海鳴りの果て
をはち
海鳴りの果て
夏目枕流、32歳。
売れない作家として、実家の古びた家に身を寄せる日々を送っていた。
金がないから実家暮らしを選んだわけだが、それだけではない。
窓の向こうに広がる海の風景――青く果てしない水平線と、
静かに寄せるさざ波の音――が、俺の創作に欠かせないインスピレーションを与えてくれるのだ。
実家は海岸沿いにあり、細い道とガードレールを隔てた先は、すぐ海。
目を開ければ青が視界を埋め尽くし、目を閉じれば波の囁きが耳を撫でる。
ここで生まれた物語は数えきれず、どの作品にも海の息吹が宿っていた。
だが、今日、俺の創作は一匹の小さな黒い羽アリによって妨げられていた。
そいつは俺の鼻先を飛び回り、くすぐるように羽音を立て、
挙句の果てには呼吸と共に口に飛び込み、肺の入り口まで侵入してきた。
咳き込んで吐き出した時には、命の危機すら感じた。
そいつはまるで俺を嘲笑うかのように、机の上でうろうろと歩き回る。
黒い体は小さく、しかしその存在感は異様に大きく、俺の神経を逆撫でしていた。
苛立ちと、さっきの恨みが重なり、俺はそいつを仕留めることにした。
目には目を、だ。
机の上で無防備に這う羽アリに向け、定規を振り下ろした。
鈍い音と共に、そいつの体は腹部だけを残して千切れ、残骸は机の奥、雑多な物の隙間に滑り込んだ。
「これで終わりだ」と呟き、俺は一息ついた。
紅茶を淹れ、菓子を口に放り込み、くつろぎの時間を楽しもうと耳かきを手に取った。
耳にそっと差し込み、心地よい刺激に身を委ねる。
その瞬間、異変が起きた。
耳の奥で、ごそごそと何かが動く音がした。
微かだが、確かな蠢き。
ぞっとする感覚が背筋を這い上がる。
耳かきを放り出し、耳を押さえたが、音は止まらない。
まるで何かが奥へ奥へと進んでいるかのようだ。
アイツだ!――俺の頭に、あの惨めに千切れた姿が浮かぶ。
強い光を求めて虫が這う習性を、俺は知っている。
だが、この部屋にそんな光源はない。
窓の外を見やると、眩い太陽が海面を照らし、青と金の世界が広がっていた。
突然、耳の奥に鋭い痛みが走った。
それはまるで、侵入者が禁忌の領域に踏み込んだかのような、深い、刺すような痛みだった。
心臓が跳ね上がり、恐怖が全身を支配する。
俺は咄嗟に階段を駆け下り、玄関の扉を勢いよく開けた。
海が目の前に広がり、太陽の光が網膜を焼きつける。
外に、光に、逃げれば――。
だが、俺は忘れていた。
家の前は細い道。
ガードレールを越えれば海だが、その手前には車が通る現実があることを。
玄関から数歩飛び出した瞬間、けたたましいクラクションが耳を劈き、
トラックの巨体が俺を弾き飛ばした。
体が宙を舞い、ガードレールに叩きつけられる。
鈍い衝撃音。
世界が一瞬、静寂に包まれた。
気がつけば、俺の体は半分になっていた。
腰から下はガードレールを越え、海岸の岩場に落ち、波に攫われようとしている。
上半身だけが、アスファルトの上に転がっていた。
感覚が、ない。
痛みすら遠のいていく。
血の匂いと海の塩気が混じる中、視界がぼやける。
その時、耳の奥から再びあの音がした。
ごそごそ。蠢く感触。
そして、這い出てきたもの――あの羽アリだ。
だが、そいつもまた、俺と同じだった。
腹部を失って、上半身だけで這う、黒く小さな虫けら。
そいつは俺の鼻先にちょこんと止まり、じっとこちらを見つめた。
その小さな瞳には、まるで嘲笑のような光が宿っている。
海のさざ波が、遠くで響く。
俺の意識は、青い水平線の彼方へと溶けていく。
羽アリはなおも俺の顔を這い、まるで最後の物語を紡ぐかのように、ゆっくりと動き続けた。
海鳴りの果て をはち @kaginoo8
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