初稿
『髪結い見習いの謎とき奇譚(仮)』
五月晴れの空の向こうに、一雨きそうな黒い雲が見えた。
足を止めて、すんすんと小さな鼻を利かすと、お歯黒どぶの臭いが飛びこんできて、思わずたきは顔をしかめる。
「師匠、傘持ってるかな?」
たきが威圧感のある門をくぐろうとしたところで、大柄な男に呼びとめられた。
「おい! なんだおめえは! 止まれとまれ!」
「え、え? あの、私は」
突然の詰問に言葉が出てこない。こわばったままでいると、門の内側から大声で呼ばれた。
「たき! 何やってんだい、こっちこっち!」
「師匠!」
思わず駆け寄ろうとして、背負った荷物をつかまれる。中に詰まった道具が不満げな音をたてる。
「おい! 勝手に入るな!」
「天晴れじゃないねぇ。あたしらのことを知らないってことは、ははーん、さてはおめえさん、新参だな?」
あおるような態度の師匠に、男の声がさらに大きくなる。
「何をごちゃごちゃと。ここは吉原大門。この先は吉原遊廓だぞ。おめえらみたいな娘たちはそんな簡単に出入りできないってことを知らんのか」
「大門切手がありゃいいんだろ。わかってるって。⋯⋯あれ? たしかここに入れといたはずなんだけど」
「ちょっと師匠! あれだけ確認してっていったのに!」
たきの背中から仕事道具の入ったびんだらいを抜きとって、往来のど真ん中でひらけだした。
おかしいな、と首をかしげていると、聞きなれた救いの声が上から降ってきた。
「おりん! おたきちゃん! どうしたい、こんなところで仕事でもおっぱじめたのか?」
「政次様! 師匠がまた切手をなくしちゃったみたいで」
駆けよったたきの顔があまりに情けなかったのか、からからと政次は笑うと、
「いいよいいよ。おたきちゃんたち二人なら、みんなわかってるから問題ねえ。大事な客を待たせるわけにゃいかねえだろ」
「いいんですかい? 政次さん」
「おめえさんはまだ知らなかったか。この娘らは吉原専門の廻り髪結い。三浦屋の高尾太夫、丁子屋の雛鶴太夫、扇屋の夕霧太夫。みんなこの娘らに髪を結ってもらってる。泣く子も黙る女髪結いだ」
政次の言葉を聞いて、新入りらしい見張りが唸り声をあげる。政次があげた名前はみな、吉原界隈で知らない者はいない者ばかりだ。
「わ、わたしはまだ見習いなので、結ってるのは師匠ですが」
「この娘らを足止めしてちゃ、太夫たちが困っちまう。さあ、行ったいった」
「ありがとよ、政次! 恩に着るぜ」
そういってりんは、何事もなかったかのように颯爽と歩きだしてしまう。ひらけたまま置いていかれたびんだらいを、たきは慌てて片し、んしょ、と背負うと、政次と見張りの男に頭を下げてから、安楽そうに歩いている師匠の背中を追った。りんはどんな時も悠々としている。
***
「そりゃ、災難でありんしたなぁ。これからは困ったらあちきの名前をお出しんさい」
ここは大見世、扇屋の二階。奥の奥にある特別の個部屋。普通の客では通されることのない部屋の真ん中で、夕霧太夫は凛と前を向いたまま、背後にいるりんとたきに声をかけた。
ありがとうございます、と答えながら、りんは夕霧太夫の髪に梳き櫛を入れ、流すように動かす。
大口を開けて笑っているけれど、その手はよどみなく、太夫の髪を仕上げていく。流行りはじめたばかりの、ひときわ大きな髷の輪がそびえ立ちあがる。どんな難しそうな髪型でも、すぐにここまで仕立てることができるのは、江戸に数多くいる女髪結いでも、りんくらいしかいないそうだ。それだから、吉原で最上位の太夫たちからひっきりなしにお呼びがかかる。その腕前を自分のものにしようと、たきは師匠の手先を一心に見つめる。
「ちょいと水をおくんなし」
夕霧太夫が部屋のすみにいる禿(かむろ)に声をかける。きくのという名の禿はたきと同い年、いつもかいがいしく太夫のお世話をしていた。いずれ遊女となるきくのに、一緒にがんばろうね、とたきは心の中で声をかける。
「そういえばおりんにまたお願いがありんす」
水を口にふくんでから、夕霧太夫が鏡の中のりんに視線を向けた。
「大事な人からもらった銀のかんざしがぱっと失せんしたけど、なんとかなりんす?」
きた。
髪結いの腕前は当然のこと、りんが吉原で一番人気なのは実はもう一つ理由があるのだ。失せ物や困りごとを話を聞くだけでずばりと解決してしまう。普段のだらしない姿を知っているたきにしてみると、なんであの師匠が?
