天使の死体

津多 時ロウ

 朝、目が覚めると、隣で女が死んでいた。


 見下ろしながらそれをまたぎ、ベッドから降りる。

 透き通るような肌とプラチナブロンドの長い髪が、羽毛布団から確かに覗いていた。

 そのまま数歩進み、洗面台で顔を洗う。

 俺の顔は無精ひげで装飾され、頭は少し長めの癖毛で覆われている。

 特に変わったところはない。いつも通りだ。

 視界の端で浴槽に横たわる女の死体を捉えて、だからといって、何を思うわけでもない。

 ズボンのポケットでスマートフォンが揺れた。

 一回、二回、三回、四回。

 依頼だ。

 靴を履き、重い金属のドアを開ける。

 空は、まるでいつも通りに薄っぺらかった。



  *



「――溜池山王ためいけさんのうで仕事だ」

 公衆電話の向こうの機械音声は、それだけ言って電話を切った。

 今回のターゲットの名前も、何をやっている人間なのかも知らされないし、知る必要も無い。

 駅のコインロッカーにいつもの暗証番号を入力し、ほどほどの大きさの、よくあるスポーツバッグを取り出す。

 手近なショッピングモールのトイレで確認すると、やはり中身はどこにでもあるファストファッションの服、それに挟まれたターゲットの写真、実行地点の地図と簡単な指示、革の黒い手袋、そして見た目の割に重い、小さなアタッシュケースだった。

 写真の中の、この立派な身なりの男が善人なのか悪人なのか、どこでどんな仕事をしているのか、今までどんな生き方をしてきたのか。そんなものは仕事には必要ないし、興味も無い。

 ただ、誰かが仕入れ、誰かが運び、顔も知らない誰かが考えた作戦の上に、俺はいるだけだ。

 場所を変え、目に付いた公園の古タイヤに腰掛ける。

 申し訳程度に作られたそこでは、街灯が明滅を繰り返していた。

 視界の端に移る滑り台では、朝に見た女の死体が、次々と奈落へ滑り落ちていく。

 白く息を吐き、腕時計を見た。

 時刻は十八時の少し前。

 スポーツバッグを右肩から袈裟にかけ、小さなアタッシュケースを右手で持つ。

 おもむろに歩き始めた俺の体は、薄暗い路地に吸い込まれていった。

 指示された場所は、ひっそりと佇む小料理屋の前。

 短針と長針が美しく目を背け合う時刻に、三つ揃えのスーツを着たターゲットは、果たして計画通りに現れた。

 小料理屋の灯りに半分照らされたその顔は、実に柔和だった。

 俺は、右手にぶら下げたアタッシュケースを、一度だけ強く下に振る。

 軽い音がしてケースが落ち、仕込まれたMP5Kコッファーサブマシンガンが露わになる。

 左手で上に突き出したグリップを、右手で把手とってのトリガーを握る。

 チクリとした。

 エアーコンプレッサーのような音が、細かく静かに鳴り響く。

 ターゲットは何度も痙攣し、辺りに血が流れた。

 すぐそばにMP5Kを投げ捨て、俺は背を向けて歩きだした。

 背中に、朝の女の視線を感じながら。


 指示通り、少し離れた別のショッピングモールで着替え、赤坂見附あかさかみつけの駅に下りる。

 そしてまた、指示通りに指定のコインロッカーに指定の暗証番号でスポーツバッグを入れる。

 コインロッカーの上には、女の死体が横たわっていた。

 今回の仕事はこれで終わりだ。

 このまま、あの狭いアパートに帰ってもいいが、どうしてか体がだるい。

 だから俺は、海へ行こうと思った。

 そこに何もありはしないのに、ただ海を見たいと思った。

 思いついたまま、電車に乗る。

 網棚の上から、女の死体が俺のことをじっと見ている。開かない目蓋まぶたの奥から。

 隣に女の死体が座った。行儀よく。


 潮の匂いがする。

 目蓋まぶたの向こうは、明け方の気配が漂っている。

 気付けば、葛西臨海公園のベンチで寝ていた。

 起きて、海を見に行こうと思った。

 重い体を引きずるように動かす。

 体がだるい。

 長い橋を渡った先に、砂浜が見えた。

 暗い空に、待ちきれなかった光が混ざり合う。

 朝日が輝き始める頃、俺は浜辺に座り込んだ。

 隣で女の死体が膝を抱えて座っている。

 まるで宝石のような青い目を向けて、俺に笑いかけている。

 背中には鳥のような羽が見えた。

 昨日からずっと見えていたはずなのに、見て見ぬふりをしていた。

 咳が出る。

 塞いだ手のひらに血が流れる。

 女が俺の体を空へ空へと引っ張り上げる。

 空はいよいよ輝き、厚みを増していく。

 肉も美しい髪もどんどん消え失せて、やがて女は骨だけになっていた。



『天使の死体』 ― 完 ―

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天使の死体 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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