第2話

 香の匂いが、意識の底にまとわりつくようだった。


 重たいまぶたを持ち上げると、見知らぬ天井が視界に入った。

 深紅の布地。刺繍のきらめき。重厚な梁。そして、光を遮る赤いカーテン。


 ここが森のどこでもないことは、即座に理解できた。


「……っ!」


 跳ね起きようとして、首筋から肩にかけて走る鈍痛に息を詰めた。

 視線を落とすと、自分が着ていたはずの銀の鎧も、戦闘服も、どこにもなかった。


 代わりに身に纏っているのは――肌を滑るような、柔らかな白のドレス。


「……なんで……っ」


 その時だった。


 ――カツ、カツ、カツ。


 ドアの外から、ヒールの音。

 反射的に構えようとしたが、矢も弓も手元にない。


 ドアがゆっくりと開き、そこから現れたのは――


 一人の美しい女。


 それだけではない。その背後に、また一人。そしてもう一人。

 次々に部屋へと入ってくる女たちは、誰もが見目麗しく、滑らかな肌と完璧な体躯をしていた。


 だが――全員が、赤い瞳をしていた。


 その目に映るのは、好意ではない。

 獲物を見る目でもない。

 むしろ、既に同族として歓迎する目だった。


「……吸血鬼……」


 唇から漏れた言葉に、女たちはふわりと笑う。

 まるで噂話を聞いたかのように、ひそひそと、甘い声が部屋に満ちる。


「ようやくお目覚め」

「ずっと見ていたのよ、あなたのこと」

「あなたも、私たちのように美しくなるわ」


「冗談じゃない……私は――っ」


 そこへ、さらなる気配。


 ゆっくりと扉が再び開かれ、今度は男の足音が響いた。


 ――吸血鬼。


 その男は、女たちが一斉に頭を垂れるほどの存在感を持っていた。

 長い黒髪を後ろに流し、真紅の上着を身に纏った彼は、まるで王のように堂々としていた。


「目覚めたか、マーリン。森の守護兵よ」


「……なぜ、名前を……?」


「調べるまでもない。君のような強き魂は、世界にいくつもない。私はずっと、君を欲していたのだよ」


 その声には、威圧も怒気もない。

 ただ、温かく――まるで、ずっと以前からの恋人に語りかけるような甘さがあった。


「私が欲しい? ふざけないで……」


「ふざけてなどいない。君は誇り高く、強く、そして……まだ“美しい”ままだ」


 吸血鬼の男はマーリンに近づき、その顔を覗き込む。


 その瞳に――狂気ではなく、称賛が宿っていることに、マーリンは一瞬言葉を失った。


「だが……変わっていく。これからゆっくりと。

 身体が、心が、君自身すら気づかぬうちに、君は君でなくなっていく。

 それを見届けるのが、私の愉しみなのだ」


「っ……!」


 マーリンはその言葉に怒りを覚えるが、同時に――

 自分の鼓動が早くなっていることに気づく。


 胸が熱い。喉が渇く。

 誰かの肌の香りに、鼻が敏感に反応している。


 まさか、こんな……もう、そんなはずはない。


 だが、男はただ優しく微笑み、少女の耳元で囁くように言った。


「焦らなくていい。君は、すでに“始まって”いるのだから――」

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