天使病の少女の話
リョウカイリ1004
天使病の少女の話
プロローグ
昔、なんでもない存在になりたかったことがある。人でも動物でも植物でもないただなんでもないもの。しかし意思というものは存在する超常的な存在に。
理由は上手くは説明できないがとても変な理由だったことを覚えている。まだ幼稚園生だったにも関わらず、とても変な人間だった僕は人間が自分の顔をアニメやゲームみたいな三人称の視点で見ることができないことに喉元からなにかを吐き出してしまいそうになるような不快感とモヤモヤした感覚を覚えていた。
そこから人間じゃない神様のような存在になれば、そのモヤモヤは解消されるだろうと想像して結論に至ったのが空中をただふわふわと浮遊する“何か”。
幼児ながらそのようなことを考え、よくわからないようなものに憧れた。そんなことを高校生になった今でもなお忘れられないでいるから僕はいつまで経っても空という存在から興味が失せないのだろう。
【一】天使病
「天使病」という病気がこの世にはあるらしい。
昼休みの時間を過ぎ去り眠気を促進する陽光が教室の窓から差し込む6時間目の授業中、教室の黒板に文字を書き示している僕の担任の背中を見ながら僕はそんなことを思っていた。
天使病。名前を聞いた時とても綺麗な名前だと思った。そして可愛らしく神々しい天から舞い降りる天使の姿が僕の脳内に浮かび上がった。金髪で、頭に天使の輪のある大きな翼の生えた存在。天使病にかかった人はそんなステレオタイプな天使になるのかななんてくだらない想像を膨らませながら先生の話を聞いていたら、僕の想像と現実とのギャップの差を感じさせられた。天使病はどうやら発症した人の背中から羽が生えてくるだけの病気らしい。
別に発症したからって金髪にもならないし天使の輪が頭の上に出現するわけでもないただ翼が生えるだけの病気。だから「天使というよりかは有翼人という方が正しいのではないか」なんてどっちでもいいだろうと思うような意見もあるらしい。
翼が生えてくるだけだと言ったものの発症した人から生えてくる翼は鳩や雀のようなただの翼ではなく、文字通り神話や童話に出てくる天使のような純白の羽が生えてくるようだ。
天使病は僕が生まれてからずっと前、戦後間もない頃に初めて存在が確認された病気で発見されたときから年に数名ではあるものの毎年その数を増やし続けている病気のようだ。何故数が増えているのかは分からないが、それの影響もあってか最近では天使病を身近に感じるという人が増えてきたようで、天使病に対して理解を示したり受け入れるといった行動の傾向が強いらしい。しかし、やはり人間という生物の根幹はいつまでたっても変わらないらしい。
なんの前触れもなく背中から羽が生えてくるという人知を超えた現象と人の体が人ならざるものの要素と組み合わさっているといういわゆる奇形であることがどうやら世間の人々にとっては不快に感じることらしく、昔から天使病の人に対する差別と偏見は絶えないようだ。
差別はなくそうとかと世間は体の良いことを言っているが結局は偏見や差別に目を向ける人間のその本質は変わらない。愚かだし、軽蔑に値するが、それが人間というものだから仕方ない。人間はどこまで行っても人間なんだと、僕は誰に向けるわけでもない軽蔑と呆れの感情を向ける。
しばらくすれば、先生が長々と話している面白いようなつまらないような話に一々反応して暇を潰していた時間も授業終了のチャイムによってついに終わりを告げた。
「それでは今日の授業はここまでとします。皆さん天使病に関しての調べ学習をしっかりとやってくるように」と先生が言い、起立、気を付け、礼の三つの行動を済ませた後に先生は教室の外へと消えていった。
「はぁー課題めんどくさいな~」
ため息の混じった愚痴をこぼしながら体全体を上へと伸ばす。
「天使病ってホントにあるのかな?」
僕の友人である安村が声をかけてきた。
安村は僕が高校生になってからの友人で高校入学当初から馬が合い、高二になった今でもこいつとの関係は続いている。安村は授業終わりに僕に話しかけてくることが多く、話しかけてきた時は決まってさっき受けた授業の話をしてくる。
「どうだろう?授業とかで話されてるんだからいるにはいるんじゃないかな?」
「でもさ、俺生まれて一度も天使病の人なんて見たことないぜ。清は?」
「僕も見たことないな。テレビでちらっと見たかもしれない程度かも」
「だろ?だから実は存在しなくて政府の陰謀だったりしてな」
「流石にそれはないだろ。もし仮にそうだったとしても無意味すぎないか?病気の偽装なんて」
「それもそうだな。でも、見たことないって奴の方が多いんだしちょっと半信半疑だよな」
「そうだな」と、言ったタイミングで教室の外から安村のことを呼ぶ声がした。その声の主を確認した安村は「ごめん、委員会の方で仕事あったんだった」と、僕に手を振りながら何処かへと消えていった。
安村と天使病について話したことでそれに火が付き、天使病に関しての考察を繰り広げる。
授業中に先生は天使病の発症件数に比例するように天使病が身近に存在している人が増えてきていると言っていたが僕はそのように感じたことは一度もなかった。
あくまでも傾向の話なのだから全ての人間に当てはまるものではないということは百も承知ではある。しかし、僕は天使病を発症した人を一度たりとも見たことはない。一応、今までに天使病のことを知らなかったわけじゃない。小学校や中学校の総合の授業や興味本位で読んだ本の中、テレビでだって出てきていたこともあった。
けれども、街中を歩いていて羽を生やしながら歩いている人間なんて誰一人として見たことはない。そういった人を見たことがないのだから信じたくてもどこかで疑問が残る。
陰謀論者や地球平面説信者たちと根本は同じだ。存在すると教え込まれているが直で見た人はほとんどいないのだから本当かどうかはわからない。結局は直接この目で見て確かめてみないことにはどうにもならない。
僕は心の中で天使病の有無について休み時間が終わるまで考え続けた。しかし、今日という日が終わりへと近づいていくにつれて天使病のことは頭から抜けていき、考えることすらしなくなった。
しかし、また天使病についていやでも考えさせられることになったのはそれから三日ほど経過した放課後のことだった。
その日は空に色濃く厚い雲がかかり、朝から強い雨が昼頃を過ぎても降り続けていた。
