そのエルフは吸血鬼の眷属になる

夜道に桜

第1話

 深い森に、異変が訪れたのは、晩夏の夜だった。


 空を覆う黒雲は、星のひとつも見せようとせず、月明かりすら遮っていた。

 鳥も虫も鳴かず、空気は湿り、まるで森全体が息を殺しているかのようだった。


「……妙ね。妙すぎる」


 銀色の髪を風に揺らしながら、マーリンは森の見張り台から遠くを睨んだ。

 彼女の名はマーリン。エルフの里を守る守護兵にして、剣よりも弓よりも強く、そして誇り高き存在だった。


 森の異変を最初に察知したのも彼女だった。


「火の気配……いや、これは……」


 空に漂う微かな匂い。それは湿った土と木の香ではなく、――血の匂いだった。


 矢筒を背負い直し、すぐに森の哨戒部隊に伝令を飛ばす。


「第三区域、確認に向かう。私一人で十分だ。ほかは村の警戒を強化して!」


「しかしマーリン様、それは――!」


「……命令よ」


 鋭い視線と声に、部下たちは押し黙った。

 守護兵は決して撤かない。誰よりも先に危険を察知し、誰よりも先に剣を抜く。それが彼女の誇りだった。


 


***


 


 第三区域――村からもっとも離れた外縁部。

 そこに近づくにつれ、空気は冷え、森の木々が不自然に黒ずんでいるように見えた。


 そして――視界の先に、炎が揺れていた。


 地面に広がる焦げ跡。倒れた見張り塔。辺り一帯には血の匂いが濃く漂っていた。

 仲間たちの姿はなく、代わりにそこに立っていたのは、一人の女だった。


 ――黒衣を纏い、長い黒銀の髪を背に流す、美しき女。


 夜の闇の中にあっても、その姿は妖しく輝いていた。

 赤い瞳が、こちらを見つめている。まるで、“待っていた”とでも言うかのように。


「……お前か。ここで何をした?」


 マーリンが弓を構えると、女はゆっくりと微笑んだ。

 口を開きはしなかった。ただ、唇の端を上げ、ふわりとした仕草で手をこちらに向ける。


 指先が――まるで『来なさい』と誘うように、動いた。


 言葉はなかった。それが、逆に不気味だった。


「……よし。ならば、お前が何者か、ここで明かさせてもらう!」


 矢を一本引き抜き、銀の矢じりに魔法陣を刻む。

 聖銀製の矢――対不死種用。通常の吸血鬼程度ならこれ一本で粉砕できる。


 放つ。矢は風を裂いて女へと一直線に――


 だが、女は微動だにしなかった。

 矢が届く寸前、彼女の背後から闇が噴き上がる。


 漆黒の翼のようなものが女の背から現れ、矢を包み込み――そして飲み込んだ。


「……っ!? 今のが、通らない……?」


 次の瞬間、女が一歩、こちらに踏み込む。


 速い。


 マーリンの目が追いつくより先に、距離は半分以下に縮まっていた。

 女の動きは音もなく、だが確実にこちらを狙っていた。


 間合いを取るために跳び下がった瞬間、足元の地面が裂ける。

 黒い瘴気のような魔法が地面から噴き出し、足を取られる。


「くっ、こんな……!」


 体勢を崩したところへ、女の爪が迫る。

 防御する間もなく、左肩の外套が裂かれ、肌を掠る感触と共に鋭い痛みが走る。


 だが、それよりも――


 冷たいものが血管に流れ込んだような感覚に、ゾッとする。


 毒。いや、魔力。これは吸血鬼の瘴気だ。


「……っ!」


 息が苦しくなる。視界が滲む。

 これは、まずい。


「ま、だ……!」


 最後の気力で矢をつがえる。しかし、女はもう目の前にいた。


 紅い瞳が、夜よりも深く、強く、輝いていた。


 そして――笑った。


 声も言葉もなかった。ただ、その笑みだけが、妙にやさしく、そして何より、気味が悪かった。


「っ――!」


 その笑みが焼きついたまま、マーリンの意識は暗転した。


 


***


 


 目を覚ましたとき、マーリンは知らない天井を見ていた。


 だが――ここが「安全な場所ではない」ということは、

 鼻をくすぐる甘ったるい香と、何人もの気配が漂う空気が、すぐに理解させた。


 視線を動かす。

 そこにいたのは、美しい女たち。

 ――人ならざる、妖艶な微笑を浮かべる“何か”たちだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る