第1話 六儀風花
平成十三年三月十九日。
新幹線のシートに身体を預け、目を閉じる。
浮かんでくるのは、私の「ごく普通だった日常」の記憶だ。
学校では特別目立つわけでもなく、クラスの中で無難にやり過ごす。
スポーツはやらない、放課後は家に帰って宿題や家事をこなす。
おしゃれや恋愛に強い興味があるわけでもなく、どちらかといえば地味な中学生。
家では、十一歳も年上のお姉ちゃんに小言を言いあいながら、一緒にご飯を食べて笑う――そんな、平凡でかけがえのない毎日だった。
……その日常は、一瞬で崩れ去った。
私の姉が亡くなった日のこと。
人の心の中にある不思議な世界に迷い込み、命を狙われたこと。
そこで出会った一人の嘘つきと一緒に、姉の死の真相を追いかけたこと。
信じられない出来事ばかりだった。
だけど、どんなに怖くても、私は目を逸らすことができなかった。
だって――ただ一つ、普通の私にできることがあったから。
それは「姉を信じたい」という気持ち。
その気持ちだけが、私を心の奥底にある世界へと向かわせた。
私はこの時の嘘みたいな出来事を、生涯忘れないだろう。
平成十三年三月五日 午前五時二十五分。
私、六儀風花(りくぎふうか)にとって人生最悪の日は夜明けの呼び鈴から始まった。
半分眠った状態でインターフォンに出る。女性の声が受話器から鳴り響く。
その女性はお姉ちゃんのことについて急いで確認したいことがあると言った。
お姉ちゃん?確認?
疑問が喉元に引っかかったまま玄関を開けるといつも見慣れた景色一面が白く染まっていた。
昨日の夜から降り続いていたせいか屋根や木々、道路も雪で覆われていた。
まだ日も出ておらず空は分厚い雲に覆われている。街灯の弱い光が周囲の雪に反射して普段より明るい。
「朝早くに申し訳ございません。私歌舞伎街署の月海(つきみ)と申します」
小柄な女性が頭を下げながら言った。
月海さんは私みたいな子供も子供扱いせず、丁寧に挨拶してくれた。
月海さんが見せてくれた警察手帳には月海恋(つきみれん)、というフルネームと顔写真、階級が巡査と記されている。
私も慌てて挨拶する。
「はじめまして。六儀風花です」
月海さんは私よりもずっと年上のはずだけど背は私よりも低い。ショートカットのヘアスタイルが似合っていて、どこかあどけなさを残した綺麗と可愛いが同居している顔立ちの女性だった。
「突然すみません、お姉さまの六儀牡丹さんに関して急ぎ確認させていただきたいことがあります。お手数ですが署まで同行いただけますでしょうか?」
「今からですか?」
「はい、車を用意しています」
「お姉ちゃん、どうしたんですか?」
「すみません、ここではお話しかねますので」
「……わかりました。着替えてきます」
月見さんは深々と私にお辞儀した。
頭の中が疑問で埋め尽くされながらも私は急いで身支度を済ませ月海さんの運転でお姉ちゃんがいる警察署へと移動する。
車内での会話はない。私は窓の外へ目線をやりながら頭の中でお姉ちゃんに何があったのかだけを考えていた。大粒の雪が絶え間なく降り注いでいる。
それだけで気分が滅入る、雪は嫌いだ。
言葉に出来ない嫌な気持ちを振り払えないまま警察署に着いた。
入り口には歌舞伎街警察署と記されている。
月海さんに案内されるがまま、ある一室に通される。
真ん中にベッドが置かれておりすぐそばに花瓶に生けられた花が添えられている。
映画やドラマで何度かみた光景。
ベッドには誰かが横たわっていて、顔に白い布がかけられている。
月海さんは目線でベッドの近くに来るよう私を誘導する。
顔にかけられた白布をそっと外すと、お姉ちゃんが眠っていた。
「失礼ですが……六儀牡丹さんでお間違いないでしょうか?」
「……何があったんですか?」
自分でも驚くほど幼い声が出る。頭の中は真っ白で、質問の形すら保てていない。
月海さんが真剣な顔で何かを説明しているけれど、耳の奥に雪が詰まったみたいに音が遠くなる。
ただひとつだけ確かにわかるのは――「もう二度と目を覚まさない」という事実。
それなのに私は、「今日の朝ご飯どうしよう」とか「洗濯物を取り込まないと」とか、いつもの生活のことばかり考えてしまう。
普通の中学生の私には、それ以外の考え方を知らなかった。
亡くなった?どっきり?