この日はたまたま授業が午前中までしかなかったので学校の生徒全員が早く帰れるということに浮かれていることを隠せていなくていつもよりも少し騒がしい一日だった。
うるさくなっていた学校は数時間しかない授業をこなせばすぐに消え去ったので、僕は悠々自適に自宅に帰るはずだった。しかし、ついうっかり真っ昼間だというのに眠気を感じてしまい、そのまま寝過ごして新宿駅まで運ばれてしまった。
普段の僕ならそのまま反対方向へと向かう電車に乗って最寄りの駅まで戻っていくのだが、不思議なことにその日の僕は駅のホームから抜け出して新宿駅の改札口まで向かった。そして、計画性もなしに新宿の街を練り歩いた。
その頃になるともうすでに雨は止んでおり、雲と雲の隙間から眩しい陽光が高層ビルの窓ガラスに反射して僕に向かって降り注いでいる。
正直、自分がなんでこんなことをしているのか自分自身でもよくわかっていなかった。
今日は中間テスト期間の真っ只中、しかも一週間前を過ぎている。それに成績だって特段いいわけじゃない。言ってしまえば悪い方にいる。
だと言うのに僕はなんとなく、今もなお新宿をダラダラと歩き回っている。本来なら今すぐにでも回れ右をして駅の方面へと向かうべきなのであろうが、どうせ家に帰ったところで勉強なんて少ししかしないだろうし、はっきり言って勉強などしたくない。
そのため、僕は一種の気分転換だと思うことにして散歩を続行した。
そうして二十分ほどが過ぎたころだったろうか。流石に歩き疲れた僕は広場に設置されているベンチに腰掛けて空を眺めていた。
空には相変わらず灰色の厚い雲が滞空していたものの、雲と雲との隙間は徐々に広がってきており、あたりが一本の線のように伸びた太陽光の数々によって照らされ始めている。
その光を頭を空っぽにした状態でただじっと眺めることにより、心を安らかな気分にさせていると、およそ二、三十階建ての高さ百五十m程の高層ビルの屋上に”何か”があるのが見えた。
僕は特段目がいいほうというわけではないが平均よりは目がいいほうだ。なので、はっきりと輪郭までとらえることはできないが何であるかまでは補足できた。
屋上に見えるそれはどこの屋上にもある落下防止用の柵のような物のすぐそばに存在しており、人に近しい形状をしていた。背筋が凍ってしまいそうな想像が頭を横切るが、その可能性を信じたくはなかったので何かのオブジェクトであってほしいと胸の奥底で念じながらさらに目を凝らす。
しかし、僕の期待を裏切ってくるかのように屋上にあるものは僅かにだが”動いた”
それを見た瞬間、僕は無意識に走り出していた。何故かなんてどうでもよかった。
今、僕の頭にあったのはとにかく動かなければいけない、見てしまったのだからやるしかないという思いだけだった。
入っていいのかどうかすらわからないビルに駆け込んでエレベーターと階段を駆使して登っていく。無我夢中に。
最上階に着けば重量感を感じる鉄製の扉が僕の前に立ち塞がったが僕はドアノブを握りしめ、扉に向かって体当たりをするかのように全力で、勢いよく扉を開ける。
瞬間、視界に飛び込んできたのは”天使”だった。
文字通りの天使。物語の世界でしか存在し得ないような翼を有した人間がそこにはいた。
その人の背中に服を突き破って存在している一対の純白の翼は、人間一人を簡単に包み込んでしまいそうな程に巨大で、そして神々しかった。
そんな翼を所有している存在は、一体何者であるのかと激しく動揺する好奇心に駆り立てられて、視線を少し左の方へと向ければ一人の少女がそこにいた。
薄灰色をしたパーカーのフードを目元が若干隠れるまで深く被っていたことで、性別をはっきりと区別することは不可能であったが、フードの隙間から垂れる長い黒髪は、確かに女性のものだった。
少女と断定した存在が持つ翼は屋上周辺の晴れ渡った空から差し込む光を全反射することでさらなる存在感を放っていた。
僕は翼に視線を釘付けにされてしまったことで、その一点にだけ視点を集中させていると彼女が唐突に唇を動かす。
「あなた、誰?」
透き通った声だった。向こう側まで鮮明に見えてしまいそうなほどの透明感を持ったその声は女性特有の高く、綺麗な声ではあるが声のトーンは低く、社交的という雰囲気ではなかった。それはどこか威圧的でまるで僕のことを軽蔑し、警戒し、排斥するようだった。
僕は彼女の圧に気圧されて一歩後ずさりする。
想像していた返答と全くもって真逆の言葉が返ってきたことで僕が頭の中で想定していた会話イメージが遥か彼方へと消えて行く。
僕は正直、女性という存在に苦手意識がある。別に嫌いだというわけではない。ただ生まれてこの方女性と話した経験がほとんどと言っていいほどない。だから、女性と対峙すると反射的に尻込みしてしまう。それに加えて向こうは明らかに僕のことを警戒している。こんな状態ではただ話すということすらも非常に困難なことである。
下手に首を突っ込むべきじゃなかったと今更ながらに心の底で深く後悔する。
しばらく、僕と彼女の間で沈黙が流れた。
いつまで経っても質問に対する答えが返ってこないことに痺れを切らしたかのように、僕に再度言葉を投げかける。
「こんなところにくるなんて自殺志願者かなにか?それなら悪いけど他をあたって。ここは私の特等席だから」
またしても、僕をあざけるような言葉だった。
無関心、その言葉が一番似合っていた。僕の存在などそこらへんにある石ころよりもどうでもいいと言われているようだった。
そんな意味がこもっている言葉を一度ならず二度までも言われたことで、僕の中で対抗心に似た感情が湧き上がってくる。
「そういうあなたはここで何してるんですか?こんなビルの屋上で。はたから見たら、あなたのほうが自殺志願者に見えますけどね」
そのような言葉を言った僕はまるで子供扱いされたことを悔しがる小学生の様だった。
「そんなこと、あなたには関係ないでしょ? 早く出てってよ」
「嫌です。そんなことしてあなたがここから飛び降りでもしたら目覚めが悪いですからね」
「私はそんなことはしないよ。する必要もないし。自分から死ぬなんてめんどくさい」
「でも、屋上に上るなんて、生きたいと思ってる人がするような事でもないような気がするよ」
僕はベッタリとまとわりつき、ウザいと思われるほどしつこく彼女に言葉を投げていく。
すると、彼女は段々と眉間にシワを寄せて怒りを露わにする。
