雨の貴賓室

しのつく

第1話

 この屋敷には、誰も使わない客室がある。

 屋敷の最上階、通路の一番奥。他の客室と同じような間取りや家具の配置をしているが、それらと比べると部屋がとても広く、また造りも立派で、装飾は細部まで丁寧に作られている。そして部屋の手入れをする頻度さえ、他の客室の倍以上高かった。例えば、掃除は最低でも週に3回行い、季節の模様替えは2ヶ月ごとに一回行う。クローゼットの中の着替えや寝間着は月初めに交換され、その全てが最上級の布や宝石で作られていた。

 しかし、この部屋を使う人は誰もいない。来客も、この屋敷の主人でさえ。

 これは自然とそうなった訳ではなく、主人が使用人たちにそう言いつけたからだそうだ。



「最上階にある『貴賓室』は、誰一人として使うなとのお達しよ。私たちメイドは、清掃する時のみ入出を許されているわ。」

「ご主人様は、あの部屋に誰かが近づくこと自体、あまり好まれていないみたい。だから貴方も気をつけなさいね。」



 あの部屋は、客室と呼ぶにはどうにも奇妙だった。本来、客室というものは使用者が誰になるかなんて分からない。そのため、誰の好みにも合うように家具を選ぶのが定石だ。しかし、この部屋はどうも様子が違う。

 壁紙、ソファ、本棚、シャンデリア……この部屋に存在する全てが、一つ一つが独立したデザインを持ちながらも、特定のテイストに統一されている。まるで、全て特定の誰かの好みに合わせて選ばれたかのように。おまけに、クローゼットの中の服さえ全て同じ寸法で作られているという。あまりに普通ではないその様子に、いつしかこの部屋は、使用人たちの間で『貴賓室』と呼ばれるようになった。



「すごく可愛くて上品なデザインなんだけど、万人受けするかと言われたら……ちょっと違うのよねえ。」

「それに、あの部屋にあるお洋服は、一般的な身長よりちょっと小さめに作ってあったよ。」

「なんでだろうな。なぜご主人様は『貴賓室』なんか作ったんだ……?」



 奇妙さの極めつけは、部屋の中心に置かれたベッド。明らかに客室は一人用なのに、複数人が一緒に寝られるぐらい大きい。天蓋には高価なレースがふんだんにあしらわれ、シーツや掛け布団も上等かつ上質な布地で作られている。誰も使わないというのに、それは明らかにこの屋敷で最も高級なものとなっていた。

 だからなのか、あるいはもっと別の理由があるのか、使用人の中で誰一人このベッドの手入れを許された者はいない。手入れを行うのは、必ずこの屋敷の主人だ。

 主人は身体が弱く、屋敷どころか自分の部屋からもあまり出られない。だというのに身体に負担のかかることを自分からするというのだから、使用人たちは皆不思議に思っていた。



「初めのころは何人かベッドの手入れを申し出た使用人がいたみたいだが……。結果は、知っての通りさ。」

「あの方は、なんであんなにあのベッドにご執心なんだろうな。理由は分からんでもないが……。」



 そういえば、あの部屋は、とりわけあのベッドでは、時折変なことが起きていた。

 外がどんなに晴れていても、ほのかに雨の香りがするのだ。しかもその香りは日によって強くなることがある。雨漏りか何かかと思ってベッドを確認してみても、少しも濡れていない。天井のどこかに雨が溜まっているのかと思ったが、どうもそういう訳でもない。第一、もしそうならカビ臭い匂いがするものだが、そういうことも全くない。ただ、心地よい静かな香りがするのみである。

 その上最近は、香りが強くなる時に、数輪の小さな花がベッド周りに落ちていることがある。どれも新鮮な生花だが、うちの庭園にはないものだ。庭師に聞いてみると、雨の季節に咲く花だが、ここら辺で扱っている店はないらしい。首都か、はたまた隣の国にまでいかないとそうそう見つからないという。どうしてそんな花がいくつも落ちているのか、使用人はみんな不思議に思って、やがて色んな噂が飛び交うようになった。