顔色だってちょっと白いだけだ。
今にも起き出して、今日の朝ご飯なに?と言い出してきそうだ。
眠っているだけ──そう思い込もうとしても、冷たい頬に触れた指先がすぐに嘘を暴いた。
窓がない部屋なのに強風の音がここまで聞こえる。
吹雪いているのだろうか。
雪が嫌いだ。あの日も、今日も。雪は大切なものを奪っていく。
私が小学6年生の時にお父さんとお母さんが交通事故で亡くなった。その日も雪だった。
あの日から、私は姉に守られながら生きてきた。
お姉ちゃんは大学院を諦めて働き始めた。
就職するつもりだったから、なんて笑っていたけど、私にはわかっていた。あれは嘘だって。
嘘をつかせた原因は私だ。まだ子供の私を養うためにはお姉ちゃんが働くしかない。
私がお姉ちゃんの将来を奪った。
だけどまだ子供の私はどうやっても働くことが出来ない。役に立たない。
だからお姉ちゃんに大学院に進んでとは言えなかった。
子供だけど、自分の気持ちを何でも正直に言うほど幼くはなかった。
子どもの私にできるのは、ただ早く大人になること。
お姉ちゃんがお父さんの代わりに働きに出てくれているのなら、私がお母さんの代わりになれるように。
家事を引き受けて「お母さん役」をやろうと必死だった。
お姉ちゃんは強く反対したけどそのために大好きだったソフトボールも辞めた。
少しでもお姉ちゃんと気持ちを分かち合いたかった部分もあったのかもしれない。
友達とも自然に距離ができていった。遊ぶより家事を優先する子なんて、普通じゃない。
それまで仲が良かった子達も、一生友達だと思っていたクラスメイトも、その出来事から私を「可哀そうな子」として接して、会話、日常が噛み合わなくなり、自然と疎遠になった。
いじめられたわけでも仲間外れにされたわけでもない。
元々他人とはそういうものなんだ、自分勝手に近づいて自分勝手に離れていく。
それがこの世界の摂理であると理解するのが、他の子より早かっただけ。
それ以降私は仲の良い友達というものを作らなかった。クラスの中で会話するには困らないよう立ち回りはするけど、誰にも踏み込まないし誰にも踏み込ませないよう距離を置いた。
最初から近づかなければお互い辛い思いをしなくて済むのだから。
周囲をよく観察して、相手の反応を伺う。誰にも本心を明かさず、誰にも好かれず誰にも嫌われない人間という立ち位置に収まるように生きてきた。
自分を偽りながら、嘘をつき続けてきた。
何かあればお姉ちゃんに迷惑がかかってしまうから、そうならないよう振舞った。
その生き方が辛いとは感じない。私はお姉ちゃんがいればそれでよかったから。
私が家事をこなしてお姉ちゃんが少しでも楽になれば、美味しい料理を作ってお姉ちゃんに褒めてもらえればそれだけでいい。
お姉ちゃんは毎日遅くまで仕事しているのに休みの日も仕事することが多かった。
それでもたまの休みに一緒に買い物したり、レンタルビデオ一緒に観るだけで楽しかった。
だからお姉ちゃんの支えになろうと思い中学校を卒業したら働こうと思っていた。
お姉ちゃんにそのことを話したら猛反対されたのはまだ記憶に新しい。
「風花は勉強得意だからこれからもちゃんと勉強して、やりたいことをやらないとダメだよ。お金のことならお姉ちゃんに任せなさい!」
「家事の合間にやることないから勉強しているだけだし。やりたいこととかもないもん」
「だったらなおさら高校に行きなさい。高校とか大学でいろんな経験をしてやりたいことを見つけなさい!」
この点に関してお姉ちゃんは私に有無の一切を言わせなかった。
私が渋々折れて高校進学を決めたのがついこの間の話。
「六儀さん、お辛いでしょうけど少しお時間よろしいですか?」
月海さんの声で私は我に返る。その後お姉ちゃんがいる部屋を出て別室に通された。
大きなテーブルと椅子だけがある。
部屋の隅にポツンと一人用のデスクと椅子があり、穏やかそうな顔立ちの男性が座っている。
私と月海さんは向かい合って座り、月海さんは自動販売機で購入した缶のココアを私に差し出してくれた。
「ありがとうございます」
「よかったら冷めないうちにどうぞ」
「はい……」
月海さんが申し訳なさそうに話し始める。
「あの……こんな時に申し訳ないのだけどいくつか聞きたいことがあるの」
「はい」
「六儀牡丹さん、お姉さんは何かご病気とかを患っていなかったかしら?」