「ああ、もう、面倒くさいな。そんなに私のことが気になるんなら適当にその辺に居座って私のこと見てればいいじゃん」
彼女のその言葉に僕は納得を覚える。
「それいいな。じゃあそうさせてもらうよ」
そう言って、僕は雨によって薄灰色から黒ずんだ灰色へと染め上げられたコンクリートの地面の中から、なんとかまだ濡れていない部分を見つけ出し、カバンを地面に投げ落とすように置いてからそこに腰を据える。
しばらくは彼女が飛び降りないよう見張るために彼女のことをじっと見つめていたが、数分もすれば段々と飽きてきてしまったので僕はカバンの中から本を取り出し、読書にふけった。
本の中の世界へと意識を没入させながらも何度かチラチラと彼女のいる方向に目をやる。
彼女を見ようとすると、どうしても見てしまうのは、やはりあの純白の翼だった。
天使病発症者。十七年間生きてきたこれまでの人生の中で初めて見た存在、現実に存在するかどうかすら疑った存在が今、僕の目の前にいる。
天使という言葉から、常に笑顔を浮かべている和気藹々とした陽気な存在を勝手に想像していたが、彼女のことを見ていると当たり前のことではあるが、みんながみんなそうではないらしい。
屋上に居座り続けてからかれこれ一時間以上が経過しようとしているが、彼女は相変わらず目元に暗い影ができるほどフードを深々と被りながらただ時間を潰すためだけにスマホをじっと眺めている。
それらの様子から童話の中に出てくるような笑顔を浮かべた、心優しい天使といった要素は微塵も感じられない。
しかし、彼女のことを天使と呼称するには、翼だけで十分だった。
彼女は自身が持つ翼を見せつけるように広げるでもなく、折りたたむということもせず、彼女自身を包み込むかのように翼を前方へと広げていた。
その姿は外敵から身を守るために体を丸めるアルマジロと近しいものを感じた。
彼女と話した時や今の彼女の言動を見るに、どうやら彼女は人と関わるのがあまり得意ではないようだ。
僕は徐々に彼女のことが気になり始めていた。
天使病の人間が送ってきた人生を、性質を、人間性を。想像もできない自分とは全く別の存在の一端をどうしようもなく知りたくなった。
「ねぇ、あなたの名前なんて言うんですか?」
己の欲望に従い、僕は恋の衝動とも呼べるような好奇心の塊を吐き出す。
「なに?急に。気持ち悪いんだけど」
僕の方に視線を向けてから彼女は明白な嫌悪を示す。
「いや、なんとなく気になったから・・・・・・」
僕は少し弱腰になりながら言った。
「それ、私にメリットある?」
「メリット? メリットはないけど・・・・・・相手のことを知るにはまず名前からかなって」
「私のことなんか知ってどうするの?」
「別にどうもしませんよ。ただあなたのことが知りたいだけです」
僕がそう言ったとき彼女は一瞬驚いたような表情を見せたがすぐに元の無表情な顔に戻って「ふ~ん」と呟く。
彼女から渡された言葉に何と返せばいいのか思い付かずこのまま会話が終わってしまうような気配を感じた次の瞬間、彼女が僕に問いかけた。
「私のこと気持ち悪いと思わないの?」
何の脈絡もない唐突な質問だ。少しばかり何と返答するか戸惑う。しかし、少し考えて数日前に受けた天使病の授業のことを思い出す。天使病を発症した人に差別や偏見を向ける人がいるということを。
彼女はそういった事を気にしているのだろうか。僕が彼女の外敵になり得るのかどうか。だから彼女は終始僕に対して警戒と嫌悪の視線を向けているのかもしれない。心の中で点と点が繋がったような気がした。ならば僕は彼女にこう答えるべきだろうと返答する言葉を定め、言葉を紡ぐ。
「全然気持ち悪いと思わないよ。それに気持ち悪いと思ってたら今こうして話してない」
その言葉を聞いた彼女は、何故だかはわからないが狐に化かされたかのように面食らっていた。彼女は先程まで僕に向けていた目線を明後日の方向へと逸らして、しばらく考え込んだ後に言葉を紡ぐ。
「ミア・・・・・・」
「え?」
「天音ミア。それが・・・・・・私の名前」
本当に名乗ってくれるとは思わず、彼女が名乗ったことに咄嗟に反応できなかった。フリーズした脳を瞬時に起動させて僕も名乗る。
「僕は赤百合清って言います」
「赤百合・・・・・・赤百合・・・・・・」
天音は何度も小声で僕の苗字を呟く。
「なんだか可愛らしい名前だね」
クスクスと笑いながら天音ミアと名乗った彼女はそう言った。
「ちょっと気にしてるんでやめてくれます??」
「ごめん、ごめん。あまりに名前と性別とのギャップがあったからつい」
天音は少し間を置いてから再度、僕に言葉を投げかける。
「ねぇ、私たち友達にならない?」
「はぁ!?」
僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「なんで、そんな急に?」
「だってあなた面白いんだもん。それに、なんでかは知らないけど私のこと知りたいらしいからついでにと思って」
僕にとってそれは願ってもいないことだった。
僕は彼女のことを知りたいと思っていたものの、僕のことを散々拒絶していた彼女を知るにはどうすればいいのかと頭を悩ませていた。
しかし、理由はわからないが彼女のほうから僕の方へと歩み寄ってくれた。これほど望ましい状況も他にない。
「いやだった?」
思考の渦へと引き込まれ、しばらく黙り込んでしまっていた僕のことを彼女が現実へと引き戻す。
「嫌じゃないですよ」
「ならよかった」
彼女は先ほどまで鉄柵にもたれかかって座っていたところから立ち上がって、僕の眼前へと歩いてきた。
そして、右手を前へと差し出した。
「これからよろしくね」
天音がハイトーンの明るい声でそういった時、少し強い風が吹いたことによってフードが外れて見えるようになった彼女の笑顔は、今まで見てきた女性の笑顔の中でも最上位で、綺麗だった。
【二】天使との日々
天音と出会ってから早くも二週間ほどが経過しようとしていた。一学期の期末テストも終わり、夏真っ盛りの炎天下な日々が何日も続いていく中で学校全体では早くも夏休みのような浮き足だった雰囲気が流れ始めている。そんな中でも、僕はいつもと変わらない日常を謳歌している。
真面目に授業を受けながらたまに不覚にも寝てしまい、起きれば急ぎ足でノートをとる。そして休み時間になれば友人と話したくなって適度に友人たちを求め、一人になりたくなって適度に友人を拒絶する。
