【夕立転生】夕立が異世界転移した結果 〜悪役令嬢の涙を隠しただけなのに、歴史書には『王国を滅ぼした雨』と書かれていました〜

ずみ

――僕はただ、ひととき降りた雨粒にすぎない。 誰に称えられることもなく、誰に呪われることもなく、 気づけばひとつの王国が静かに消えていた。



立っているだけで命を削られるような暑さだった。

アスファルトの向こうが陽炎に揺れ、空気さえ熱に焼かれている。

汗は首筋を伝い、呼吸までもが重い。


「やばっ」


買い物袋を抱えた主婦が駆け出し、

自転車の女子高生は前かごのスマホを慌ててポケットにしまう。


最初の一滴が頬に触れたかと思えば、すぐに大粒の雨に変わった。

傘を持たない人々は軒先へ駆け込み、子どもたちは水たまりを蹴って歓声をあげる。

濡れた髪が頬に張りつき、世界の色が一気に灰色に塗り替えられた。


水たまりに太陽が映った。

水面がゆらりと震えた、瞬間





視界が白くほどける。

僕はただの夕立として、別の空へ降りていた――







最初に見えたのは、二つの太陽だった。

白がひとつ、赤がひとつ。

その光の下へ、僕は生まれ落ちた――台風の弟分、ただの夕立として。


兄は台風。村を救い、貴族を吹き飛ばし、魔王軍すら霧に散らせた嵐だった。

僕は夕立。ひとときの影を落とし、路地を濡らし、すぐに忘れられる。


――それでいい。僕はただやさしく落ちて、ただやさしく濡らす。


小さな雨粒が触れた先に、どんな物語が芽吹くのか。

僕はただ、見届けるだけだ。





王都の広場は、人の熱で揺れていた。

半月形の壇上。孔雀色のマントを翻した王子、その隣に雪のように白い聖衣の少女。

壇下には取り巻きの若い貴族と、噂好きの群衆。

その中央には、ひとりの少女――「悪役令嬢」と呼ばれる公爵家の娘が立たされていた。


銀に近い淡金色の長い髪は雨雲の下でくすみ、

薄い藤の瞳は疲れ切った星の色を宿す。

指は硬く握られ、爪が手袋の中で月の弧を描き、

真紅のドレスは、嘲笑の中でひどく儚げに見えた。



「――お前との婚約は破棄する!」



王子の声が広場に響く。

聖女は一歩進み出て、銀杖を掲げた。


「神は真実の愛にのみ祝福を与えます。偽りの心はここで裁かれるのです!」



群衆はざわめき、石を拾い上げる。

笑いと憎しみが入り混じり、誰もが「悪役令嬢」を罰する側に立った。



彼女は目を一度閉じ、乾いた唇を開く。


「……わたくしは、ただ、孤児や病に苦しむ者たちの施設へ――」

「ふん、言い訳は要らん!王家に不利益をもたらす者を、私は愛さぬ!」

「不利益……弱きものを多く救うためにも帳簿をと、聖女さまにも同じ証をと願っただけ――」


聖女の銀杖が床をコツンと鳴らす。

「帳簿など人の作るもの!神の御業は、そんな数字で測れはしません。

 さあ、神に代わり、この娘を打ちなさい!!!」


石が飛んだ。

乾いた音とともに、彼女の額に当たる。

赤い筋が白い肌にひとすじ流れ落ちたが、彼女は顔を上げたまま微動だにしない。


「当たったぞ!」

「見たか、罰が下ったんだ!」


群衆は歓声をあげ、さらに石を拾う。

彼らの瞳は熱に曇り、罪を重ねていることにも気づかない。





彼女は目を閉じ、静かに息を吸った。

痛みを押し殺し、唇を固く結ぶ。

その姿は、嘲笑の中にあっても揺らぐことのない静謐さを湛えていた。


けれど、その胸の奥に、どうしようもないものが溢れ出した。

風もないのに彼女のまつ毛が震え、頬に一筋の光が走るのを、僕は見た。




だから、降り始めた。

――もういい。君の涙は、僕が隠そう。




小さな雫も、時に大きな流れを変える。

けれど、それを偶然と呼ぶのなら――僕は否定しない。



雫が石を滑らせ、罵声を雨音に沈めていく。