「……特に、変わったところはなかったです。昨日もちゃんと朝ご飯食べて……。あの、逆に、何が……何があったんですか?」
「そうなのね。最後にお姉さんと会ったのはいつ?」
「昨日の朝です。会社に出社するところを見送りました」
「風花さんからみて何かいつもと変わった様子はなかったかしら?」
寝不足で元気がなかったけど、昨日の朝もいつものように美味しそうに朝ご飯を食べていた。
「いえ、これといったことはなかったと思います。……一つうかがってもいいですか?」
「何かしら?」
「お姉、姉に何があったんでしょうか?」
「ごめんなさい。まだ調査中だから詳しいことはわからないの」
「姉はどういう状況だったんですか……?」
「亡くなった直接の原因は失血によるものとされているわ」
「失血?誰かに刺されたりしたってことですか?」
「いえ、外傷はなかったの。……体のどこにも傷口がないのに出血していたわ」
夢を見ているんじゃないかというくらい現実感がない。
私を誤魔化そうとしているのかと思ったけど月海さんの表情いたって真剣だ。
「失礼、ちょっといいかな」
部屋の隅でメモを取っていた男性が遠慮がちに声をかける。
年齢は20代中盤くらいの中世的な顔立ちで優しそうな人だ。
「咲良正弥(さくらまさや)と言います。月海とコンビを組んでいます」
「はじめまして。六儀風花です」
「うん、やっぱり姉妹だね。牡丹さんにそっくりだ」
咲良さんは温和な笑顔で言った。
「ああごめんね。僕はお姉さんと高校の同級生だったんだ」
咲良さんは机から大判サイズの本を取り出して私に見せてくれた。
それは卒業アルバムで、高校生の時のお姉ちゃんと咲良さんが写っている。
「残念ながら特別親しい間柄というわけじゃないんだけどね。六儀さんはクラスの中心人物で人気者だったよ。男女問わず」
咲良さんは少し照れくさそうに笑いながら言った。
「ある時クラスの中でいじめ、というよりちょっとした仲間外れみたいな出来事があってね。高校生にもなるともう大人だからお互い折り合い付けて何とかするんだけど六儀さんは そんなのおかしい!って言って当事達に突っ込んでいったんだ」
そういった光景はよく目の当たりにしてきた。
大体は別のグループに合流する、それがかなわない場合は一人で過ごすことになる。
「なんでそんなことするの!てクラス全体に宣言してね。最初は面倒くさいこと言うなと思っていたんだけど、段々と六儀さんのペースに巻き込まれてね。気付いた時にはトラブルは解決していた」
私の中のお姉ちゃんの像とぴったり重なる。
「凄いよね。誰もが敬遠するようなことを六儀さんはいともたやすくやってのけたんだ。まるで正義のヒーローみたいにさ」
咲良さんはお姉ちゃんのことを自慢するかのように話し続ける。
「……憧れていたのかな。その生き方に感銘を受けたんだ。それと僕の父親も警察官でね、僕が子供の頃に殉職してしまったんだけど、牡丹さんに似た熱い正義漢だったんだ。二人みたいになりたくて警察官になる道を選んだんだ。ごめん、女性に正義漢というのは失礼だったね」
「いえ、その……全然、嫌じゃないです」
「六儀さん、実は牡丹さんの所持品から違法薬物が見つかっているんだ。何か心当たりはないかい」
「先輩!」
月海さんの声に非難の色が含まれている。咲良さんが月海さんを掌で制して話を続ける。
「何か変わった様子とかはなかったかい?」
「お姉ちゃんが……そんなこと、するわけないです。赤信号だって絶対守る人なんですよ。車が一台もいなくても、ちゃんと青になるまで待つんです。だから……違います……」
違法薬物なんてお姉ちゃんが使ったり受け取ったりはずがない。
何かの間違いに決まっている。決まっているけど言いようのない気持ちが押し寄せてくる。
机の下でズボンをギュッと握りしめると、手の甲に血管が浮き出た。
「……そうだね。僕もそう思う」
咲良さんが笑いながら白い歯がきらりと光った。
「え……」
「不快な思いをさせてごめん。大事なことだからちゃんと確認したかったんだ」
「私からも謝罪するわ。言いにくいことなのだけどお姉さんが何か犯罪に関与していると疑っているのは事実なの」
「でも今六儀さんの反応を見て牡丹さんは無実だってわかったよ」
「どうしてですか?」