真面目と不真面目を交互に演じながら、飾りすぎず飾らなすぎず。どこにでもいるような標準的でまともな自分を演じ続ける。
そんな普段通りの学校生活を送っていればあと少しで今日の学校が終わりを告げようとしていた。
七時間目の授業が終わり、帰りのホームルームまでもが完全に終了したころ。どんどんとクラスメイトが帰宅していき、人数が少なくなってきた教室で、今日の放課後は何をしようかと体を伸ばしながら思案していると「帰りにカラオケ行こうぜ」と陽気な口調で安村が僕に声をかけてきた。
カラオケ······か。思い返せば最近はテストなどの色々な出来事が重なり、カラオケのような場所に遊びに行ったりすることが少なくなっていた。
たまにはこういった気分転換をしてもバチは当たらないだろうと安藤に行くという返事をしようとしたその時、天音の顔が頭をよぎった。天音のことを思い浮かべた瞬間、喉から出ようとしていた言葉は心の奥底へと戻っていった。
「ごめん、これから予定があるんだ。今日はパス」
「えーまた〜?この前の中間テストのときもそう言ってたじゃんか」
「そんなことあったっけ?それいつの話?」
「中間最終日の時だよ。あの日カラオケ行こうって約束してたのに急に来れないって話になっただろ」
「ああ、そうだったな。あの時はごめん、今度なんかで埋め合わせするからさ」
「それは別にいいけどさ、最近付き合い悪いじゃん。なんかあったの?」
「実は最近できた友達と遊ぶのが楽しくてな、それで手が離せないんだ」
僕は机の横にかけてあった学校カバンを手にとって教室の入口の方へと歩いていく。
「友達?友達と遊ぶだけでそんなことになるのか?流石に嘘だろ」
「ところがどっこい、嘘じゃないんだなこれが」
「そんなこと言って本当は彼女とかじゃないの?」
安村が茶化すように聞いてきた。
「ん〜彼女と言うより天使かな」
そう言って僕は安村の「は?」という言葉を尻目に廊下を駆けていった。
少しばかり急ぎ足で、夏の暑さをかき消すように、風を切りながら走って駅まで向かった。
早く天音に会いたいという気持ちが先走って仕方ない。
電車に乗り込んで席に座っても、ずっと心の奥底がそわそわした気持ちになる。
いつまで経っても彼女のことばかりを考えてしまう。一度考え始めたら止まらない。
この気持ちの名前を僕は知っているはずだが、僕はその答えを胸底へと押し込めて知らないフリをした。
そうしないと照れくさくなって天音にどんな顔をして会えばいいのか分からなくなりそうだったから。彼女との今の関係が崩れてしまうような気がしたから。
定期的に感じる電車の振動にしばらく揺さぶられていると、気づけば新宿に到着していた。新宿駅で降りる多くの人の流れに乗りながら素早く最小限の動きで改札の方へと歩いていく。
学校終わり。夕方へと差し掛かった新宿は無数の人でごった返していた。僕の進行方向とは真逆の方向から来た仕事終わりであろうスーツを着た人達や通りすがりのカップルたちが僕を前へと進むのを妨害するための壁へと化している。
押し寄せてくる人の波をかき分けて進んでいく。髪の毛一本ほどの隙間しかないように感じられる人と人との間を潜り、縫うように突き進んでいく。たまにタイミングがずれて誰かのカバンが僕の肩に衝突するが、そんなことなど些細なことだと目もくれずにただ一つの目標へと向かって進む。
人の間を右へ、左へと潜り抜けていくので自分がちゃんと目的地へと向かえていないのではないかという不安に思われそうになるが見覚えのある建物を発見し、それを頼りに進んでいけば目的地へと辿り着いた。そこは天音と初めて出会ったビルの正面入口だ。最近ではここに入ることが日常化されつつあるが、ここに入ろうとするたびにどうしても緊張感を感じてしまう。
天音を見つけてここの屋上に上がって行った時は気づかなかったがここは中々に高級な雰囲気のあるビルだ。暖色系の灯りが空間を支配し、寝っ転がっても気持ちよさそうな黒の布製の床が各フロアに広がっている。そんなビルにただの学生が入っていいものかという不安がビルの中に入ってからも全身にまとわりつく。いつか警備員に首根っこ捕まえられてビルの外に放り出されるんじゃないかな・・・・・・と僕は心の中でそう呟いた。
このビルの最上階、屋上へと行くための動線上にはあいも変わらず重苦しい鉄製の扉が門番のように立ち塞がっている。だがしかし、この門番はいつもさぼっている。僕が扉の取っ手に手をかければ扉はあっさりと開く。天音と出会った日からほぼ毎日ここにきているが一度も鍵がかかっているところを見たことがない。扉に貼り付けてある立ち入り禁止の文字は何なのかと思いながら取っ手に手をかけて扉を押せば、扉はいとも簡単に開く。
扉をくぐった先には天音がいた。相変わらず天音は屋上の柵を背もたれにして手に持ったスマホを弄くっている。天音に近づこうとすれば僕に気づいた天音が「あ、清だ」と呟く声が聞こえた。
「久しぶり・・・・・・でもないか。三日ぶりくらい?」
「いや、二日ぶりかな。今日が十四日で前に天音と会ったのが十一日だったし」
「そうだったね。今日来るのいつもより遅くかったけどどうしたの?」
ふと左腕につけている腕時計を見てみれば腕時計は午後五時半を示していた。普段ここに来ている時間は午後五時前後なのでそれに比べたらいつもよりも遅い。僕は今初めて自分が遅い時間にここへ来たことに気がついた。
「ごめん、今日掃除当番でさ。掃除してたら遅くなっちゃった」
「掃除に時間がかかったの?」
天音は不思議そうな顔を浮かべて首を傾げる。
「時間がかかったっていうよりかは電車を逃したからって方が近いかな」
天音はさらに首を傾げる。
「うちの学校、ここから結構遠くの場所にあるからさ。一本逃すと次が来るまで時間がかかるんだよ」
それを聞いた天音はなるほどねと頷きながら深く納得していた。
「掃除してたらいつも乗ってる電車に乗れなくてさ。ここに来る時間帯そんな変わらないと思ってたら結構遅くなっちゃった」
「大変だね」
「大変だけどかれこれ一年くらいこんな感じの生活を送ってるからね。もう慣れちゃったよ」
「そういうものなんだね」
「そういうものだよ」
と返答に合わせるようにして僕は屋上の地面に腰を下ろす。僕の体が地面と触れたとき、僕はある疑問が頭に浮かんだ。
「そういえば天音の学校はどんな感じなの?」