群衆の石は、濡れた手からするりと落ち、彼女には届かない。


――その手を濡らせば、もう彼女を傷つけられまい。


嘲笑は次第にかき消され、彼女の周囲だけが静謐に包まれた。



彼女は背筋を伸ばし、壇上をゆっくりと降りる。

濡れた真紅の裾が石畳を引きずり、赤薔薇はなお気高く輝いていた。

人々が息を呑む中――


「冠も婚約も要らない。私には誇りだけが残ればいい」

――君だけの道だ、どうか胸を張って進め。


人々が息を呑む中、彼女はただ雨音に導かれるまま、静かな光の道を歩んでいった。





雨はまだ降り続けていた。




最初に転んだのは、石を投げた若い取り巻きだった。

泥に足を取られ、派手に突っ込む。


「うわっ、服が……!」

隣が慌てて手を伸ばし、二人まとめて泥の中。


――威勢は派手でも、泥に沈めば同じこと。


もみ合ううちに剣が抜け、仲間の脚をざっくり裂いた。

「血が……!!」


――刃は主を選ばない。濡れればなおさら。


「なにやってんだよ、間抜けども!」

もうひとりの取り巻きが叫びながら駆け寄る。

さらに屋台が傾き、木箱が崩れて葡萄酒が弾け、帳簿が舞った。


「……な、なんでこんなところに……!」

濡れた紙には名家の印が浮かび上がっていた。

顔色が一瞬で蒼白になり、彼は帳簿を抱えたまま後ずさった。


――インクは正直者だ。





「見ろ、取り巻き様が泥んこだ!」

「ざまあみろ!」

「だっせぇなぁ、これがお貴族様かよ」


群衆の笑いが広がり、子どもまで指を差し、嘲笑は渦を巻いた。


――笑いは雨に溶け、やがて泥に沈むだけだ。





そのとき、王子が愛馬に跨り姿を現した。


「恐れるな! 我が導く!」


だが雨に濡れた石畳で蹄は滑り、馬は暴走、

轟音と共に馬車へ突っ込み、傍らにいた隣国の大使を轢き倒す。

血と悲鳴が広場を裂き、笑いは一瞬で凍りついた。


「わ、私は悪くない! 馬が勝手に――」

王子の声は震えたが、群衆はもう石を手放していた。

兵士たちが駆け寄り、王子はその場で捕えられた。



――馬も蹄も濡れる。知らぬふりこそ、君の罪。





雨は止まない。


石畳の上では、滑稽と罪と泥水が絡まりあい、

やがて大きな渦となって国全体を呑み込んでいった。







屋敷に戻るまで、僕は傘のように彼女の肩を覆った。

扉を開けた父は、何もきかず、ただ頷いた。

母は使用人から外套を受け取り、静かに彼女の肩へ掛けた。


「――出ましょう」

「ええ。国境の橋はまだ乾いているうちに」



馬車の御者台に年老いた執事が乗り込み、扉が閉じられる。

僕は車輪の軸に少しだけまとわりつき、泥の抵抗をほどいてやった。


――君の未来を重くするものは、すべて僕が溶かそう。


彼女は一度も振り返らない。

窓の外では、雲間からこぼれた陽が石畳の水たまりに映り、

二つの太陽が、ゆらりと重なって揺れた。


「涙は一滴も置いていかない。未来はすべて、私が連れていく」


「……神さまは、雨にも目を向けてくださるかしら」


その声はかすかだったが、凛として澄んでいた。

誰にも届かぬようでいて、確かに空に届いた。




新しい国の空を、彼女はまだ知らない。

けれど、前へ進む馬車は、もう雨を欲していなかった。







濡れた帳簿は街から街へと広がり、やがて王宮にまで届いた。

そこに記された名前のひとつ――宰相の印が、誰の目にも明らかに浮かび上がっていた。


「……!? いや、これは偽りだ、罠だ!」

老いた宰相は声を張り上げたが、誰も耳を貸さなかった。


彼は湿った地下牢に押し込まれ、冷たい藁に崩れ落ちた。

染み込んだ水は足元の泥と混ざり、腐った臭いを立ちのぼらせる。



――高い椅子ほど、濡れると滑る。

――けれど、僕は責めない。ただ降っただけだ。