と思わないでもないけれど、ぴたりと謎を解き明かす姿は小気味よくて、大好きだ。
「ちょいとお話、うかがいましょうか」
貝がらに耳を当てて波の音を聞くように、手元の仕上げ櫛を耳に当てる。たきが謎ときをする際のお決まりの仕草だ。
「つい今朝のことでありんす。さるお方が帰り際にあちきに銀のかんざしをくれた。あちき好みのかんざしだったからねえ、さっそく今日から使おうと思ったんだけど、いざ準備しようとしたらどこにもあらしやせん」
なあ? と夕霧太夫はきくのに同意を求める。
「太夫はかんざしなんて売るほど持ってますよね? 普段はどこに仕舞ってるんで?」
「ここだけど、ここなんてきくのと一緒にいの一番に探したさ。なあ?」
といって引き出しを開ける。見るからに豪華なかんざしがごちゃっと入っている。りんが手を伸ばそうとすると、きくのと呼ばれた禿がすうっと引き出しを閉めた。大事なものは触らせてもらえないらしい。
「その後は部屋中探したけど見つからんし、その引き出しなんて三回くらいひっくり返したんよ。終いにはきくのを素っ裸にひんむいたけど見つからんした」
「誰かこの部屋に忍びこんで持っていったとか?」
「あちきは眠りが浅いから、誰か来たら絶対起きる。今朝から、お前さんたちが来るまでの間、あちきときくの以外にこの部屋を出入りした者はおらんせん」
絶対足音を立てない盗っ人くらいしか、りんには思いつかない。さすがのたきでも、これだけの話ではどうしようもないだろう、と横目で見るとたきはやけにこざっぱりとした顔をしていた。え? もしかして。
「天晴れ!」
そういうやいなや、長い腕をすばやくのばし、「探しものはここだ!」たくさんのかんざしが入っていた引き出しを棚から抜きとった。あまりに突然の行動に、すぐ横にいたきくのも止めることができなかったみたいだ。
「おりん、さっきもいわんしたが、そこは目を皿のようにして探したでありんす」
「一度目は、でしょう」
短く答えながら、引き出しの中にごちゃっと入っていたかんざしを一つずつ畳の縁に並べていく。
「女隠すにゃ吉原に、かんざし隠すにゃかんざしの中に、ってね」
有無を言わさないりんの雰囲気に、いつの間にか、その場にいるみんながりんの手元を黙って見つめている。
小ぶりだけど、ひときわ銀の輝くかんざしが出てきた瞬間、
「それだ!」と太夫が大きな声を上げた。
りんは太夫に負けず劣らぬ艶のある瞳で笑った。
「太夫みたいに賢くて立派な人は、自分のやったことを自然と信じちまうんだろうなぁ。だから一回探して見つからなかったら、二回目以降は無意識にここにはないだろうって、それなりの探し方になっちまったんだ」
かんざしを太夫の頭に刺してやりながら、りんは言葉を続ける。
「一所懸命に探しても見つからなくて、かつこれだけ似たようなかんざしがいっぱいあったら、二度目以降は見逃しちまうのも無理はねえ」
「でも、一度目は今お前さんがやったみたいに一つずつ丁寧に探したつもりでありんす」
「その時はなかったのさ」
りんの横できくのがじりじりと身体を動かしている。
「はじめは自分の着物の中にでも隠していたんだろう。ただ、いずれは太夫にひんむかれちまうと思って、いい頃合いで引き出しに入れたんだ。一回探したところはそうそう探さないと予想してね。よほど太夫の性格を知りつくした人間にしかできないねえ。例えば、いつでも太夫のそばに控えているようなね」
「⋯⋯お前さん、それはつまり、盗っ人は」
「許してくだせえ!」
太夫の言葉をさえぎるように、きくのの叫び声が響いた。
「あんまりにもきれいだったから! こんなきれいなかんざし着けたら、わっちも太夫みたいになれるかと思って!