「こう見えて僕はちょっとだけ優秀でね。所謂刑事の勘ってやつさ」
咲良さんはそうだ、と言いながら紙袋を取り出す。
「全部とはいかないけどお姉さんの持ち物を返すよ」
咲良さんが紙袋を差し出してきた。
お姉ちゃんが使っていた小物類、ポータブル音楽プレイヤーとイヤホンなどが入っている。
「本当は捜査に必要かもしれないから駄目なんだけどね。ちょっと無理言って回収してきたんだ。お姉さんの持ち物を早く返した方がいいと思って」
袋の中からお姉ちゃんの匂いがする。
「あ、ありがとうございます」
この後もしばらく月海さんと咲良さんからの質問が続いて終わる頃には日が沈みそうだった。
月海さんは車で家まで送ると提案してくれたけど申し訳ないので遠慮した。
家までは遠いけれど、大きな公園の中を突っ切っていけば早く着く。
近道なのはいいけれど日没が近い時間であるため公園内は想像以上に暗い。街灯も少なく心細くなる。月海さんからの提案を断ったことを内心後悔しながら公園を早歩きで進む中で黒い木々の中に二つの影が見えた。
背の高さから成人男性が二人立っているようだった。
「本当にやるのか……?」
背の低い方の男性が弱弱しく言う。
「いい加減に腹を括れよ。もう後には引けないぜ」
背の高い男性は力強く喋る。
「あんたが誰にも見つからないようにおたくの社長の机の引き出しにこいつを仕込む。それだけだ」
「……本当に俺に疑いがかからないようにするんだろうな?俺自身のことも含めて絶対にばれないよな?」
「安心しな。あんたが仕事したら後は俺から関係者に匿名でタレコミを入れる。明日にはガサ入れが入ってすぐにこいつが発見されて社長は逮捕される。簡単だろ」
背の高い男性が何かを手渡した。暗くてよく見えないけど銀色のカードに見える。
「でも……いや……」
背の低い男性は手を伸ばしては引っ込めている。
「復讐したいんだろ?」
その言葉で決心したかのように銀色のカードを掴むと、私がいる方向へ真っすぐ向かって来たので私は木の陰に隠れる。
男性は私に気付いた様子もなく闇に溶け込むように歩いて行った。
(これって犯罪……だよね)
木の陰から残された背の高い男性の様子を伺うと電話しながらこちらに向かっている。
「……だから……浮気じゃない……そうそう……だけだよ」
男性の声があたりに響く。恋人?と会話しているようだ。
男性が私の横を通り過ぎる瞬間、公園の外を走る車のヘッドライトが彼を照らす。
公園の闇に浮かんだ金髪の男は、まるで舞台の中央に立つ主演俳優のように鮮やかだった。
鮮やかな金髪は雪明かりに照らされて、冬の夜に似合わないほど眩しい。
怖い。絶対に近づいちゃいけない。
そう思うのに、目を逸らせない。
怪しさと同時に、目を逸らせない吸引力があった。
普通の中学生である私が出会うはずのない人間。
何より目に付くのはその頭部、髪の色だ。採れたてのレモンのように鮮やかな金髪でところどころ緩やかなウェーブがかかっている。
彼の携帯電話には大量のプリントシールが貼られている。様々な女の子と金髪の男性が仲良さそうに顔を寄せて写ったものばかりだ。
男性と距離を取ろうしてそっと立ち上がった瞬間足元からパキッと小気味よい音が鳴った。
しまった。枝を踏んでしまった。
恐る恐る男性の方を見るとばっちり私と目が合っている。
通話を切った彼は私の方に近づいてきた。
「いやーよかった。本当に良かった。ずっと、ずーっと探してたんだ」
──何を?
「君みたいな、最高な星をさ」
「は、はい?」
「今日は最高の日になりそうだ。これから一緒にご飯でもどう?美味しいお店、近くにあるんだ」
なんとなくわかった。前にお姉ちゃんに聞いたことがある。
これはキャッチ、というものだ。
ホストとかスカウトの男の人が、女の人をあの手この手で誘惑(?)するやつだ。
携帯電話に貼ってあった女の子達も毒牙にかかってしまった被害者に違いない。
さっきまで彼女(と思われる人)と通話していたくせに。
「いいお店すぐ近くにあるんだ、ジャンバラヤがお勧めだけどどのメニューも絶品なんだ」
金髪ホストが香水の甘い匂いと共にどんどん私に近づいてくる。
「い、いやです!……わ、私、そういう人、悪い人、ほんとに嫌いですから!」
「悪い人?とんでもない、俺は善良な歌舞伎街の民で、一等星だよ」
私の直観が鐘を鳴らす、嘘だ。イットウセイ……?
