無知の土

新田論

第1話

 真っ暗になったこんな夜でさえも湿度の高い空気が熱を帯びながら支配する。その空気に押しつぶされながらなぜか僕は外にいた。急に友達に呼び出されたので、着回されてヨレヨレになった白い半袖と膝まで見えるハーフパンツで出てきた。深夜で人目がないとは言えども、ふと出くわした近所の人にこの姿を見られてはたまったものではない。誰にもこの情けない姿を見られないように早足で友達の家に向かった。

 そもそもなぜこんな時間に呼び出されなければならないんだ。大して眠くはなかったが、明日のために早く寝ておこうと思って布団に入った矢先にこの始末だ。睡眠時間を削られるより予定を崩されたことが腹立たしい。今度高めのアイスでも奢らせようと思った。

 自分の中で愚痴をこぼしながらも仕方なく家に向かう。歩いて十分なので歩く行為自体はさほど苦ではないのだが何せ暑い。夜なのに暑いのはたちが悪いと思う。湿った首に水滴となった汗が垂れてぞわっとする。手の甲で汗を払ってから以前通った道を思い出しながらたどる。見たことのある植木があったのでその角を曲がり、辺りを見渡す。

 屋根が曲がっている駐輪場があった記憶を頼りにマンションを探していたところ、駐輪場よりも先に呼び出した本人様が目に入った。彼は嬉しそうな顔をしながら待っていた。

「よっ。遅いじゃん」

「遅くに呼び出したのはお前のほうだろ?」

 能天気な発言にうんざりしながらも、早く家に入りたかったので彼の背の方へ回り込む。それと同時に彼はくるっと回り、僕の肩の上に手を乗せばしばしと叩いた。

「そう怒らないでくれよ。こんな時間に呼び出したのは他でもない。今から起こす、俺の人生で最も重要なことを悠に見届けてもらうためだ」

 人生一とふんぞり返って自慢げに話す。立樹の人生なんて知ったことではないし、自分が関係ないなら帰りたいところだ。それでも頭は「人生最高」に釣られてしまい、ほんの少しだけ興味が湧いたので帰らないことにした。もちろんこの期待に見合う話や行動はしてもらうつもりだ。もし僕の期待にそぐわなかったら学食も追加で奢らせよう。

 それにしても今日の彼のテンションはおかしい。普段聞かない口調で話している。深夜ということが大きくかかわっているだろうが、きっと彼の言う「最も重要なこと」も彼のテンションを狂わす原因のひとつなのだろう。僕はそのテンションについていけないが、何やら楽しそうなので仕方がなく合わせておく。

「ほう?僕に見届けてほしいとはそれなりの自信があるようだね。僕の期待に添えるかな?」

 彼は黙っている。目線も下に落ちていて、反応はない。僕の反応が気に食わなかったのだろうか。数秒の間を空けて「無理かも」と自信なく呟いた。わざわざ同じノリに合わせて言ったのに合わせてくれなかったことに不満を覚えながらも、立樹はとぼとぼとドアを引いて僕は無言のまま立樹の家にあがった。


 玄関で靴を脱いですぐに立樹は僕の方に振り向いてさっきの気まずい空気がなかったかのように笑った。

「じゃあ、ゲームしよっか」

 彼は慌ただしくと廊下を走って、ゲームの準備をするために部屋に入っていった。僕もその後を辿るように追った。ドアを開けると冷気がどっと流れ込んで僕の周りの熱を払った。部屋の中ではもうゲームの準備が終わっていて立樹はコップにお茶を注いでいた。

「コントローラーはそっちの白いやつ使って」

 言われたコントローラーのある机の方に腰を下ろした。テレビの画面に表示されていたのは格闘ゲームだった。僕の苦手なジャンルだ。今日もいつも通り立樹に負かされるのだろう。立樹が来るまでゲームと「最も重要なこと」の関わりを考えてみる。どうひねって考えても最も重要になり得ることはなかった。やるべきことは早く済ませて欲しいが、久しぶりに彼とゲームをするものなので少しだけわくわくしながら彼が机に戻ってくるのを待っていた。

