第2話 お面の男と軽い男

 私は公園の中に立っていた。

 昼間一面を覆っていた真っ白な雪は跡形もなく、若々しい草花や木々が夕日に照らされてオレンジ色に輝いている。

 昼と夜の境目に吹く乾いた風が、私の髪をさらさらと揺らした。

 遠くから姉妹らしき少女が二人、手を繋いで歩いてくる。

 お姉さんの方は高校生くらいで、妹はまだ小学校に上がったかどうか。


「ねぇねぇ、きょうはやきゅうで3回もヒットしたよ!」

 妹が自慢げに話すと、姉は屈託なく笑う。


「すごいね!風花は運動神経がいいんだ」

 ――幼い頃の自分とお姉ちゃん。

 夕日に伸びる二人の影を、私は夢中で見つめていた。

 夢でもいい。ただ、もう一度お姉ちゃんに会いたい。

 そう思って一歩踏み出した時。

 二人の進んだ先から、グレーのスーツを着た男性が歩いてくるのが見えた。

 逆光で顔は見えない。近づいて初めて、その異様さに気付く。

 顔を覆うのは、縁日の屋台で売られている子供向けヒーローのお面。

 本来なら子供の笑顔を飾るはずのそれが、スーツ姿の成人男性に貼り付いている――その違和感は滑稽を通り越して不気味だ。そしてその手にあるのは、過度に装飾された鋭い剣。夕日を反射して、ぎらりと光る。

 思わず足が止まる。

 お面の男はゆっくりと、けれど迷いなくこちらに近づいてきた。

 怖い。

 身体が反射的に反転し、無我夢中で走り出す。

 木々が迫る区画に逃げ込み、呼吸が荒くなっても足を止められない。

 ――夢の中なのに、息が苦しい。

 ――夢なのに、足が重くて思うように走れない。

 胸の奥で心臓が暴れて、血の音が耳を叩いた。

 木の陰に身を潜め、肩で息をしながら手で口を覆う。

 聞こえるのは自分の荒い呼吸と、耳の奥で鳴る鼓動だけ。

 ……大丈夫。夢だから。夢だから。

 そう言い聞かせた瞬間、掌に熱い痛みが走った。

 右手を見ると、生命線をなぞるように赤い傷が走り、どくどくと血が流れ出ている。

 そのすぐ横の木の幹には、さっきの剣が突き刺さっていた。

 暗闇の奥から、お面の男が現れる。

 視線は見えないはずなのに、確かに私を射抜いていた。


「――っ!」

 立ち上がり、再び走る。

 足がもつれる。転んで、地面がぐるりと回った。

 痛みで身体が痺れ、立ち上がれない。

 迫る気配。掲げられる剣。

 ――ああ、ここで死ぬんだ。

 脳裏に浮かんだのは、お姉ちゃんの笑顔。

 怖いはずなのに。


「……お姉ちゃんに会えるなら、それで……」

 目を閉じ、最期を待った。

 ……痛みが来ない。音もない。

 恐る恐る目を開く。

 お面の男は少し離れた場所に立ち、誰かと対峙していた。

 その背中――私は知っている。

 闇の中でもひときわ輝く鮮やかな金髪。


「待たせたな。デートの服が決まらなくてさ。俺も焼きが回ったかな」

 振り返った男は軽く笑い、けれど背筋は揺るがない。

 昼間に会った金髪のホスト――彼だった。


「おいおい、俺に断りなくこの子にちょっかいかけるなんて、大した度胸だな。デートに誘うなら、まず俺の後ろに並べ」

 お面の男は無言。微動だにしない。


「デートの時はお面なんか外して裸の自分で勝負した方がいいぜ」

 そう言うと、金髪の青年は懐から何かを取り出した。

 乾いた破裂音が夜を裂く。

 拳銃――。

 お面の男が大きく後退し、そのまま闇に溶けるように姿を消した。

 ……助かった?

 呆然と座り込む私の目の前に、彼がしゃがみ込む。

 青い瞳が真っ直ぐに私を覗き込んだ。


「右手……見せて。まだ浅いな。他に怪我は?」


「あ、はい……たぶんだいじょうぶ」

 近い。近すぎる。


「君みたいな美女に見つめられるのは、男冥利に尽きるね」

 からかうように笑ったその一言で、頭が真っ白になる。

 思わず視線を逸らしたけれど、頬が熱くて、暗闇でも自分が真っ赤になっているとわかる。

 彼の手が伸びて、私の頬に触れた。

 軽口のままふざけていると思ったのに、その表情は真剣で。

 ど、ど、どうしよう……!

 目をぎゅっと閉じてしまう。

 ……けれど次に来たのは、唇でも痛みでもなく、真剣な声だった。


「だけど、これは悪い夢だ。早く目を覚ました方がいい」

≪You‘re deviding now……complete.≫


「あの……あなたは誰なんですか?」

 ホストはニヤリと笑う。


「悪い人さ──」

 視界が白に包まれ、次の瞬間、私は自分の部屋の天井を見上げていた。


 私の目の前に見知ったリビングの天井が広がっていた。

 この寒さなのにパジャマが重たく感じるほど汗をかいている。

 気持ち悪くてこのままでは寝られないし風邪をひいてしまうのでもう一度シャワーに入ることにしよう。ゆっくりと身体を起こしたとき右手の違和感に気付く。

 右手の掌に大きな一筋のミミズ腫れ、更に血が流れだしていた。

 ソファにも血がしたたり落ちた後が残っている。

 掌とソファを見比べてある考えが思い浮かぶ。そんな馬鹿なことあるはずがない。

 気分転換にテレビを点けるとニュース番組が流れる。


「昨日午後東亰都内にある小口商事の営業所から違法薬物が発見され、経営者の森藤勉容疑者と従業員の長沼仁容疑者が薬事法違反の容疑で書類送検されました。森藤容疑者は容疑を否認、長沼容疑者は違法薬物の使用についても容疑を認めているとのことです。また、小口商事は商取引法にも抵触している疑いがあり、警察は余罪を追及する方針です。次のニュースです」