「嘘です!さ、さっき私見ました。よ、よくないものを渡していましたよね?!」
思っていたことがそのまま口に出てしまった。
手足が震えるのは寒さのせいじゃない。
早くこの場から逃げ出したいのに身体が言うことをきかない。
「ん?ああ、これのこと?」
金髪ホストは懐から銀色のアルミシートを取り出す。
小さい水色の錠剤が規則正しく並んでいる。
「そ、それ……ドラッグですよね!? 警察、呼びますから!」
許せない。
こんな人がいるから、違法薬物をバラまくような人間がいるから、お姉ちゃんが理 不尽に疑われることになるんだ。
お姉ちゃんが悪いことをするはずなんてないのに。
正直怖い。だけどもしお姉ちゃんだったらこれを見過ごさないはずだ。
逃げたい、でも私はお姉ちゃんの妹なんだ。
「警察呼んだっていいけど怒られるだけだから止めた方がいいぜ」
金髪男は錠剤を一粒押し出し口に含みぼりぼりと嚙み砕いている。
「うん、美味い。君もどう?」
「た、食べません! 絶対!」
何を考えているんだろうこの人。世界観が私と違いすぎる。
金髪男はもう一粒錠剤を押し出してまた口に入れる。周囲に甘い匂いが漂う。これがドラッグの匂いなんだ。初めて……じゃない。この匂いどこかで嗅いだことがある。
理科の実験のように手を仰いで恐る恐る匂いを嗅いでみる。
「……ラムネ……?」
「そ。色付けした市販のラムネを錠剤シートに入れたのさ。本物みたいだろ?結構拘って作った自信作なんだぜ」
「そ、それじゃさっきの人に渡したのも……?」
「同じものだよ」
先程の緊迫したやり取りは一体なんだったのか
あの取引は何の意味があったのか。ただの悪ふざけで済ませられない緊張感があった。
危険と感じた直観は間違っていない。悪人じゃなくても危険であることに違いはない。
「ちなみにさっきの人は…」
「知らないから本物のドラッグだと思ってるよ。予定通り仕込みに行ってるはずだ」
「あの、あなたはあの人に嘘をついて、騙して何をしようとしているんですか?」
「騙すなんて人聞きが悪いな、俺はあいつの手助けをしてるのさ。あいつがそう望んだからな」
「……事情はよく分からないですけどあの人が進んでやっているようには見えませんでした」
「見た目上はね。だけどちゃんと心からの本音は聞いてるから間違いないよ」
その言葉の意味を問い質そうとした瞬間に突風が吹いた。
周囲の木々が波のように騒めき、葉に乗った雪が小さい雪崩のように落下する。
ひとつひとつの葉が小声で囁き合い、やがてそれが重なり合って、人の言葉のようにも聞こえて不気味だ。
それで我に返る。自分の早とちりで見ず知らずの人に食ってかかってしまった。
それもこんな得体のしれない人に対して。
何をされるか分かったものではないのに。
その事実に気付き冷静になると急に恥ずかしくなってきた。
「寒っ!よし、一緒に暖かいところまで移動しよう」
「お、お、お、お邪魔しました!」
「あ、ちょ待っ」
彼の静止を無視して後ろを一度も振り返らずに全力疾走して家に帰った。
◇ ◇ ◇
「ただいま」
私の声がしんとした家にむなしく響く。
玄関横に置いてある姿見に目をやると全力ダッシュで疲れ切った自分の顔が映りこんでいる。元々色白で地味な私の顔立ちに疲労が加わってまるでゾンビのようだ。
「まずい、こんなんじゃお姉ちゃんに叱られちゃうな」
ただでさえ地味系眼鏡女なのに。一応女子として最低限の身だしなみは整えているものの私はお洒落にはあまり興味がない。年の離れたお姉ちゃんはそんな私にいつも小言を言った。
「風花は可愛いんだからもっとお洒落しないとダメだよ」
私のことを可愛いというのは唯一の家族であるお姉ちゃんだけだ。
「きっと学校でも風花のこと気になっている男の子、結構いると思うなぁ」
学校でも目立たないようにしているしそもそも目立たない。男子とお話しする機会だってほとんどないまま中学校を卒業したばかりだ。仮に話しかけられたとしても距離を置く。
そりゃあ小さい頃は性別気にせず遊んでいたし仲のいい男の子もいたけど、好きとか恋愛についてはわからない。
「そもそも恋愛なんて興味ないよ」
そう言うとお姉ちゃんはたんぽぽのような笑顔でいつもこう言った。
「いつかきっと風花も本当に誰かを好きになる時が来るよ。ほら、もうすぐ高校入学するしかっこいい人もいるんじゃない?その時はお姉ちゃんにすぐ教えてね」
明かりもつけずにリビングのソファに腰掛ける。普段よりも身体がソファに深く沈んでいく気がした。