「あのベッドは別の場所と繋がっているんじゃない?」

「いやいや、幽霊か化け物の類が住み着いているんだよ。」

「きっと、この部屋の持ち主である、雨や花の神様が出入りしていらっしゃるに違いないわ。」

「いーや、この屋敷の変な現象を起こしている装置だと思うね。」



 第一、こんな屋敷の、よりにもよって一番奥に客室があること自体奇妙ではないか、そう誰かが言っていた。

 この屋敷はたまに空間がおかしくなる。時折廊下が異様なまでに伸び縮みし、部屋と部屋の間に新しい部屋が出現し、あるいは消え、稀に部屋の位置関係さえ変化する。それはこの屋敷に住んでる人間さえ頻繫に迷うほどだ。そんな所に、来客として一体誰が来るというのか。さらに言えば、この現象は屋敷の奥に行くほど顕著なのに……と。

 この話が使用人の間で広まるうちに、あの部屋はすっかり都市伝説のような扱いになっていた。



「でも、さ。『貴賓室』ができてから、この屋敷の空間異常はかなり収まったと思わない?」

「確かに。僕が来た頃はこんなに安定してはいなかったな。つまり、逆にあれが異常現象を抑えていると?」

「ない話ではないと思うわ。実際、あそこの香りが強くなる日は、決まって空間の揺らぎが落ち着くでしょう。」

「そういえば、ちょうど同じ頃から、ご主人様の容態も安定してきたようだ。それについても関係してるのかもしれないね。」

「っていうか、屋敷の空間はご主人様の容態に影響されてるんじゃなかったっけ。」

「いや、そういう噂が流れたことはあるけれど、そうと確定した訳ではないわ。……あなたまさか、この屋敷での噂を全部鵜吞みにしてるわけじゃないわよね?」

「ち、違うよ!今回はたまたま!第一、あいつがいっつも本当のことみたいに言うから、……。」





 ……あのベッドには、時折小さなシワがついていることがある。普段は天蓋を閉じているし、手入れをするのは主人だから、他の使用人でこのことに気づいた人はいない。多分、主人以外で知っているのは僕だけだ。

 このシワの正体については、別に不思議なことは何もない。主人があのベッドを使ったからだ。

 もっとも、誰も使うなと口酸っぱく言っていた当の主人があのベッドで寝ている、なんて馬鹿げたことではない。ただ、ベッドを撫でているだけだ。傍から見れば奇妙な光景だが、よく見ると、必死に何かを思い出しているような、あるいは思い出さないように堪えているような表情をしている。まるで、そのベッドに縋っているようだった。

 またある日は、ベッドの傍に項垂れて静かに泣いていたり、あるいはもたれかかってうたた寝をしている日もあった。雨の日だったり、部屋の香りが強くなっていたりすると、一日中そこから離れないことさえある。

 なぜ主人がそんなことをするのかは分からない。でも、あの様子を見ていると、恐らくこの『貴賓室』に執着している理由と同じなのだろうと思う。多分、この部屋は本当に特定の誰かのために用意されていて、そして主人はこの部屋に来ることで、その人物に思いをはせ、そして思い出すのだろう。その人物が、いずれこの部屋を訪れる日を待ちながら。それは恋人なのかもしれないし、見ず知らずの誰かなのかもしれない、あるいは存在すらない人物なのかもしれない。

 それでも、主人は確かにその人物に救われている。少なくとも、主人がこの部屋に来るようになってから、この屋敷の空間はずいぶんと安定してきている。それに伴って主人の容態も落ち着いてきたようだ。主人がたまに屋敷内を散歩するようになったと、少し前に使用人たちが噂していた。ひょっとしたら主人が屋敷の外に出られる日も近いのかもしれないな。





 それは、美しい雨の降る日のこと。

 薄明るい銀鼠色の空が広がり、しっとりとした冷たい空気があたりを満たす。絶え間なく降る雨の音が、世界の静寂を形作っていた。

 現在屋敷の中心に佇むのは、“誰か”のための、雨の香りの貴賓室。今となっては、それはこの屋敷の心臓と同等であった。

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