「え?」
天音は不意を突かれたという声を上げた。
天音は僕がこの屋上に来たときには必ず僕よりも早くここにいる。僕が天音よりも早く来たことなど一度もない。僕が学校がいつもよりも早くに終わったときも、そもそも学校がなかった平日だってここにいた。まだ彼女と出会って一週間か二週間の付き合いだから偶然だという可能性もあるが、それにしたって少し妙だ。それがずっと頭の中から抜けなかった。
僕が天音がどんな反応をするのか見てみれば、天音は戸惑ったような表情をしていた。どんな事を言っていいのかわからないという様子だ。天音はしばらくあっ······えっと······といった意味にならない言葉をを言い続けている。
流石に言いづらそうだったのを感じた僕は言いたくないなら無理に言わなくても大丈夫だよと天音を安心させる言葉をかけようと立ち上がり、天音のそばに行こうとしたタイミングで「私······実は学校行ってないの」という言葉が天音から飛び出す。
僕は天音が告げた事実に思わず絶句してしまった。天音が学校に行ってないというのもそうであるが、一番の衝撃は天音が僕にその真実を告げてくれたということだった。先ほど何かを言おうとするたびに何かをためらうような表情を浮かべ、見るからに苦しそうだったにも関わらず、自身の秘密を打ち明けてくれた天音に僕は感嘆していた。
「なんで行ってないのかはまだあんまり言えないんだけど、あまり学校に行きたくなくてさ。それでずっと学校に行ってないんだよね。一応やめてはないんだけどね」
天音は取り繕うような苦笑を浮かべた。
僕は天音に何と声をかけていいのかわからなかった。天音があれだけ言いにくそうな素振りを見せていたから相当な理由があるのだろう。そこに変に何か励ましのような言葉をかけて下手に今のこの関係に傷をつけたくない。僕は何も言わずにいれば天音は明らかに罰が悪そうな様子で「ごめんね、こんなこと言って」と言った。それを皮切りに僕と天音の間に無言の時間が訪れる。
気まずい。とても居づらい。正直今すぐこの場からいなくなりたいのが本音だ。だが、そうするわけにもいかないので相変わらず鉄筋コンクリートの地面に床に腰を据えている。この気まずい空間を消し去ろうと、脳内で天音に何と声をかけるべきかと模索する。
だが、僕が考えるどれもこれもが箸にも棒にもかからないようなものばかりだ。無言の空間は未だに存在している。周りから響いている環境が嫌でも聞こえてくる。鳥のさえずりやビルに取り付けられたテレビ広告の音、新宿中を走り回る広告車が撒き散らすうるさい歌など。とにかくたくさんの物音が聞こえてくる。
僕だって陽気に歌の一つでも歌ってやりたいよなんて内心で広告車に対しての怒りをふつふつと湧き上がらせていれば、僕の脳内に一瞬よぎるものがあった。「歌」という言葉に何か引っかかるものを感じた。しかし、それがなんなのかはすんなり出てこない。喉の奥に魚の小骨が刺さって抜けないような感じだ。僕はゆっくりと引っかかりの正体を掴もうと自身の内面に意識を向ける。
記憶を辿り、言葉の一つ一つから連想する。歌に関するものを記憶の中から辿っていけば一つの解へと行き着く。「カラオケ」だった。小骨の正体はカラオケだった。ここへ来る前に安村にカラオケに誘われていたことを思い出す。
ずっと喉の奥に引っかかったもどかしさが取れたことでスッキリとした感覚が訪れるがそれがなんなのだと思った。カラオケでこの気まずい静寂をどうにかできるわけないと微小の後悔を感じて気持ちを切り替えようとしたが、僕の頭にある名案が浮かんだ。僕は堪えきれずに思いついたそれを言葉にする。
「今度一緒にカラオケいかない?」
「え?」
天音はまたもや不意を突かれた反応をする。
「カラオケじゃなくてもいいけどどっかに遊びに行きたいな」
「う〜ん、どうしようかな·····」
天音は顎に手を当てて長い事考え込んでいた。何回もうーんといううめき声を上げながら頭を捻っていたが、しばらくすれば「わかった。一緒に行こう」と承諾してくれた。その後天音とどこで遊ぶかを話し合い、いつでも連絡し合えるようにと天音とは今までずっとしていなかった連絡先交換をして、今日という一日は過ぎていった。
【三】 天音の日常
天音と遊ぶ約束をしてから三日後の日曜日。新宿の東口で僕は片手に持っているスマホをいじりながら天音のことを待っていた。
時間は午前十時ごろ。昼少し手前ではあるが日曜日の朝の時間であるにも関わらず、新宿の街はすでに数えきれないほどの人で埋め尽くされている。スマホの時計が指し示す時間をちらちらと確認する。周囲を見回してみるが天音の姿はない。遅刻しているのではないかという想像と天音はここには来ないのではないかという不安が頭によぎる。
天音をカラオケに誘ったのは三日前のあの日に天音と話している時に陥った気まずい状況から抜け出そうとただ適当に言ったわけではなく、ある程度狙いをもっての行動だ。
天音と出会って天使病という存在が実在すると知った日からずっと気になっていたことがあった。それは、天使病にかかった人はどうやって日常生活を送っているのかということだ。天使病があるというのはもうすでに飽きるほど理解した。だが、僕は今までに天音以外の天使病の人を見たことがない。それは天使病の人の数が増加傾向にあるとはいえ、まだ数自体は相当少ないからというのもあるのかもしれない。僕が見逃している可能性だってある。しかし、天音のように両手を広げたときとほぼ同じ程の大きさの翼を持つ存在をそう簡単に見逃すだろうか。
天使病で地方に住んでいる人の割合が多いのかもしれないが、天音のように都会に住んでいる天使だっているだろう。それに天使であろうとなかろうと、人間社会の中に住んでいれば少なからず公共交通機関を使わなければいけないはずだ。天使病の人が電車などを利用していれば人目につくし、ネットで天使病の人を見たという情報があってもおかしくない。
だというのに、そんな情報は微塵もない。だからこそ、天音とこうしてプライベートで会うことになれば何かわかるかもしれないと思ったのだが、集合時間を五分以上過ぎても天音は現れない。連絡には何のメッセージもない。
天音とはある程度親しい中であったつもりでいたがそれも所詮は一週間か二週間ばかりの関係だ。ちょっと仲良くなった程度のどこの馬の骨ともわからないやつにいきなり遊びに誘われて来るはずもないかと落胆しながらもある意味納得してしまうような気分になる。
