第1話 転生の意味

 エナとふたりで教室を抜け出した俺は、一階にある中庭へと向かった。

 時刻は9時ちょうど。校舎からは、始業のチャイムが鳴り響いている。この時間ならば、まず誰かがここに来ることはないだろう。と、


「ぁ……、あ、あの……っ」


 背後から、エナの怯えた声。

 俺はゆっくりと振り向いて、彼女と視線を重ね合わせた。


(……エナ=リファイン。まさか、こうして実物を拝む日が来るとはな……)


 繰り返すが、俺が転生したこの世界は、前世にプレイしていたエロゲ『誓約のマギア・アカデミー』にそっくり……いや、『マギアカ』の世界そのものだった。

 そしてエナは、そんな『マギアカ』のメインヒロインであり、俺の最推しのキャラクターだ。


 彼女の魅力を挙げようとすればキリはないのだが――俺がエナに惹かれた最大の理由は、まさに天使顔負けの純真かつ健気な性格にある。

 やや内向的で臆病だが、誰よりも優しい心の持ち主で、困っているひとのためなら自己犠牲すらも躊躇わない。さらに彼女はどのルートでも最初から最後まで主人公のことを一途に想い続けており、報われない恋心を抱えながらも主人公と他ヒロインの幸せを心から願うエナの姿に、多くのプレイヤーたちが心を奪われたのだ。


 もちろんエナルートでの彼女は、主人公と結ばれ、幸福な将来を歩んでいくことになる。

 そのときの、エナの幸せに満ちた笑顔といったらもう……思い出すだけで、胸の奥がじんわりと温まっていく。


(でも、ここは――それとは真逆の、バッドエンドを迎えた世界、なんだよな……)

 

『マギアカ』には複数のエンディングがあり、悲惨なバッドエンドもいくつか存在している。

 その中でもっとも残酷なものが、“エナ虐ルート”と呼ばれるこの鬱エンドだ。

 とある分岐により、エナは学院中の嫌われ者となってしまうのだ。日常的に嫌がらせを受けるようになり、幾度となく心と身体を痛めつけられ、最後には上級生たちに陵辱されてしまう。そして、ついには屋上から飛び降りる――そんな、最悪としか言いようのないエンディングである。


 ハッピーエンド至上主義だった俺は、トロフィー回収のためにしぶしぶそのルートをプレイしたのだが……脳が破壊されるというのは、ああいう感覚のことを言うんだろうな。それから数日間、食事の味が一切しなくなったのを今でも覚えている。


「ね、ねえ。シルト、くん……っ」


 と、エナの透き通った声に名前を呼ばれて、ふと俺は我に返る。

 彼女は、その光の消えた虚ろな瞳を潤ませて。


「……あたし、を。助けて、くれた、の……?」


 彼女の華奢な肩は、びくびくと震えていた。

 そこでようやく、俺はいまだに彼女の手を握ったままだったことに気づく――あのクソみたいな空気からエナを連れ出すことで思考がいっぱいだったせいで、やり口が少し強引になってしまったな。こんな状況では、エナを怯えさせてしまうのも無理はない。

 俺は自分の手を、彼女の小さな手から離して、


「ごめん、勝手なことして。でも――どうしても、見てられなかったんだ。気づいたら、身体が動いててさ」


「そ、っか。……えへへ。優しいんだね、シルトくんは」


 エナは、きゅっと薄い唇を結んだ。

 朝の澄んだ風が吹き、サイドテールに結ばれた彼女の綺麗な髪がなびく。

 水色のインナーカラーが混ざった銀髪を、そっとエナは指先で触りながら、


「でも……っ、だめ、だよ? こんなこと……もう、したらだめ」


 長いまつげに縁取られた、その瞳をわずかに伏せて。

 ぼそりと、エナは言葉を続けてくる。


「だって、あたしに優しくしたら……キミまで、いじめのターゲットにされちゃう、から――」


「させないよ、そんなこと」


 ――勝手にこぼれた言葉だった。

 それは、もしかしたら自分自身に告げた台詞だったのかもしれない。


「……え、?」


「俺が、終わらせるから。君への、くだらない嫌がらせを」


 ここがどんな世界で、どうして俺は転生したのか……そんな小難しいことは、もはや考えない。

 今、俺の目の前には、俺の大好きな推しのヒロインがいて。

 前世で荒んだ毎日を過ごしていた俺の心を何度も救ってくれた美少女が、理不尽な現実のせいで苦しんでいるんだ――日本の高校に通っていたときの、俺のように。


 だったら、俺がするべきことなんて、ひとつしかない。

 エナ=リファイン。この美少女を、バッドエンド世界に満ちた絶望から救い出すこと。

 それこそが俺が転生を果たした意味なのだと、そう信じようと思う。


「まあ、まずは膝の傷を治療しようか。医務室に――」


 ――びくり、と、エナの肩が震えた。

 医務室という単語への拒否反応だろうか。俺はそこで言葉を止めて、台詞を選び直す。

 学院の誰とも遭遇しない、絶対に安全だと言える場所といえば……、


「やっぱり、俺の部屋にしようか。エナさんが嫌じゃなければ、だけど」


 そう提案するが、エナは黙り込んでしまう。

 ……しまったな、と思う。そりゃそうか、クラスメイトの男子の部屋なんて怖いに決まってるよな。自分の絶望的なまでのデリカシーの無さに失望しつつ、慌てて次の言葉を探す。

 が――俺よりも先に、エナが小さく唇を開いて、


「…………エナ。エナで、いい、よ……?」


 ぎゅっ、と。

 俺の制服の裾を、ちょこんと指先で摘まんでくる。

 それは……もしかして、連れてってくれ、というサインなのだろうか。


「わかった。それじゃ、行こっか。エナ」


「……! う、うん……っ!」


 彼女に裾を摘ままれたまま、俺は学生寮にある自室へと向かう。

 てくてく、と半歩下がってついてくるエナは……気のせいだろうか。ほんの少しだけ、その頬が緩んでいるように見えた。

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