SCENE#94 物言う株主
魚住 陸
物言う株主
第1章:嵐の予兆
東京のきらびやかな高層ビル群の中、佐々木財閥の本社には、重苦しい空気が淀んでいた。戦後日本の経済を牽引してきたこの老舗企業も、近年は業績不振にあえいでいた。社長の佐々木健吾は、重役たちが座る円卓を見回し、固く唇を結んでいた。胃のあたりが、ずしりと重い。その手には、若い頃、親友から贈られた古い真鍮製のペーパーナイフが、無意識のうちに握りしめられていた。
その日、取締役会に一人の男が現れた。彼の名は、黒岩亮。ヘッジファンド「イージス・キャピタル」を率いる、悪名高き物言う株主だ。黒岩は、佐々木財閥の大株主となり、経営改革を要求してきた。その内容は、会社の伝統的な事業を次々と売却し、新興IT企業への投資を強化するという、まさに解体とも言えるものだった。
「佐々木社長、貴社の伝統は素晴らしい。しかし、それは、もう過去の栄光に過ぎない。現実を見てください。このままでは、佐々木財閥は時代に取り残され、沈没する!」
黒岩の声は、冷たく、そしてどこか陶酔しているように響いた。彼の首元には、小さな銀色の羅針盤のペンダントが光っていた。
「株主は結果を求めている。それが資本主義の唯一の倫理だ…」
健吾は、怒りを押し殺しながら反論した。
「黒岩氏、我が社には長年に渡り、培ってきた歴史と、社員たちの生活がある。あなたの言うような抜本的な改革は、あまりにも急進的すぎるんじゃないんですか!私には社員を路頭に迷わせるような真似はできない!」
しかし、黒岩は揺るがない。
「感傷は不要です。市場は待ってくれません。あるいは、貴方の個人的な過去が、そうさせたがっているのでしょうか?」
彼の眼差しは、健吾の心の最も深い闇、封じ込めていたはずの記憶を暴くかのように、不気味なほど鋭かった。健吾は思わず身を固くした。その瞬間、彼の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックした。
その夜、健吾は自宅で深酒をしていた。リビングのソファに深く沈み込み、グラスを傾ける手が震えている。妻の美佐子が心配そうに彼の肩に手を置いた。
「健吾さん、大丈夫?顔色が悪いわ。今日の取締役会、よっぽど大変だったのね…」
健吾は、力なく首を横に振った。
「大丈夫なわけがない…あの男、まるで悪魔だ。俺の全てを、この会社の全てを、喰い尽くそうとしている…まるで、俺のすべてを知っているかのようだ…」
彼は、黒岩の影に怯えている自分に気づいた。それは単なるビジネス上の脅威ではなかった。それは、彼の過去の罪が、今、具現化したかのような、抗いがたい恐怖だった。
第2章:忍び寄る影
その後、黒岩の提案は、株主総会で可決された。佐々木財閥の伝統的な部門は次々と売却され、長年会社を支えてきた社員たちは解雇され路頭に迷った。健吾は、無力感に苛まれながらも、残された社員たちのために奔走した。しかし、彼の心には常に黒岩の影が付きまとっていた。
黒岩の圧力はそれだけではなかった。彼の周到な調査により、健吾の過去の些細な不祥事や、家族の個人的な情報までが次々と暴露されていく。それは単なる経営戦略ではない、明らかに個人的な攻撃だった。
ある日の午後、健吾のスマホに見知らぬ番号からメッセージが届いた。開くと、そこには学生時代の投資サークルでのある詐欺事件に関する詳細な記述があった。すでに時効となったはずの、心の奥底に封じ込めていた出来事だ。健吾は、その内容に凍りついた。
「まさか…なぜ、このことを…。あの時のことは、もう誰も知らないはずだったのに…」
夜、美佐子が健吾の異変に気づいた。健吾は、夜中にうなされるようになり、電話が鳴るたびにビクッと体を震わせる。食欲も落ちていき、目の下には深い隈ができていた。
「健吾さん、やっぱり、変よ…どうしたの?何かに怯えているみたい…」
美佐子が尋ねると、健吾はぎこちなく笑った。
「なんでもないさ…仕事のストレスだよ。ただ…黒岩が…」
彼はそれ以上、何も言わなかった。美佐子は夫の視線が、時折、書斎の戸棚にしまわれた、あの真鍮製のペーパーナイフに向けられていることに気づいた。