はぁと深いため息をついてその場から離れようとしたとき、背後から「おはよう」と天音の声がした。
咄嗟に振り返れば灰色のパーカーに黒のロングスカートを着た天音がいた。いつもと変わらずフードを深くかぶっているが、体格や仕草、声から一瞬で天音だと理解する。それだけ見ればいつもの天音だと感じる。しかし、今日の天音には普段の天音にはあるものがない。
「天音、翼は?」
今日の天音には翼がなかった。いつも見ていた純白の翼が、羽毛がそこにはなかった。
「翼?翼ならここにあるよ」
天音は自身の背中を指さして言った。だが依然としてそこに翼などない。「触ってみて」と天音が僕に促したので恐る恐る触ってみると感触は柔らかかった。ふかふかの毛布や枕を触っている感覚だ。それに触れているところからはどこか温もりを感じる。
「翼は折りたたんでからさらしを巻いてかくしてるんだ。こうすれば羽を隠せるから」
僕はそれを聞いて感心してしまった。だから天使病の人を僕らが普段見かけることはないのかと。
「これはお母さんが教えてくれたの。こうすれば周りの人に溶け込んで生きていけるからって」
「そうなんだ。天使病の人はみんなそんな感じなの?」
「全員かどうかはわからないけど少なくともお母さんはそう言ってたはずだと思う」
「優しいお母さんだね」
「いつも私のことを思ってくれる本当に優しい人だよ」
天音は一目瞭然の笑みを浮かべていた。
「僕もいつか天音のお母さんにあってみたいな」
天音が何かを言い淀む様子を見せる。
「私のお母さんは私が小さかった頃にもう死んじゃったんだ」
僕は不意な告白の内容にやってしまったと思い、申し訳なさが湧き上がってくる。
「ごめん。変なこと聞いちゃって」
「大丈夫だよ。もう何年も昔のことだし。そんなことよりも早く行こうよ」
時間を見ればもうすでに十分以上話し込んでいたらしい。
「そうだね。行こうか」
僕は天音に促されながら共に新宿の街へと繰り出した。
何千という人の海の中を歩きながら進んでいく。新宿でよく見かける多種多様な人たちが僕らとすれ違っていく。金髪の厳つい格好をした人や髪を鮮やかな赤の色に染めたロングヘアの女性など目移りしてしまうような人がたくさんいる。しかし、そんな存在が見劣りする存在が今僕の隣を歩いている。ここにいる人たちは天使病になった人とすれ違っているとは夢にも思わないだろう。もしかしたらここにいる人たちの中で天使病の人に会ったのは自分だけなのではないかという錯覚を感じてくる。そう思うと優越感があふれてくる。
だが僕の優越感をよそに気が付けば僕たちはカラオケ店の前まで到着していた。
結局今日はカラオケに行こうという話になっていたのだ。僕と天音はゆっくりとカラオケ店の自動ドアをくぐって中に入る。受付で店員への注文を済ませればあっさりと部屋と利用時間がかかれた伝票を渡されて部屋へと入ることが出来た。
部屋はあまり広いとは言えないが二人で利用するには十分な大きさだった。僕と天音は机を挟んで向かい合うように座る。見方によっては合コンやお見合いの席だなんて思った。
「カラオケなんか来たの久しぶりだな」
「そうなんだ」
「うん。何年か前に一回行ったきりでそれからずっと行ったことがなかった。だからもしかしたら私すごい下手かも」
「大丈夫だよ、僕もすごい下手だし」
僕は天音を横目に見ながら機械を操作して曲を入れる。そしてマイクを持って歌いだす。当たり障りのない最近ヒットした有名な曲を歌う。悪くない歌いだしをしてなんとか終わりまでもっていく。点数は八十点と悪くない。歌い終わったと同時に天音にマイクを手渡す。
天音はどんな曲を歌うのか気になってテレビ画面に大きく表示されている曲名を見ると、その曲は少しマイナーなアーティストの曲だった。数年ほど前に一つの曲がヒットしてしばらく有名になったのは覚えているがあまり有名ではない人の曲だったので僅かに意外だなと思いながら歌を聴く体勢にはいる。
次の瞬間、僕の耳に入ってきたのは美しい歌声だった。下手かもしれないという前口上はどうしたのかと言いたくなるほどの美声。美声は間違いなく目の前にいる天音から出ていた。透き通ったすんなりと耳に入ってくる透明感のある美声は一瞬にして部屋の中の雰囲気を塗り替える。僕は思わず聞き入ってしまった。自分が歌が上手いという意識はあまりなかったがそこそこなほうだと思っていた。それが消え去る音がした。僕は天音の歌声に感嘆しつつも心のどこかで悔しさに似たものを感じた。
天音が歌い終わればテレビ画面には大きく九十点と表示されていた。
「歌すごい上手いじゃん!」
「いや、たまたまだよ。好きな曲だからずっと練習してただけ」
「それでもすごいよ。このアーティストのこと好きなの?」
「そうだね。昔心が折れた時期があってその時に聞いて少し立ち直ることが出来た曲だから思い出なんだ。歌詞にすごい共感出来て」
「そうなんだ」
たしかに歌詞を聞いてみれば少し暗い曲調にマッチした歌詞で内容もどこか感覚的に共感できる部分がある。僕も気分が落ち込んでいる状態で聞いたら少しは立ち直れるような気がした。
僕と天音はそれからもいくつもの曲を歌った。有名どころからアニソン、世代的には大分古いような曲まで多種多様に歌った。気付けば僕らは五時間近くカラオケ店の中にいた。いつまでもこの時間が続いてほしいと思った。いつまでもここで二人でいられたらと思った。それほどまでに楽しい至福の時間だった。
だが、そんな時間もいつまでも続くわけではない。けたたましい電話の音が部屋全体に響き渡る。電話をとれば退出のお知らせだった。利用時間を過ぎても延長を繰り返していたが、流石に限界が来たらしい。僕たちは荷物をまとめておとなしく退出する。受付で会計を済ませて再び渋谷の街を歩き出す。
カラオケが終わったというのにいまだに気持ちは高揚している。どこか別の場所に行って再度遊んだりしようかと思った。天音も僕と同じ気持ちのようだったのでどこへ行こうかと談笑した。談笑しながら歩いていると前方に制服を着た女子高生グループがいた。今日は日曜日だというのに制服を着ているということは部活帰りだろうか。普通に学校帰りという可能性もあるが、どちらにしろご苦労様だなとただそれだけを心で唱えながら女子高生グループとすれ違った刹那、「あれ?天音じゃん」と僕らの背後のほうで天音の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返れば、天音に声をかけたのはつい数秒前にすれ違った女子高生グループのうちの一人だった。