やがて宰相の虚ろな目は誰にも閉じられぬまま濁り、冷たい石に吸い込まれるように沈黙した。






王宮の回廊に雨が吹き込み、侍女の手から束ねられた文が滑り落ちた。

封蝋は二重押し――王妃の印に、別家の紋章。


「そ、そんな……これは違うのです!」

王妃は必死に叫んだが、群臣の前で冠を剥がされ、白い髪が床に散らばった。


赤い絨毯に転がった冠は、雨を吸って鈍く濁った光を放つ。

玉座の影に立つ王でさえ、視線を逸らし、何ひとつ言葉をかけなかった。




ざわめく視線が一斉に彼女を貫き、かつて愛を飾った微笑みは、ただ凍りついてゆく。


――金でも愛でも、濡れればすべて流れる。

――残るのは、君が選んだ裏切りの証だけ。


王妃はその場に座り込み、誰ひとり寄り添わぬ中で、声なき嘆きを抱えたまま凍りついた。





王の蔵には、まだ民の糧が積まれているはずだった。

だが倉庫の木箱は湿気にやられ、穀物は白い黴に覆われ、指でつまめば崩れて粉になった。


飢えた民は麦粒を奪い合い、母は子に与えるために自らの腹を空にした。

疫病に侵された者は路地に横たわり、誰も近づかず、ただ雨に濡れて息を絶っていった。




やがて王宮の門前に群衆が集まり、槍も旗も持たず、骨ばった手で扉を叩いた。

その音は雷鳴よりも重く、城を震わせた。


「咳が止まらん……血が混じる……」

「妻は……もう動かない子を抱いてるんだ……」

「殺せ……生かすなら食わせろ……!」


だが日が経つにつれ、叩く音は少しずつ減っていった。

王都は疫病に倒れ、飢えに屈し、ひとり、またひとりと姿を消してゆく。

やがて群衆の数は確かにそこにあるのに、声はなく、沈黙だけが広場を覆った。




その静けさは、怒号よりも鋭く王の胸を貫いた。


「叫べ! 罵れ! なぜ黙るのだ……!」


王は震える声をあげたが、返事をする民はもういなかった。

ただ雨が玉座の赤絨毯を染め、彼の威光を洗い流した。


――冠は濡れれば、ただの錆びた輪。

――それでも、君の選んだ道なら、僕は止めない。


やがて王の名は歴史の頁から消え、墓石さえ残らなかった。







大使轢殺の報せは瞬く間に広がり、同盟国の怒りを買った。

使節は次々と帰国し、友好の旗は引き裂かれ、同盟は連鎖的に崩れていく。


「未熟な王子」

――そう嘲られ、王国は孤立し、最後には王子の身柄が差し出された。

かつて宴を共にした貴族も、取引を重ねた商人も、誰ひとりとして味方しなかった。


鎖に繋がれ、遠国の石畳を引きずられる。

その先に待つのは民衆ではなく、異国の裁きだった。



「大使を殺したのは馬だ! 私は悪くない!」

必死の言葉は、誰の胸にも届かない。


――馬も蹄も濡れる。言い訳もまた濡れて、形を失う。


群衆の視線は冷たく、やがて異国の言葉が一斉に響いた。

「大使の血を返せ!」

「償いを示せ!」


その声は雨音と混ざり合い、抗う余地を奪った。


処刑台の上でも彼は叫んだ。

「すべては民のためだった!」

だがその声は雨にかき消され、群衆の瞳に映ったのは憐れみではなく憎悪だけだった。




黒衣をまとった大使の妻の、濡れた面紗の下で震える声が続いた。

「夫を奪ったその首を……ここで落とせ!」



首が落ちる鈍い音と共に、群衆は沈黙した。



――君は最後まで仮面を外さなかった。

――それもまた、ひとつの王子の姿だったのだろう。


切り落とされた王子の首は雨に濡れ、石畳に黒い筋を刻み、瞳に空を映したまま沈黙した。





聖女の奇跡と称された術は、薬草の粉と金銭で成り立っていた。

だが雨は粉を溶かし、帳簿の裏金をにじませた。


「ちがう、これは神の御業、わたしは選ばれし者……!」

必死の叫びは群衆に届かない。


「なぜ王都を救わなかった!」