「おっしゃ、お待たせ。今日は全勝しまーす」

「僕が負ける前提やめてくれない?絶対全勝は阻止するから」

 スタートボタンが押されてキャラクター選択画面に移行する。いかにも戦闘が始まりそうな音楽とともにカーソルが動く。

「あ、そのキャラやめろよ。強いじゃん」

「えー?しょうがないなあ。ハンデとして変えてやろう」

 ステージ選択も終えて戦いが始まる。僕のアバターは立樹のアバターに攻撃しようとするが見事躱され、その勢いで上から攻撃を仕掛けてくる。もちろん避ける事は出来ず、そのまま蹴りを食らう。そのあとも殴られ飛ばされ、残機はみるみる減っていく。数回反撃することができたが回復技で体力はすぐ元通りになっていた。結局一機も落とせず1戦目は負けた。

「よーし、勝った。まだまだ練習が足りないんじゃないですか?」

「うるさい。次から本気だすし」

 二戦目は運のいいことに先制攻撃が入り画面の中のキャラクターがよたつく。その隙にもう一発攻撃をいれた。立樹のキャラクターは少し飛ばされたがすぐに体勢を直して戦闘状態になる。しかし僕のキャラクターは勢いを落とさず次々に攻撃を仕掛けた。終いには何とか2機落とすことができた。

「よっしゃ2機落とせたわ。全勝阻止できた」

「うーんやられた。油断したな。まぁ、俺の勝ちなんですけど」

「全機落とされなかったら僕の勝ちなんですー」

 僕は立樹に全力でざまぁみろと言わんばかりの笑顔を向けた。彼は床に倒れてまま微笑んでいた。僕もつられて床に倒れてみる。ぼやっとした光が眠い目をさしたので目を薄めていると、横からずるずる音がする。音の方を向くと、何を思いついたのか彼がほふく前進しながらこちらへ向かってきていた。何か企んだ顔をしている。何をしようとしているのか分からず警戒していると額にデコピンを食らった。デコピンをした本人はただ笑っている。そんな呑気な顔に僕も仕返しをする。「痛ー」と大袈裟にリアクションをしながらまた笑って元の場所に戻っていった。

 立樹が起き上がって次の試合を始めようとしていたが、僕はもう満足したので違うゲームがやりたかった。

「もう格闘ゲー満足なんだけど。パズルゲー無い?」

「えー?あるけどさ。悠強いじゃん。俺絶対負けるんだけどー」

「さっきボコボコにされたのでね。復讐開始だよ」

「いやだー。ボコボコにされたくないからパズルゲーやらない。ほら、他のやつもあるし、ね?」

 彼の必死の抵抗も虚しく、僕がゲームカードを探し当てて彼は渋々ゲームを変えていた。

 ゲームスタートの効果音が鳴り、同時にブロックを動かし始める。僕はいつものように淡々と操作していく。横を見てみたら画面の動きは少なく苦闘しているようだった。高速で回って落ちるブロックが立樹のフィールドに妨害を仕掛けていく。あっという間に妨害がフィールド全体を蝕み立樹はゲームオーバーとなった。

「やっぱり格ゲーで強い立樹さんもパズルゲーでは所詮こんなもんですか?」

「うわぁ、めっちゃムカつく」

 彼はコントローラーをがちゃがちゃと荒く操作していて、見たらすぐわかるほど悔しがっていた。

「てか俺技とか知らないのに悠に挑んでるの結構不利じゃない?やり方教えてよ」

 正直こちらも無理を言ってやっているので、仕方がないから教えた。不得意なだけあってなかなかに苦戦していたが、三十分で二個だけ基本的な技を習得していた。無敵になった気分で二回戦に臨んでいたがあえなく負けてしまった。というか、負かせた。さっきのように駄々をこねると思ったが、今度はゲームを投げ出さずもう一度だけ挑んできた。

「もう一回やろ!この試合で絶対勝つから」

 両者気合の入った状態で始まった最終戦。最初のブロックは同時に着地した。一戦目とは勢いの全く違う立樹に圧倒されつつ負けじとブロックを置いていく。立樹のほうは懸命に技を出しているようで僕のほうにも妨害ブロックが積みあがっていく。ブロックの塔が上がって下がってを繰り返す三分半。ギリギリで僕が勝った。