声をかけた女子高生以外は天音を見ても誰だという表情を浮かべている。声をかけてきた女子高生は天音の友達だろうかと女子高生と天音の様子を交互に見れば女子高生が声のトーンが高い溌剌とした様子でいるのに対して天音は怯えているような苦悶な様子でうつむいている。どうしたのかと天音に声をかけようとしたときにはすでに女子高生の方が声をかけていた。
「天音すごい久しぶりだね!小学校以来?」
「そ·····そうだね」
「また会えて嬉しいな!そうだ今度何処か遊びに行かない!」
「え······えっと······」
天音は明らかに返答に困っていた。しどろもどろになって焦っているのが伺える。さらにはだんだんと脂汗まで滲んできている。
「そういえば天音翼は?私天音の翼綺麗で昔から好きだったんだ」
女子高生がグイグイと天音に詰め寄る。
「あ!もしかして昔みたいに翼隠してるの?見せてよ」
女子高生はそう言って天音の服の中に手を入れる。天音はやめてと言いながら抵抗するが女子高生の方が力が強い。僕が止めに入ろうとした時にはもう遅かった。女子高生の手にはおそらく天音が巻いていたであろうサラシが握られていた。
すると、天音に変化が起こる。天音の背中から何かが盛り上がり始めていた。いや、正確には天音の服がというべきか。張られたテントのように服の背中部分が盛り上がっている。それの正体が何なのかはもはや言うまでもない。
盛り上がった服はやがては耐えきれなくなったのか服の背中の一部が裂ける。そして裂け口から天音の翼があらわになった。普段見ている分には全く何の問題もない純白の羽も今この瞬間だけは出てくるなと思った。
周囲の視線が天音に釘付けになる。周りの人たちはまるで檻に入れられているもの珍しい動物を見ているみたいに天音という存在を面白がっているかのような目を向ける。
天音はそれらの視線を一心に受け止めて硬直している。手足の先が小刻みに揺れ、正常ではないのは一目でわかる。もはやこの状況であれば見なくてもわかる。僕は天音をこの状況に追い込んだ全てに怒りを向ける。今この場でこいつらに一矢報いてやろうかと考えたが、それは叶わぬ願いとなった。
刹那、天音が唐突に駆け出した。この場の全てに耐えきれずに自己防衛からの逃走。天音が駆け出すのに呼応するように人々が道を開ける。人の海が割れていく。僕も少し遅れてから天音のことを追いかけるが、天音の姿は割れ目の消えた人の海の中へ消えていく。すぐに見失ってしまった。
どれほど周囲を見回してもやはり天音の姿はない。僕は闇雲に天音のことを探した。駅周辺から今日行ったカラオケボックス、薄汚い路地裏に至るまで新宿の隅々を探したつもりだがどこにも天音の影も形もなかった。一体どこに行ってしまったんだろうと内心で呟きながら天音が行きそうな場所を考える。今の天音が行ける場所は限られているはずだ。翼を晒した状態では電車やバスには多分乗れない。天音ならしようとしないはずだ。だから天音はこの新宿のどこかにいるはずなんだ。
僕は頭を抱えて死に物狂いで思考する。何か見落としはないか、綻びはないか。何か大切なものを見落としている気がする。予想しろ。天音の気持ちを。僕が天音なら一体どうする。天音ならどこにいく。
自問自答を外界の時間感覚を忘れるほど引き延ばされた体内時間の中で行う。外界時間では数分程度しか経過してないのに何時間にも感じられるほどの時間を体内時間で味わう。それほどまでに深く内側に意識を集中して思考すれば一つの答えに行き着く。浮かんできたのは一つの光景。何故今まで気付かなかったのかと自分を恥じる。僕はそこに天音がいると確信できた。僕はすぐさま走り出す。天音が待っているあの場所へ。
【四】 僕と天音
向かった先は一つの高層ビルだ。もう何度も登ったビル。僕にとって運命の瞬間と出会ったビル。天音と初めて出会ったビル。彼女がいるのはここ以外あり得ない。僕は何故だかそう確信できた。それは天音と僕が何度もここで会ってきたからかもしれない。彼女にとっては何の変哲もない場所だったかもしれないがここは僕にとって思い出の場所だから。確信はしているが本当は僕の願いなのかもしれない。天音がここにいてくれたらいいという僕の願いなのかもしれない。だが、願いでもいい。天音と会うことができるなら、僅かでも望みがあるのなら、僕はどんなことでもやるつもりだ。僕は意を決して屋上への扉を開ける。
時刻は午後五時過ぎ。夕方に差し掛かろうとしているが夏場のためまだ明るいこの時間。夕焼け色に変わろうとしている太陽を背に案の定天音はそこにいた。
パーカーから突き出た翼はオレンジ色の太陽光に照らされて白とオレンジが淡いグラデーションになり、今まで見たことのない顔を見せている。
こんな状況ですら天音に対するどんな感情よりも天音のことを美しいと思うことが一番先にくる。それは天音にとっては失礼かもしれないがこの気持ちは抑えられない。
僕は天音の方へゆっくりと歩み寄る。僕が歩み寄るのと同じタイミングで天音が僕の存在に気づいた。僕は思わず立ち止まってしまう。
「天音・・・・・・大丈夫?」
僕は再度歩を進める。
「どうしてここに来たの?」
天音は低く冷え切った声で言う。
「天音が心配だったから」
「心配?私を?」
「そうに決まってるだろ。あんな事があったんだし」
僕はさらに天音の近くに寄ろうとする
「・・・・・・ないで」
「え?」
「来ないで!」
僕は思わず身震いした。天音が大声で叫ぶ瞬間など見たこともなかった。
「もう心配されるのはうんざりなの!今日みたいなことがあってもどうせ誰も助けてくれないんだから!」
「何があったの?」
僕は恐る恐る聞いた。
「私昔いじめられてたんだ。小学生くらいの時に。さっきの人は私をいじめてた人たちの一人」
天音が淡々と語る姿を僕は固唾を呑んで見守った。
「初めはいじめとは縁もゆかりも無い普通の学校生活を送ってた。普通の女の子みたいに特筆する必要もないような普通の生活を送れてたの。でも、私が天使病になってから全てが変わった。私は普通じゃなくなってしまった。私から徐々に翼が生えてくるのをみんなは面白がった」