習慣通りテレビの電源を点けると生放送の夜のニュースが流れる。
アナウンサーの男女が二人、かっちりしたスーツを着た男性が一人スタジオに映っていた。
昨夜から降り続いている大雪についての報道がトップニュースだった。
「次のニュースです。一昨日未明、歌舞伎街近くの倉庫で女性が倒れていたところを通行人が発見、病院へ搬送後死亡が確認されたとのことです。女性は六儀牡丹(りくぎぼたん)さん二十六歳。大手製薬会社に勤めていたとのこと」
アナウンサーの声がリビングに響く。同時に画面が切り替わり一人の女性の写真が映し出された。
たんぽぽのような笑顔を浮かべた私の大好きなお姉ちゃんが画面に映っていた。
画面が中継に切り替わってさっきまで私がいた歌舞伎街警察署が映し出される。
中継先にいるレポーターの声が部屋に響く。
「事実関係を確認中とのことですが、現在若者を中心に蔓延しているドラッグ、亡くなった六儀さんが関連している可能性も視野に入れて捜査しているとのことです。現場からは」
まるでお姉ちゃんがドラッグをばらまいた犯人かのようなニュース。
チャンネルを変えると、派手なスタジオセットの中でタレント達が明るい声を上げていた。
さっきまでお姉ちゃんの死を伝えていた番組と同じ世界のものとは思えない。
「CM明けは特集です!視聴者からのお便りも多いジャッジ事件についてです!」
司会者が大げさに叫ぶと、机の上にハガキの山が映し出される。
――ジャッジ。
学校の噂で耳にしたことがある。悪いことをした人間に“天罰”を下す存在。
だけどテレビの中では、お祭りみたいに盛り上がっていた。
「ある中学生が四人を殺害した事件……犯人は少年法で守られ無罪に。その時ジャッジがインターネットに現れたんです!」
「『謝罪しなければ天罰が下る』って投稿してね、実際その犯人は胸から大量に血を流して死亡!」
「傷ひとつないのにね!もう神様の仕業だって話題になったのよ!」
タレントたちは笑顔で
「すごーい!」
と声を合わせる。
観客の拍手と笑い声がスタジオに響く。
……胸から血を流して。傷ひとつなく。
まるで──。
「次はこちら!製薬会社の幹部、賄賂で判決を捻じ曲げた裁判官、自殺に追い込まれた秘書を持つ政治家……ジャッジは次々と断罪してきました!」
明るい声が耳に刺さる。
テレビの中ではヒーローみたいに語られているのに、私には冷たい刃物の話にしか聞こえない。
お姉ちゃんも……。
胸がぎゅっと縮まり、思わずリモコンに手を伸ばした。
画面を消すと、部屋に静寂が戻る。
急いでベッドに入って頭まで布団を被る。
耳の奥ではまだ、スタジオの笑い声がこだましていた。
◇ ◇ ◇
沈みかけた太陽が自分を、地面を、木々をオレンジに染めている。
公園に備え付けられているスピーカーから楽し気なメロディーが流れてくる。
「よい子の皆さん、もう家に帰る時間ですよ。事故に遭わないよう気を付けて帰りましょう」
穏やかな声色のアナウンスが聞こえる。まだまだ遊び足りないのにこの放送が流れたら家に帰らないといけない。
「風花」
後ろから自分の名前が呼ばれる。
顔を見なくてもわかる。お姉ちゃんが迎えに来てくれたんだ。
もう遊べないのはつまらないけどお姉ちゃんと一緒に帰るのは楽しい。
振り向くと制服を着たお姉ちゃんが微笑んで立っていた。
お姉ちゃんに駆け寄る。だけどお姉ちゃんに近づけない。
一生懸命走ってもお姉ちゃんとの距離は縮まらない。自分の脚じゃないみたいにうまく走れない。
お姉ちゃんが私に背を向ける。
「待って!」
お姉ちゃんは振り向いてくれない。
「行かないで!」
お姉ちゃんに私の声が聞こえていないのか私から遠ざかるように歩き続ける。
「お姉ちゃん!!」
目の前に天井が見える。自分の大声で目覚める。
時間は午前6時、同時に呼び鈴が鳴り響く。
「六儀さん!毎朝新聞です。いるんですよね?六儀牡丹さんが起こした事件の件についてコメントをお願いします!」
その言葉を聞いてから私の心臓が早鐘を打ち始めた。
呼吸するのが苦しい。
玄関先の人物は言葉をつづける。
「ドラッグによる若者の死者も出ています!ご家族が関与している可能性があるということについて、どのように感じていますか?!」
玄関を強く叩く音が部屋中に響く。
いきなり言われても私にもわからない。
「いるんですよね?!答えてください!」
昨日と同じように頭まで布団を被って、その中で両耳を塞いで目を閉じる。
玄関のチャイムが鳴り止まない。
「ご家族も同罪では?」
声が壁を突き破って部屋の奥まで押し寄せてくる。