 長沼と呼ばれた人物は一昨日公園で見た背の低い人物だった。

 明かりの少ない公園だったけど間違いない。

 私はシャワーを浴び直し、着替え、ソファに持たれながらあることを考えている。

 自分でも馬鹿げた考えだと思う。

 だけどその馬鹿な考えは私の中から消えない。時間が経つ程強くなる。

 右手のミミズ腫れは嘘のようにきれいさっぱり消えている。

 だけどソファにしみ込んだ赤黒いシミが昨夜の出来事が夢でないことを証明している。

 買物に使っているトートバッグに荷物を詰めて目的地の公園に辿り着く。

 お目当ての人物、金髪ホストはそこにいた。昨日と同じように子供達と野球に興じている。

 私が昨日座ったベンチに腰掛けるのと同時に金髪ホストの打席が終わったようだった。

 金髪ホストは私を見つけると子供たちに声をかけてから私の方に近づいてくる。


「やぁ」

 爽やかな笑顔で声を掛けて、同じベンチ、昨日と同じ位置に彼は座った。

 私は彼に気付かれないよう大きく息を吸い込んだ。

 シャツの中に汗が伝うのがはっきりとわかった。

 コートのポケットに突っ込んだ右手を強く握りしめて昨日の夜からずっと考えてきたとおりに話し始める。


「……少しだけ、私の話をしてもいいですか?」


「喜んで」


「昨日、悪い夢を見たんです。変な悪い人に追いかけられる夢。それもこの公園で追いかけられて。殺されそうになりました」


「それは怖いね」


「私は木立ちの中に逃げました。でも結局捕まったんです。もうだめだ、って思いました。その時ある男性が私のことを助けてくれたんです。本当に怖かったので、どうしてもその人にお礼が言いたくて」


「夢で助けてもらったお礼がしたいとは律儀だね。守り甲斐があるお姫様だ」


「あなたですよね?私を助けてくれたの」

 数秒の沈黙の後彼は大きな声で笑った。


「ははは!!君の夢の中で俺が出たってことか」

 おかしくて仕方がないという様子で彼は笑い続けている。


「そうだね。ばれたら仕方ない」

 ひとしきり笑った後彼はあっさり肯定した。


「君に少しでも近づきたくて昨日夢の中にお邪魔させてもらったんだ」

 安い冗談で一笑に付そうとしている。

 元々すんなり認めるわけがないとわかっていたので想定の範囲ではある。


「私、夢の中で手を怪我したんです。起きたら同じ個所を怪我していました。今も血が止まらないんです」

 コートのポケットに突っ込んでいた左手を彼の目の前に差し出す。

 包帯を巻いた左手を彼に見せる。

 ほんの一瞬、彼が驚いた表情を見せたことを私は見逃さなかった。

 怪我が治らないなら怪我した方の掌に包帯を巻くのが当たり前だ。

 怪我をしていない手に包帯が巻かれていたら誰だって驚く。

 私がどちらの手に怪我を負ったのかを知っている人間であれば。

 自分の認識している事実と異なる状況を突きつけられたらどんな人間でも反応が遅れる。

 周囲と距離を取るために他人を観察する癖がなかったらこの方法は思いつかなかった。

 彼が驚いた表情を見せたのもほんの一瞬だけ、すぐに元の飄々とした笑顔に戻っている。

 私はそれを見逃さなかった。

 そして私が見逃さなかったことを彼も気付いている。


「試すようなことをしてごめんなさい。本当は左手に怪我はしていません」

私は左手に巻かれた包帯をほどき傷一つない左手を差し出す。


「今の反応でわかりました。あなたは私が右手に怪我を負っていたことを知っていましたよね。家から今までコートに手を入れたまま一度も外に出してないのにどこで知ったんですか?」

 彼の目は私の目をまっすぐ捉えている。彼は何も言わない。


「最近姉を亡くしたんです。元々両親も事故で亡くなっていて二人で生活していました。その姉が、ジャ……誰かに……殺されたんです」

 彼は口を挟まず目線で話を促す。


「原因は……警察の方から失血死と聞きました。だけど外傷がないって。昨日私が夢の中で負った掌の傷、目が覚めた時にも僅かに残っていたけど徐々に消えていって朝にはすっかり綺麗さっぱり消えていました」

 彼は瞬き一つせず私を見ている。


「おかしなことを言っている自覚はあります。だけど偶然だと思えないんです。もしかしたら私と同じように姉は夢の中で怪我を負って……」

 その先は言葉にしたくなかった。

 私はポケットから姉の遺したプレイヤーとイヤホンを取り出して彼に見せる。


「昨日このプレイヤーを起動した瞬間に意識が飛んだんです。はじめは疲れているからすぐ寝てしまったのかなと思いました。だけど昨日の昼間に言っていたあなたの言葉を思い出したんです。このイヤホンを使わない方がいいって。このイヤホンを使ったら不思議なことが起きて夢の中であなたが現れた」

 私はベンチから立ち上がり彼と向き合った。


「私は、姉の身に何があったのか、真実が知りたいんです」


「場所を変えよう。積もる話はそこでしようか」

 彼はベンチから立ち上がりシャーベット状になった遊歩道を歩き出した。

 転ばないように彼が歩いた足跡を辿りながら彼の後ろをついていった。

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