「我らの親を、子を、雨に晒して見殺しにした!」

「奇跡を謳いながら、一つも救えぬ偽り者!」

「偽聖女を討て!」



声が広場を覆い、石が雨のように降り注いだ。


額に鈍い衝撃、頬骨の砕ける音。

歯が散り、血が雨に混じって泥を赤く染める。

肩に石がめり込み、腕が折れてだらりと垂れた。


「神が……わたしを……!」

声は血に濡れ、泥に吸い込まれていく。


群衆は憎悪に駆られ、次々と石を投げ続けた。

彼らの顔は涙でも笑みでもなく、ただ空虚な狂気に支配されていた。




白衣は次第に赤黒い染みに覆われ、やがて地に沈んだ。



石畳を叩く雨と石の音が溶け合い、広場はひとつの巨大な鼓動のように震えていた。

叫びは潰えたはずなのに、なお「偽りを討て」という声が残響のように木霊した。

誰も止めようとはせず、石を投げる手だけが延々と動き続けていた。

その熱はもはや信仰ではなく、ただ破壊のための祈りに変わっていた。


――病は雨と同じく、ただ等しく降りかかる。

――けれど、人は名を与え、責を押しつけ、物語にしてしまう。

――けれど僕は咎めない。君が選んだのはその道だから。


切り刻まれた白布が石畳に貼り付き、最後に残ったのは「聖女」という名への呪詛だけだった。





時を経ても、雨は石を削り続けた。

王国の象徴だった塔は、ついに崩れ落ち、轟音を残して瓦礫と化した。

神殿の石碑は割れ、残った文字は呪詛のように読まれた。

墓地は水に浸かり、屍臭が漂い、人々はそれを「夕立の呪い」と呼んだ。


――僕は呪いではない。ただ降っただけ。

――けれど人は名を与え、物語を紡ぐ。



後の歴史書にはこう記される。


宰相は収賄の罪で幽閉され、孤独に死した。

王妃は密通の証を暴かれ、冠を剥奪された。

王は飢饉と疫病に抗えず、玉座を追われた。

王子は失策と外交の破綻により異国で処刑された。

聖女は奇跡の虚偽を暴かれ、石打ちにされた。

塔は折れ、石碑は呪詛を刻み、墓地は水に沈んだ。




――かくして、この国は一度の夕立により歴史から消えた。









静かな雨の中で、僕は空へ還ろうとしていた。


――僕はただ、ひとりの涙を拭っただけだ。




雨粒はただ落ちる。けれど、落ちる先を選ぶこともある。

偶然と呼ばれるものの中に、どれほどの意図が隠れているのか――誰も問わない。



やがて空に溶け、僕の姿は消えた。

けれど人は語る。夕立が国を滅ぼした、と。



――僕はただの夕立。

――それでも、君の涙を隠せたのなら――それで十分だ。

――ざまぁは人間が勝手にやる。







---


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


「悪役令嬢断罪」の場に降ったのは、ただの夕立。

けれど涙を隠すために降ったはずの雨は、

取り巻きも、王族も、聖女も、

すべてを洗い流し、国ごと歴史から消してしまいました。


夕立は何もしていません。

ただ降っただけ。

けれど人はそれを「呪い」と呼び、「神話」として残すのです。


本作は【台風転生】【万博転生】と同じ〈ソコニアルモノ転生神話シリーズ〉の一編です。

シリーズはまだ続きます。

次はどんな「在るもの」が異世界に降り立ち、

どんな神話に仕立て上げられるのか。


夕立の物語、評価、ブクマ一滴いただけると励みになります


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【夕立転生】夕立が異世界転移した結果 〜悪役令嬢の涙を隠しただけなのに、歴史書には『王国を滅ぼした雨』と書かれていました〜 ずみ @zumyX

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