私は布団に潜り、耳を塞ぎ、ただ
「ごめんなさい」
と繰り返した。
誰に謝っているのか、自分でもわからない。
それでも――中学生の私にできる抵抗は、それしかなかった。
時間が経つと記者の人も諦めて立ち去ったようで、人の気配が消えた。
それでもまた呼び鈴が鳴る。さっきとは別の新聞社の人か週刊誌の人。
絶え間なく呼び鈴を鳴らしては大きな声で事件についてまくしたてられた。
ごめんなさい。
頼んでもいないピザの宅配人が来た。
ごめんなさい。
私が動くと家の中に人がいることが発覚して、記者の人が家の中に入って来てしまうかもしれない。
そう思うとベッドから出ることが出来ない。
ごめんなさい。
布団を被って心の中でずっと謝り続ける。誰に対して何に対して謝っているのか自分でもわからない。ベッドに籠って息を潜めて外が静かになるのを待っていた。
外傷のない失血死。テレビ番組で言っていたジャッジ。
「ねぇ、お姉ちゃんは悪いことをしたから殺されちゃったの?」
私の呟きは玄関で鳴り続ける呼び鈴でかき消された。
ようやく玄関の前から人の気配が消えたようだ。時間は十五時を回っている。
のろのろとベッドから這い出て冷蔵庫をあける。
「買い物しなきゃ」
身支度を整えて昨日月海さんから受け取ったお姉ちゃんの私物が入った紙袋が目に留まる。そういえばポータブル音楽プレイヤーとイヤホンがあった。まったく見覚えがない。お姉ちゃんはいつのまに買ったのだろう。
これがあれば外で嫌なことを耳に入れずに済むかもしれない、そんなことを考えながらプレイヤーとイヤホンをコートのポケットに突っ込んだ。
部屋の外にマスコミの人がいないか慎重に周囲を確認して玄関を開ける。
玄関前にマスコミの人が捨てたであろう煙草の吸殻が散らばっている。
目を背けマンションから飛び出る。
私は普段利用しているスーパーマーケットは使わず、少し歩いた遠くのお店に足を運ぶことにした。雪が積もった道を歩くのは大変だけど、マスコミの人に待ち伏せされていたらと思う。だから一度も利用したことがないお店を使うことにした。
ベーコンと百パーセントオレンジジュースを買い物かごに入れる。
お姉ちゃんは低血圧で朝が弱いので朝食を抜くことが多い。お姉ちゃんの大好きなカリカリに焼いたベーコンと百パーセントオレンジジュースがあれば食べてくれる。だから我が家の冷蔵庫にその二つは常備するようにしている。
その他に適当に食材を買い物かごに入れながら今晩のメニューを考える。
今日の夕飯はグラタンにしよう。大雪の影響で外は寒いしお姉ちゃんもグラタン大好きだから。
──ああ……まただ。
買物を終えた後、少し疲れた私はスーパーの近くにある公園で少し休憩することにした。
そこで気付いた。ここは昨日も来た公園だ。
空き地が一面見渡せる場所にベンチが設置されていて大雪で覆われた空き地で子供達が野球を楽しんでいた。ベンチにかかった雪を払って腰かけてぼんやり子供達を眺める。
私も子供の頃によく野球やソフトボールで遊んでいた。
特にバッティングに関しては自信があり、男の子よりも遠くにボールを飛ばすことが出来た。
野球をしている子供達は小学生低学年から高学年まで、男の子も女の子もいる。
その中に一人だけ大人が混ざっている。身体の大きい子供がいるのではなくどうみても成人しているであろう男性。
その男性は黒い細身のスーツを着ている。目を引くのは頭部、髪の毛の色だ。
離れたここからでも目に付く、採れたてのレモンのように鮮やかな金髪で緩やかなウェーブがかかっている。
間違いない。昨日の金髪ホストだ。バッターボックスに入っている。
何で子供と野球しているんだろう。親というには若すぎるし兄というには歳が離れている。
外野裏に向けてバットを一直線に伸ばしている。予告ホームランのジェスチャーだ。背が高くてスタイルがよいからなかなか様になっている。
「今日はあの星まで飛ばす」
「曇りだしそもそも夜じゃないから星は見えないよ」
周囲の子供達から野次が飛び、ピッチャーを務める背の高い女の子が金髪ホストに向けてボールを投げる。
タイミングを合わせて金髪ホストがバットを振る。空振り。
同時に周囲の子供から大きな笑い声が挙がる。
「顔とスタイルだけは悪くないんだけどねー」
ピッチャー役の女の子が少しだけ残念そうに明るく言った。
「い、いいストレートじゃねぇか」
「今のはカーブ」
キャッチャー役の眼鏡をかけた少年が訂正する。
金髪ホストの声が震えていたのは寒さのせいだけではないようにみえる。