僕はゴクリと唾を飲み込んでその先の言葉を予想し、天音の言葉により耳を傾ける。
「でも、初めはいじめとかじゃなくてそれ本物なの?とか触ってみてもいい?みたいな遊びみたいな可愛いものだったんだけど、ある時を境に遊びは遊びじゃなくなった。一人の男子が羽を抜いてみてもいいかって聞いてきたの。断りきれずにOKしちゃった私も今思えば悪かったんだけど、そこからみんなが私にやることがエスカレートしたの。じゃれ合いで羽を引っ張るようになったり、翼を思い切り掴んだり。だけど、そういうのもまだ耐えられた。我慢できたから大丈夫だと思った。でも、その後に私の人生最悪の出来事が起こったの」
天音が深く息を吸い込むのを感じた。これから言うことは言う決心をつけなければいけないほど衝撃的なことなのだと直感で理解した。
「その日はなんてことのない一日だった。いつも通りいじめに耐える日になるのかとばかり思ってたけどその日は教室に入ったときから様子がおかしかった。私が教室に入ってくるやいなやみんな一斉に私の方を向いて私のことを取り囲んだ。それからクラスの男の子の一人がなぁ天音って飛べるのかって言ってきたの。そう言われたとき私は何を言ってるのかわからなかった」「知ってる?天使病になっても人は飛べないの。天使病になった人に生えてくる翼はただの飾り。偽物の翼なの。だから飛べないってことをみんなに必死で弁明したんだけど、みんなはじゃあ試しに飛んでみてよって言ってきた。それからも必死に弁明したのにもしかしたら飛べるかもしれないってみんなが私に期待の眼差しを向けるのが怖かった」
天音は震えていた。自身の過去を話す天音の顔は真っ青で全身から血の気が引いているのが見て取れた。
「私が嫌がるのにみんなは止めずに無理矢理私を飛ばせようとした。抵抗したけど無駄だった。気がついたら時には私は空中に投げ出されてた。でも、不幸中の幸いに私のクラスの教室は二階だったから落ちたけどぎりぎり私は生きていた。そこからの記憶は少し曖昧だけど私は病院に運ばれて私が飛び降りたことは大きな事件になった。天使病の少女飛び降り事件って」
その事件なら僕も幼かったころだが聞いたことはある。僕が初めて天使病という名前を聞いたのもその時だった。たしかその時から世間は天使病という存在を認知し始めたはずだ。
「世間から広く認知されて普通なら慰謝料がどうのこうのとか大事になるはずなんだけど私の祖父母と学校がそれを拒んだ」
「なんでそこで祖父母が出て来るの?普通天音の両親が決めることだろ?」
「私の両親は私が小さいころに亡くなってて、当時の私は祖父母の家で暮らしてたんだ。でも、祖父母は私の翼の存在を気味悪く思ってて私には冷たく接してた。だからなのかはわからないけど祖父母は学校側から事件を大事にしないでほしいという頼みを受け入れた。そのくせ学校から多額の慰謝料をもらってた。なのにそのお金が私に使われることはなくて私は傷がある程度回復したらすぐに退院させられた」
醜悪という言葉一つでは飽き足らないほどの醜悪。この世の地獄があるとするならばまさにこのことだろう。僕は初めて反吐が出るような醜悪の味を知った。
「それからはどうしてたの?」
「事件の影響もあって私はだんだん学校に行かなくなったかな。翼を隠すようになったのもそれから。だけど家にはずっと祖父母がいるからできるだけ家にいたくなくて半分家出状態の外出が増えた。そのときから一人でいられる場所を探すようになったの。ここもその一つ」
気付いた時には天音から震えは消えていた。今はただ冷静に自分の過去を整理整頓するかのように天音は自身の過去について語った。
「誰も私を助けてくれなかった。助けを求めても無駄だった。さっきだって清に助けを求めようとしても無駄だった。だから、こんな世界もうおさらばしようと思うんだ」
天音は満面の笑顔で言った。
「そういうことだから止めないでね。もう決めたことだから。私と一緒に逝きたいなら話は別だけどね」
天音は僕に背を向けてゆっくりとビルの端へと歩いていく。一歩一歩僕から離れていく天音を眺めながら僕は天音に向かって言った。「じゃあ一緒に逝こうか」と。
「え?」と素っ頓狂な声をあげて天音が振り返る。
「正気?」
「うん。正気も正気だよ」
「本気?なんで?」
「僕も一度空を飛んでみたいの思ったからかな」
「馬鹿じゃないの?そんな理由で······」と天音が言おうとしたタイミングにかぶせるように僕が言葉をこぼす。
「それに天音を一人で逝かせたくないから」
天音は僕の言葉を聞いた瞬間大粒の涙を目からこぼした。天音の頬にいくつもの涙が伝い、天音の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。そして僕の体にしがみつき、ありがとうと言って大声で泣き続けた。それはまるで天音の心からの叫びのように感じた。人間という存在から様々な行為を受けて心を閉ざした彼女が久方ぶりに心の内を開放して感情をあらわにした瞬間。彼女本来の姿が見えたような瞬間だった。天音の泣きじゃくった声をうるさいと思うことはなく、不思議と聞けて良かったという気さえ思う。
天音が泣き終えた頃、僕と天音は手をつないで共に歩き出す。ビルの柵を乗り越えて屋上の最端まで行く。これからこの場所から飛び降りるのかと屋上に吹く風を感じながら思っていると、僕の手を握っている天音の手に力がこもるのを感じる。
「ねえ、もし生まれ変わったら何になりたい?」
「僕?」
「うん。あなたしかいないでしょ」
僕は「うーん」と言って少しだけ考え込む。そして天音の翼をちらっとみた。
「僕は天使になりたいかな」
「そうなんだ。じゃあ私もそうする」
「いいの?」
「うん。あなたとなら悪くない。それにもしかしたら本物の天使になれるかもだしね」
「たしかにそれはいいね。じゃあ生まれ変わったら二人で天使になろう。約束だよ」
「わかった。約束ね」
約束を皮切りに僕と天音は地面を蹴って空中へと飛び出した。
上空百五十m。自由落下中の君と僕。君の白い翼に包まれて、二人仲良く落ちていく。落ちる間際に見た君はこれ以上ないほど笑ってた。地面につく直前に僕はこんなことをつぶやいた。
「君と天使になれますように」
天使病の少女の話 リョウカイリ1004 @20240203
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