つい出来心でやっちまったんです。どうか許してくだせえ!」
きくのは小さな身体を折りたたみ、おでこをべたりと畳につけている。
「ふん。どうやらりんのいうとおりのようでありんすなあ」
太夫はゆっくり立ちあがり、しゃなりときくのに歩みよった。
きくのは土下座のまま動かない。
固まって重くなった雰囲気に、耳の奥が痛くなる。
沈黙を切って落とすような一言を夕霧太夫が発しようとした瞬間、
「姐さん、次の道中はきくのとお揃いのかんざしで行くっていってやしたもんね! いいのが見つかってよかったですね!」
「え? 突然、何をいいなんす?」
「きくのが気に入ったかんざしを二人でつけて、お揃いにしたいっていってやしたじゃないですか。な、たき?」
「え、え? あの⋯⋯ええ、そうですとも。そのかんざしできくのとお揃いで道中に出たら、みんな、太夫ときくののことばかり見ちまうに違いありません!」
突然、話を振られても、なんとか話を合わせられるようになった。ただ、師匠のように流ちょうにできているかといったら、それはどうやらまだまだらしい。おたおたしているたきを見て、太夫が大きな声で笑いだした。
「あっはっはあっ! あちきの負けでありんす。このかんざしは元々きくのにやるものだった、ということでありんすな。つまり、ここには盗っ人なんておらんせん。それでようざんすな?」
「ようざんす、ようざんす! 太夫道中が楽しみですね!」
よどんでいた空気が嘘みたいに晴れていく。りんはただ謎をとくだけじゃない。その後、みんなが笑顔になる。だから、みんなりんのことが好きになる。たきは誇らしげに師匠の背中を見つめていた。
「邪魔するぜ」
晴れやかな夕霧太夫の部屋に、五月の風のように暖かく耳慣れた政次の声が吹きこんだ。先ほど助けてもらった時より、どこか少し低く聞こえる。
「男前の犬っころがよう来なんした。岡っ引きなんてお呼びでござりんせん」
「盗っ人だの、ぶっそうな声が聞こえたんでね」
「いませんいません! 政次様の聞き間違いですよ。ね?」
たきがぶんぶんと団扇のように手をふるも、政次の目には映っていないようだった。黒い雲がかかったような視線の先には、しゃくしゃくと立つ、りんの姿。
「どうしたい政次? なんか用かい?」
「⋯⋯何かの間違いじゃないのか」
聞き取れないほどの小さな声が、うわ言のように政次の口からこぼれた。
「え? なんだって?」
長く息を吸って、政次は覚悟を決めたような顔をした。
「お縄をちょうだいしろ、おりん」
「それは天晴れじゃないねぇ。どういうこったい」
「昨日の夜、扇屋に入っていくおめえを見たっていうやつがいてな。ここで何してたんでい」
「あたしが吉原ですることなんざ仕事以外に何があるってんだい」
「さる豪商が身請けのために用意してきた千両が消えた」
「せ、せ、千両?」
夕霧太夫が政次とりんの間に、さえぎるように立つ。
「ちょいと政次。おりんがそんなことするわけがありんせん。おりんを連れていくのは待っておくんなんし。今おりんを連れてかれると、あちきだけじゃなくて他の太夫たちもみんな困ることになるでありんすよ。主さん、」太夫の右目が厳しく開かれる。「吉原遊郭全体を敵に回す覚悟はありんすか?」
「俺だって、こんなことしたくてしているわけじゃない」
「だったら」
「俺は同心には逆らえない。怪しいのはおりんなんだ。俺が今捕えなくとも、必ず誰かが捕らえにくる。分かってくれ」
政次は苦そうな表情を隠すことはなかった。普段のからっとした笑顔が、黒い雨雲に塗りつぶされてしまったみたいだ。
「分かったわかった。そんな泣き出す前の子どもみたいな顔すんな。うちの見習いが心配のしすぎで目を回しっちまいそうだ」
そういってりんは、自ら両腕を政次に差しだした。
「え、師匠⋯⋯」
「ちょいと行ってくらあ。大家にはうまくいっといてくんな」縄で括られた腕を伸ばし、ぽんとたきの頭をたたく。「すぐ帰る」
「師匠、待って」
見せびらかすように両腕を頭上に掲げながら、りんは政次の後についていく。その背中はいつもと変わらず、悠々としていた。
そうして吉原一の廻り髪結いは、罪人としてしょっぴかれてしまった。
***
どうやって吉原を出て、どうやって自宅の長屋まで帰ってきたのか、たきはまったく覚えていなかった。扇屋の豪奢な部屋とは真逆の、質素で狭い部屋の真ん中で、ずっと立ち上がれずにいる。
