプローチをしようと目論んでいた。それは遠い未来のことじゃなかったはずだ。でも、俺は穴の中。この恋も一緒に落下して行く。

 底に到達しない。そんな深い穴が存在するのだろうか。一分で100メートルしか落ちていなかったとしても、既に三十分は経過しているから三キロだ。実際はもっと距離は長いだろう。もうすぐマリアナ海溝くらいの深さになるのではないか。

 それとも実はとっくに底にぶつかって、体はそこに置いて心だけが勢いよくはみ出て地球の真ん中に向かって進んでいるのかも知れない。ほっぺをつねると痛いし、体感としては全く実体だから、たぶん、生きている。ぐんぐん落ちて行く。

 考えるべきことが、でも、終わってしまった。

 何の罰かは分からないが、宇宙船で単独で宇宙をさまようみたいで、せめて救難信号を出せればいいのに。

「助けて!」

 上に向けて放った言葉をそこに残して落ちて行く。声はきっと穴の外までは届かない。

 いよいよやることがない。

 俺はただただ落ちて行く。俺は確実に死ぬ。それまでの時間は分からない。

 だからせめて、両親と友達とあの人の日々が素敵なものになるように祈ろう。祈るってのはどうも、やることが何もなくなるとする行為のようだ。宗教的な祈りではない祈りの話だ。手を組んで、想いを空に電波のように発射する。返事はもちろんない。それでいい。

 俺は祈りながら落下を続ける。本当の奇跡が起きたら生還するのかも知れないけど、それを望むことが許される距離を遥かに越えて落ちている。

 俺は祈る。

 俺は落ちる。

 どこまでか分からないのなら、そのときが来るまではずっと、祈ることをやめない。

 と思ったが、祈るのにも飽きるし疲れる。しばらくぼーっとしてからまた祈った。次に祈るのを中断したとき、俺は寝た。寝たまま死ぬのも嫌ではあるが、一日働いてからずっと落ちているのだ、疲労感が強かった。だから寝ようと思ったらすんなり眠れた。

 起きたとき、景色は同じで落下の途中であることも同じだった。すっきりしていたから数時間以上寝ていたはずだ。寝て起きたらベッドの上と言うことは生じなかった。俺は引き続き祈ることにした。いずれ餓死なり水分摂取不良で死ぬのが先に来る可能性も考えなくてはいけない事態だ。それも嫌だ。かと言って底にぶつかるのも嫌だ。いずれにせよ死ぬのだから嫌だ嫌だ言ってもしょうがないのは分かっている。よく寝た頭で考えてみれば、受け入れるしかない状況なのは明白だ。

 だから、結局祈る。みんなの幸せのために。でもそれがどれくらい意味があることなのかには疑問がある。それでも、今出来ることの全てがこれなのだから、やる。

 俺は祈る。

 俺は落ちる。

 いつか底にぶつかるまで。


(了)

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