「まじかぁ。負けた。めっちゃ惜しかったのに」

「こっちも危なかった。負けそうだったわ。パズルゲーでも負けたらもう僕何も立樹に勝てないんだけど」

「いつか俺に勝てなくなる日がくるかもね」

 そう言う声色は少し悲しげだった。


 立樹はそそくさとゲームの片づけをし終えてどかっと床に座った。ゲームの音も外の音もなくなり、急に静まり返った部屋に彼が声を注した。

「もうやることないし、なんか話すかー」

「うーん、あ、今日それなりに楽しかったよ」

「それなりにってなんだよ笑。とりあえず楽しんでもらえたならよかった」

 少し照れくさくて言葉を濁してしまった。ぎこちない言葉遣いを笑われてしまったが、楽しかったことが伝わったようで安心した。

「今度は僕の家来る?その時には今日の『夜遅くに呼び出したお詫び』として高いアイス買ってきてね」

「えー、行きたいな。お詫びとしてじゃなくても普通に高いアイス買ってくわ。何味がいい?」

 少し悩んで口に出そうとした瞬間「待って」と飛び込んできた。

「やっぱ、俺が考える。その時まで楽しみにしててよ」

 僕は口を半分開けたまま、立樹の今まで見たことないほどの優しい笑顔を見つめた。その顔はだんだんと落ち着いていって、ほんの一瞬だけ眉が下がったように見えたが、またいつもの顔に戻った。なぜこんなにも優しい顔をしたのかわからなかったが、少しだけ、きゅっときた。

 彼はすぐに感情を切り替えたようで、膝を手で押しながら立った。

「そういえば俺まだ風呂入ってないから入ってくるわ」

「え、まだ入ってないの?汚ぁ」

「そんなこと言うと汚れ擦りつけるぞ」

 立樹は指をわきわきさせながらこっちへ向かってきた。僕の顔は自然と歪み、慌てて逃げた。机の周りを三周ほどして僕の息が切れてきた頃に、彼は減速して笑いながら「ごめんごめん」と言って部屋の外に出ていった。


 家の主がこの場からいなくなってしまった。どうすればよいか分からなかったのでスマホを手に取った。しばらくしたら立樹の家に何があるのかふと気になったので辺りを見渡してみた。一番近くにあったのは本棚。座高より少し低いくらいの小さいものだった。中には本が背丈はバラバラなまま、一方で背表紙だけは一列に綺麗に並んでいた。大学で必要なものから趣味の本まで入っている。僕がおすすめした本も入っていた。特別面白いものはなかったが、立樹が本をこんなに読むタイプだとは思っていなかったので驚いた。

 他に弱みはないかと後ろを振り向いて部屋を一瞥しても特に面白いものはない。ただきれいに整頓されていた。目の前にあるコップがなぜか一番目立っている。耳を澄ますと微かに風呂場のシャワーの音がここまで届いていた。水が滴るコップを持ち上げて少しだけお茶を口に含む。お茶を飲むときに顔を上に向けたタイミングで何か小さな箱が目に入った。絶対に面白いものだと確信しながら手を伸ばすと部屋のドアが開いた音がした。驚いてすぐに手を引っ込め何もなかったかのようにごまかす。ドアの方をみると幽霊のように立樹がぼーっと立っていた。

「お待たせ」

 まっすぐ揃った手を挙げて緩やかに笑った。

「じゃあ、今から俺の人生の最も重要なこと、始めるね」

 そう言うと彼は肩にかけたバスタオルを僕の頭に被せて視界を奪った。今まで楽しかった空間が突然シリアスな空気に変わろうとしていたが僕の心は追いついていない。立樹は笑ってはいたものの、辺りは急に緊張した空気で凍りついている。何も見えないことも加わり、心拍数がだんだんと上がっていく。

「これから話すことは俺の独り言みたいに何も返さなくていいよ。けどちゃんと聞いててね」

 硬い雰囲気に思わず背筋が伸びた。タオルの編み目のすき間から柔らかく光が漏れている。

「うーんと、何から話せばいいのかな。悩むな。じゃあ思い出話から始めよう」

 急に始まる思い出話についていけず、頭の中のはてなマークが増えていった。それでもとりあえず話を聞いていく。

「あの時覚えてる?急に空きコマができたときちょうどお昼だっから遠くにあるラーメン屋行ったじゃん。あれめっちゃ美味かった」

 あの時は僕が適当にレビューサイトの評価が高いお店を選んで連れて行った。僕の選別する目が良かったんだと自慢げにしていたことを思い出す。

「あとさ、一年前に大学の近くの夏祭り行ったよね。悠格ゲーとか戦闘系苦手なのに射的は人一倍上手かったの面白かったわ。全部の玉撃ち終えたら手だけじゃ持てない量の景品持ってて正直笑った」