外はもう夕日。まとわりついてくる弟妹たちに飯を用意しないと。自分はあの子らの親代わりなのだから。
そう思うのに、腕に足に力が入らない。頭が回らない。
「ししょーどこぉ? ししょーいないのぉ?」
「いつもならそろそろ師匠がごはん食べにくるのに、今日は来ないの?」
弟妹たちの無邪気な問いかけがたきの胸に深く突き刺さる。背中に当たる小さな手をいっそ強く振り払いたくなるほどの激情が胸の奥にうずまく。
違う。弟妹たちは何も知らない。だからこの子たちは何も悪くない。そう思い、自分で自分を抱きしめる。
長屋の前に捨てられて、大家に拾ってもらってからずっと、幼い弟妹たちとがんばって生きてきたけれど、今日ほど不安な日はなかった。これまでなんとかやってこれたのは、もちろん大家の好意も大きいけれど、何より隣の部屋にりんがいたからだ。
「ししょーって、いっつも汁こぼすんだよなぁ」
目の奥に浮かんだだらしのないりんの姿に、思い出し笑いと一緒に涙がこぼれ落ちた。
一度破れた袋は元には戻らない。後からあとから涙が落ちていく。
師匠はどうなってしまうんだろう。もう二度とこの長屋に帰ってこないんだろうか。
泣くばかりで役に立たない姉を見限ったのか、弟妹たちは外に出ていってしまった。大家のところに行ったのかもしれない。そうだ、大家さんにうまくいっておけと師匠にいわれてたんだった。でも、何をなんといえばよいのやら。
少しだけ頭が動くようになって、目の前にびんだらいがあることに気がついた。ぼうとしていて、持ってきてしまったようだ。これは師匠の部屋に持っていかなければ。
ふと気になって、中をのぞく。いくつも並んだ櫛たちは、たきにはまだうまく扱えないものばかりだ。中でもいっそう黒く艶光りする仕上げ櫛を手に取る。りんの師匠から譲ってもらったものだと、りんがいっていた。
りんが使うから、道具として活きる。自分はまだ見習いだ。何も、何もできない。涙が一粒、また櫛に落ちた。
「やれやれ、顔だけの女の次はこんな乳臭い小娘かい」
その時、どこからかきっぷの良さそうな声が聞こえた。
「だれ?」周りを見渡しても、だれもいない。
「いつまでもべそべそ泣いてないで、早くあんたの師匠を迎えに行くよ。あんなでも、髪を結うのはちいとばかりできるからね」
悲鳴をあげる寸前でなんとか止まった。化け物でも出たような気持ちでたきは自分の手の中のそれを見る。
「櫛が、しゃべってる?」
「あの女もぬけた弟子を取ったもんだね。あんな見えすいた嘘をまさか見抜けてないとはね」
「どういうことですか?」
「どうもこうもあるかい。あんたの師匠はどうして仕事してたなんて嘘をつくんだい」
政次とりんの話していた内容を思い出す。仕事をしていたの嘘?
「あんたが今日、吉原まで背負っていったのは何だった? あんたの師匠はいつから道具なしで髪が結えるようになったんだい?」
そうか。髪結いの仕事をするなら、必ず櫛を持っていくはず。昨日の夜、道具を持たずに扇屋へ行ったということは、りんは仕事をしていたはずがない。
「分からないのはそんな見えすいた嘘をつく理由だ。盗みを疑われてんのに、どうして嘘をつく? 疑いを晴らしたいなら本当のことをいうべきだろう。まさか、本当にあの女が千両を盗んだっていうのかい? はっ! あの女にそりゃあ無理だ」
「さすが師匠の櫛は、師匠と同じくらい頭の回転が早いんですね」
「やれやれ、それも分かってなかったのかい。あたしを耳に当ててみな」
いわれたとおり、たきはしゃべる仕上げ櫛を耳に当てた。
「あんないいかげんな女に謎ときなんてできると思うかい?」
ないしょ話のように、耳のすぐそこで声が聞こえた。それは、りんが謎ときをする時の仕草で。たきは理解した。謎ときをしていたのは、この古い櫛なのだ。
「あたしとりんの関係が分かったんなら、そろそろ出かけるぜ」
「え? ど、どこにですか?」
「吉原に決まってんだろ。いいかい? 吉原の女は昼と夜ではまったく別の人間さ。夜に起きたことを聞きたいなら、夜に行くしかねぇんだ」
この櫛と一緒ならりんを助け出せる気がする。
またりんと一緒に、髪結いをすることができる。
そう思うと力がわいてくる。
私にも、できることがある。
「あたしが仕上げてやんないと女たちは商売になんないからね」
仕上げ櫛とたきの声が長屋の部屋に響き渡る。
「いざ吉原!」「いざ、吉原!!」
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