彼のスウィングは目を見張るものがあった、悪い意味で。
まずバットの握り手が左右で逆。バットのヘッドも前に出すぎ。身体も前に突っ込みすぎている上に腰も引けている。
バッティングにおいてやってはいけないことを濃縮還元したようなバッティングフォーム。
女の子が二球目を投げる。一球目をリプレイしたようにバットは空を切った。
三球目もボールにかすりもしなかった。三球三振。
「勝負は次の打席まで預けておくぜ」
いかにもバッティングフォームの調整中ですよみたいなオーラを醸し出している。
はらはらと雪が降り始めたても、彼らは雪も寒さもものともせず楽しそうに野球を続けている。
羨ましいな。
──私はどうしてこうなっちゃったんだろう。
段々と瞼が重くなってくる。昼寝してしまおうか、今ならよく眠れる気がする。
子供たちの声も段々と遠くなる。
「すみません、隣に眩い一等星が座りまーす」
声と同時にベンチが揺れる。金髪ホストが隣に座っていた。
「やぁ久しぶり。元気?」
昨日の気まずさが蘇ってくる。
金髪ホストが私の方に身体を寄せると香水の甘い香りが漂ってくる。
昨日の私の直感は間違っていない。この人は近づいてはいけない。女の敵だ。
緊張と気まずさから逃れるために腰を浮かせる。
「俺の華麗なバッティング見てくれてた?」
私を咎めるかのようなタイミングで声を掛ける。
タイミングが良すぎて思わず止まってしまった。そのタイミングの良さがバッティングにも活かせれば……そもそもバットにかすりもしていないというのに。
心の中で突っ込むも知らない人、ましてや男性に対してうまく言葉にする余裕がない。
「…え、あ…はぁ…」
横目でちらっと金髪ホストを見るとシャツがはだけて鎖骨が丸見えになっている。
なんだかいけないものを見てしまった気がして金髪ホストと反対方向に目を向ける。
「そうだ。飴食べる?」
彼はジャケットの内側から飴を取り出した。
ビー玉みたいな飴玉に棒がついているキャンディで子供の頃大好きでよく食べていた。
「ラムネとストロベリーどっちがいい?」
子供の頃はストロベリーが大好きでよく食べていた。ラムネも懐かしい。
思い入れがあるお菓子だけど見知らぬ人から受け取ったものを食べるのは抵抗がある。
「やっぱり王道のストロベリーかな。まぁ帰ってからゆっくり食べてよ」
金髪ホストは私にストロベリーを押し付けてきた。
「買い物帰り?料理が出来るなんて凄いなぁ、今度俺も食べさせてもらおうかな」
私の返答を待たずにぐいぐい迫ってくる。
お姉ちゃんから聞いたキャッチ、ナンパの対処法は…えっと、なんだっけ?
「今日のメニューは…グラタンかな?いいね、チーズ多めでよろしく」
想い出した。ナンパは会話しちゃダメだってお姉ちゃんが言っていた。
ちょっと失礼かもしれないけど私はポケットから音楽プレイヤーを取り出した。
音楽を聴くふりすれば諦めてくれるはず。
「それ最新型だよね?いいね、普段何聞いてる?俺は宇都ヒカリが好きでさ」
金髪ホストは猟犬のように私に食らいついてくる。
「そのイヤホン、どこで買ったの?」
金髪ホストがふと話題を変えてきた。
「こ、これ……お姉ちゃんの、なんです……」
しまった返事しちゃった。私の心配をよそに金髪ホストはすっと立ち上がった。
「そうなんだ。そのイヤホン不良品が多いよ。急に音量が大きくなって耳に悪いって評判だから他のイヤホンを使った方がいいね」
金髪ホストが空き地に戻っていく。その途中で私に振り返る。
「イヤホン、本当に使わない方がいいよ」
金髪ホストは笑顔でそう言った。
鋭い風が吹いて思わず首をすくめる。早く帰ろう。
私はベンチから立ち上がり子供達と金髪ホストを背にしてまっすぐ家へ向かった。
家に帰り予定通りグラタンを作る。お姉ちゃんはチーズ多め、オーブンで温めればよいだけにしておいた。これならお姉ちゃんも出来立てのグラタンが食べられる。
──だから違うよ、私。
ご飯の支度が終わって一息つく。普段ならテレビを点けるところだけどそんな気分じゃない。
手持無沙汰になったところで音楽プレイヤーの存在を思い出す。
昼間の金髪ホストの言葉が脳裏によぎる。
『イヤホン、本当に使わない方がいいよ』
音量絞って使えば大丈夫だよね。イヤホンを耳に入れて音楽プレイヤーの電源を入れる。
≪You‘re binding now……complete.≫
その瞬間、雪に覆われたように視界が白く染まった。
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