 確かに彼はあの時笑っていた。あの笑いに少し嫌味が入っていたことが鼻につく。

「でもってクレーンゲームは苦手なんだよね、悠って。自分の好きなゲームのキャラのフィギュアがあるーとかいってプレイしてたら六千円くらい溶かしてなかったっけ?それで小銭がなくなって悠が両替いってるときに俺がやってみたら五回くらいで取れた。俺が取っちゃって不貞腐れてる悠も可愛かったな。まぁ、悠が先にプレイしてたから取れたってのもあるだろうけど」

 そうだ。僕があそこまで運んだからすぐ取れたんだと心のなかで反抗する。しかしあの時取れた景品は僕にくれたので反抗するにも気が引けた。

「あと、これが一番思い出に残ってるんだよね」

 立樹は心の底の暖かいものを顔に出しながら微笑んでいた。僕は立樹の中で何が一番の思い出として残っているか、ドキドキしながら唾を飲み込んだ。

「前俺が悠にシャーペン貸したでしょ?そしたらその数日後に『あのシャーペン気に入ったから同じの買った』って言って買ってくれたよね。あれ、嬉しかった」

 聞いた瞬間驚いた。あの事が一番の思い出だなんて、と思った。他にもっと遊びに行ったこととか大学のイベントとか、そのあたりのことを想像していた。なぜそれが一番なのか理由が分からなかった。悩んでいると立樹は僕の疑問を読んだかのように続けた。

「あ、ただ僕のおすすめシャーペンが気に入られたことが嬉しかったんじゃないよ?俺の感性が悠に理解してもらえたみたいで嬉しかったんだ。あとお揃いっぽくなったことも。自分でも何であんなに喜んだのかあんまり覚えてないけど、その時の感情は今でも思い出せる」

 説明されても意味が分からなかった。確かに立樹のあのシャーペンへの愛はとても大きかったが、お揃いとか理解してもらえたとか、どこか納得のいかない理由だった。立樹の挙げた二つの感情からある一つの言葉が浮かぶ。まさか、そんなはずはない。心がざわざわしていく。

「これくらいかな。思い出話はもう十分できた。話そうと思えばもっと話せるけどね」

 布の擦れる音がした。きっと立樹が座ったのだろう。また何かが始まると身構えた。

「今までこうやって過ごしてきたけど、その中で感じてた感情を友情でまとめたらどこか引っかかる感覚がしてた」

 嫌な予感が的中しそうで苦しい。想像している言葉を立樹の口から聞く前にこの場から逃げ出したかった。聞いたら僕の中の何かが崩壊していきそうだから。残酷なことに成す術はなく、そのまま座って話を聞くしかなかった。

「俺気づいちゃったんだよね。その感情が恋愛的なものだってこと。気づかないままでいたかったけど、嫌でも気づかされちゃった。ずっと同性だから気にしてた。悠が俺のこと好きになってくれることなんてないのに俺は好きで居続けなきゃいけない。別に、好きで居続ける事が嫌なわけではないけど、虚しかった。俺が好きって感情を与え続けても悠からは何も返ってこない。壁と話してるみたいだった。だから俺は話すのをやめたんだよね。そしたらこの気持ちも消えてくんだろうって思ってた。けど思うようにいかないものでさ、この感情は全然消えてくれない。むしろ溜まってく。恋って楽しくて幸せになれることのはずなのに、好きって思うたびその感情が針になってチクチク刺してくる。正直痛いし辛かった。それでも悠と一緒にいたいって思った。悠が俺のものになったらなとか俺だけ見ててほしいとか思いながら」


 ずぼっ。


 心が押し込まれる感覚がする。僕は放心状態だった。ただ動揺していた。いくら今立樹が僕に彼の恋心を伝えられたって僕には響かなかった。行き場のない感情が力なく心のなかで彷徨っている。どうすればよいか分からなかった。

「付き合ってって言いたいわけじゃない。伝えたら俺の心が軽くなると思って言ったんだ。もちろん俺のためだけじゃないよ。ただ俺の気持ちを知ってほしかった。今後俺たちの関係がどうなってもいいから知ってほしかった。だって悠のことが好きなことには変わりないし。俺としても友達として思われながら過ごすの辛いから。こんな関係を続けるならいっそ壊れてもいいと思ったんだ。知らなかったと思うけど、僕の恋心はこんなになるまで大きく膨れ上がってたんだよ」

 数秒の間を開けて立樹から息を吸う音が聞こえた。

「ずっと好きだよ」

 そういって彼は僕の頭のタオルをゆっくり取った。彼の目は真っすぐ僕を見ていた。柔らかくしなった目からは涙の匂いがする。髪の毛から水滴が一粒肩へ落ちた。

 僕はそのまま手を引かれて玄関まで連れて行かれた。そしてドアを開けて僕だけ外にいる。

「最後の意地悪、していい?」

 僕は何の反応もしないまま少しだけ俯いていた。立樹は困りながらも僕の指に意地悪した。

「ごめんね」

 立樹はドアを閉めてしまった。その行為が果てしない終わりを感じさせた。


 僕は走った。早く遠くに逃げたかった。家に帰る途中何度も道を間違えた。それでも無心で、この心拍数がどうか走ったからであると勘違いできるように走った。鍵を差す手がおぼつかない。ドアが開くや否や玄関に倒れ込む。荒い息を抑えながらうずくまる。

 感情がぐちゃぐちゃになっている。でもそれが何かは分からなかった。驚き?ときめき?嫌悪?すべて混ざって別のものになっている。明確なのはただ吐きたかった。胃のあたりが詰まって硬くなって苦しい。吐くものは何もない。悶えることしかできない。

 誰か助けて欲しかった。話を聞いて欲しかった。しかしもう僕にはそんな友達はいない。吐き出せずため込んだまま重い感情はどんどん肥大化して圧迫する。


 びきびき。


 「恋は性欲」という言葉を思い出したら、僕の抱えている感情が「気持ち悪い」であることに気がついた。


 次の日から立樹の姿はなくなっていた。連絡も取れない。家に行っても居らず、聞いてみると退去済みだという。嫌な現実から逃げたのは僕だけでなく彼もだった。

 あの出来事があってから僕は変わってしまった。

 男子からの目が信じられなくなって女子と絡むようになった。僕にはそんな気はさらさらなかったが男と女だから必然的に恋とか性とか絡みの事が増える。女子からの性的な目線すら嫌だったが僕にはこれしか社会で生きていける術がなかった。無心でキスした。無心で抱いた。僕の中には何も残らない。皮肉なことに体だけは動いた。動いてしまうからこそこの負の連鎖は終えられなかった。

 日に日に積み重なっていく他人からの性欲は僕をやつれさせた。周りからはとっかえひっかえな人だとか女好きとかいろいろな噂が立った。反抗する気力はもはやなかった。

 僕は社会で生き残るための方法を間違えた。


 数カ月後、女の子と出かける準備をしているとき急に誰かから連絡が来た。

『まだあの時のお礼してない』

 急に激しい動悸が襲う。汗がだらだら出てくる。忘れようとしていた記憶がみるみる戻ってきた。頭の中はそのメッセージのことでいっぱいになって出かける余裕はなくなってしまった。僕を変えたすべての元凶からまた会いたいという旨の連絡が来てしまったのだ。

 無視しようと思った。またあの目を見たくはなかったから。それでも今までの苦しみを味わわせた仕返しができる絶好のチャンスを逃すまいと思ってしまった。気づいたら僕は文字を打っていた。

『あのファミレスで待ってるね』

 指先がまた熱くなった。


 グラスの氷をカラカラ回しながら待っていた。仕返しをするつもりでいるが、何を言われるか分からなくて緊張している。人が入ってくるたびドキドキしながら入り口を見た。

 立樹がドアを開けた瞬間、雰囲気で分かった。数カ月のブランクを経て見た目こそ変わっていたが僕には立樹とすぐ認識できた。立樹も辺りを見渡した後こちらに気づいてほほ笑んだ。彼が近づいてくる気まずい時間を僕は下を向いてやり過ごした。返信したときの勢いはもうなくなってただ怯んでいた。

「久しぶりだね」

 声も前と変わらない。優しさが僕の胸の奥までなだれ込んでくる。嫌な感情が吹っ飛んだ。

「何をお礼にしてくれるの?」

「うーんここの奢りとか?あと、この後も時間あったら出かけない?」

 彼から呼び出したくせに考えてなかったらしい。しかもデートの誘いまで流れでしてきた。嫌だと思ったが僕にとっても都合がよかったので受け入れた。

 食べ物の注文をして待つ間沈黙が流れた。気まずそうに立樹が声を出した。

「最近どう?友達からいろいろ聞くけど」

 どこぞの誰かさんのおかげで酷い有様ですがね、と言いたかった。それに僕の知らない裏で僕の状況を知っていたなんて卑怯なことだと思った。だんだん負の感情が戻ってくる。

「なんか、荒れてるらしいね。前とは別人だって言ってた」

 その情報を伝えた友達とやらを殴ってやりたい。荒れてるとか変なこと吹聴して。僕はそのまま黙り込んだ。

「それって俺のせいかな?たぶんそうだよね」

 そうだ。自覚しているならなぜ僕の前に現れた?嫌なことをわざわざ思い出させなくていいのに。

「まあ、ちょっとだけある」

 ちょっとだけ、と嘘をついた。

「やっぱりそうだよね。今日はそれを謝りに来た。それとまた悠の様子を見たくて」

 向こうに頼んだパスタを運んでくる店員が見えた。二人分を静かに置いていってからまた立樹が声を出した。

「ごめん。俺が楽になるためだけにやったことが悠にこんなに影響を与えると思ってなかった。許されようなんて思ってないけど本当に申し訳ないと思ってる」

 僕は何も言えなかった。正直謝られるとは思っていなかった。

「さっきのことを友達に聞いてから居ても立ってもいられなくて。悠は俺のこと見たくないほど嫌いだと思うけど謝らせてほしかった。悠の状態も見つつ、酷かったら何か支えられたらと思ってきた。俺にできることなんて全く無いだろうけどね」

 立樹の表情は見てるこっちが辛くなるものだった。辛いのはこっちだというのに。

 話を聞いていく中で立樹の優しさに心が揺らぐ。入ってきた時の笑顔も今話している表情だって、きっと彼の心の底から来た感情そのものを表しているはずだ。彼の純粋な表情はいつまでたっても好きだ。そのために揺らいでしまう。僕は立樹のことを嫌いでいなければならないのに、反抗しなければならないのに、立樹のペースにのまれていく。今までは僕はただ相手の欲求不満を解消するロボットだったのに、立樹は僕のことを気にかけてくれた。自分のことを見てくれていたことに胸がきつくなる。これまで散々浴びてきた汚いものとは違う彼の純粋な心。それに僕は強く揺さぶられてしまった。告白されたときに勘違いした性欲は僕に対する大きな愛。その愛は僕の心を柔らかくし、もう心は彼に染まっていた。

「ありがとう。けど大丈夫だよ。僕も自分で頑張ってるからさ」

 僕の表情は恋に落ちたことが明確なほど明るくなっていた。立樹も安心した表情を浮かべている

「僕も立樹のこと心配だったんだよ。最近の様子教えてよ」

 僕は解放された気分だった。今まで忌み嫌っていた檻から抜け出せた気がした。これからは立樹ともっと仲良くなりたい。あんな生活から抜け出せる。

「いいよ。ほら、これとか最近水族館に行ったんだけどね」

 立樹は写真を見せてきた。それと同時に一通の通知が目に入った。

 知らない男からの「来週楽しみ」という通知だった。

 思わず僕は立樹に聞き返した。

「これ、誰?」

 僕は混乱していた。なぜ彼に違う男の影があるのか。

「あー、えっと、彼氏」

 立樹の表情は照れていた。前僕に向けていた顔だ。

 は?なぜだ。僕のことが好きだからここに来たのではないのか。そもそも彼氏がいるのに僕と二人で出かけていいのか。僕とワンチャンあると思ってきたのではないのか。

 もう分からなかった。彼の考えていることは分からない。理解する気も失せた。だから僕も意味の分からないことを思いついた。

 そうだ、立樹を奪っちゃおう。めちゃくちゃにしちゃおう。最初は仕返しをしようと考えていたからちょうどいいじゃないか。立樹から大切なものを奪って、僕と同じ状況にしてあげよう。

 わざわざ僕が好きになって両想いになったはずなのに。僕には恋愛は難しいそうだ。だからせっかく好きになった立樹に僕の思い受け止めてもらおう。やっぱり僕は変わってしまったけど、なんだか今が一番楽しくなってきた。

「そっか、もう僕のこと好きじゃないんだね」

 精一杯の嘘の笑顔を浮かべた。絶対に立樹を不幸にしてあげる。不幸になったらまた僕のところに戻ってきてくれるかな。そんなことを思いながら会計を済ませた。


 レストランの外に出た。そのタイミングでキスをした。汚くなった僕には造作もないことだったが、彼は驚いていた。次は立樹が苦しむ番。そして苦しみがマックスになったとき僕が現れてまた好きになってもらうんだ。僕のせいで苦しむなんて、なんだかエロティック。少し興奮したけど次会う時はもっと昂るんだろうね。純粋な立樹も汚してあげる。

「ねぇ、浮気しちゃお?」


ずぼっ。

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無知の土 新田論 @mizunoKAGAMI

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