しかし、美佐子はその言葉を信じなかった。ある夜、健吾が寝静まった後、美佐子は彼の書斎に入った。机の上には、黒岩の会社の資料が広げられていた。その中に、一枚の写真が挟まれていた。若き日の健吾と、その隣で笑う、見覚えのない男。
そして、その男の顔には、まるで偶然のように黒いインクがはねていた。美佐子は写真を手に取り、眉をひそめた。「この人、誰かしら…?どうしてこんな古い写真が、黒岩さんの資料に…」彼女の胸に、拭いきれない不安が広がった。
第3章:過去からの声
翌日、美佐子は、勝手に書斎に入ったことを詫びつつ、写真の男について健吾に尋ねた。
「机にあった写真の男性、誰?あなた、知らない人?」
健吾は動揺を隠せない様子で、言葉を詰まらせた。
「…いや、もう、ずいぶん昔の人間だよ。もう会うこともない。気にするな…」
彼の目が泳いでいるのを、美佐子は見逃さなかった。彼の額には、冷や汗が滲んでいた。美佐子は健吾の態度に不審を抱き、独自に調査を始めた。彼女は健吾の大学時代の友人たちに接触した。彼らは皆、黒岩の動向に注目しており、口を揃えて「あの男は、佐々木財閥を個人的な恨みで狙っている…」と語った。
友人の一人、田中がためらいがちに言った。
「黒岩…そう、アイツの双子の兄さんだ。隆(たかし)って言うんだ。健吾と同じ経済学部で、投資サークルに入ってた。あの頃、健吾と隆は…親友だったんだ。あのペーパーナイフも、隆が健吾に贈ったものだ…」
田中の言葉に、美佐子は驚きを隠せなかった。ペーパーナイフは、健吾が最も大切にしているものだった。美佐子の調査が進むにつれ、ある衝撃的な事実が明らかになった。黒岩亮には、黒岩隆という双子の兄がいたこと。そして、その隆が、健吾と同じ経済学部に所属しており、例の投資詐欺事件で多額の借金を背負い、精神的に追い詰められて命を落としていたこと。
美佐子は震える声で、健吾が隠し続けてきた真実を突きつけた。
「健吾さん、答えて!黒岩亮は、隆さんの弟なのね?そして、隆さんが死んだのは、あなたが関わった詐欺事件のせいでしょう!?なぜ隠していたの!?」
美佐子は震えていた。彼女の心には、健吾への失望だけでなく、夫の罪に気づきながらも深く追求しなかった、自身の「共犯」意識が芽生え始めていた。
その瞬間、健吾は顔を覆い、膝から崩れ落ちた。嗚咽が漏れた。
「…そうだ。隆は、俺が勧めた投資話に騙されて、すべてを失ったんだ。あの投資話は、俺が発起人で、隆にまで無理に勧めて…隆は、全てを失って、あの時…あの時、俺は、隆の目の前で、彼を見捨てたんだ…」
健吾の声は、過去の罪悪感に打ちひしがれていた。
「隆は、俺を糾弾したよ。裏切り者だと。そして…そして、あいつは俺の目の前で…屋上から身を投げたんだ…!俺は、ただ…見ていることしかできなかった…!」
健吾の脳裏には、隆の最後の叫びと、落下していく姿が鮮明に蘇っていた。彼は、その光景を何十年も、悪夢の中で見続けてきた。そして、保身のために、隆との関係も、あの詐欺事件での自分の立ち位置も、すべて隠蔽したのだった。
第4章:暴かれる真実
健吾の告白を聞いた美佐子は、黒岩亮の真の目的を悟った。彼は、兄の死の真相を探り、健吾に復讐するために、物言う株主として佐々木財閥に近づいたのだ。美佐子は、健吾が過去のトラウマに囚われていることを理解し、彼を支えようと決意した。しかし、同時に、夫の隠していた罪の大きさに、美佐子自身も動揺を隠せないでいた。彼女の心には、健吾への同情と、拭いきれない嫌悪感が混在していた。
「もう一人で抱え込まないで。たとえどんな罪を犯していても、私が…私が支えるわ…」
美佐子は、震える手で健吾の手を握りしめた。しかし、彼女の心はすでに、黒い靄に覆われ始めていた。
その頃、黒岩の罠は、さらに深く仕掛けられていた。彼は、会社の不正を告発する匿名メールをマスコミ各社にリークした。それは、佐々木財閥の役員たちの個人的な不祥事や、過去の脱税疑惑など、これまで表に出てこなかった情報まで含まれていた。世間は、佐々木財閥に対する不信感を募らせ、株価は暴落。世間からの信頼も失墜し、健吾は最終的には辞任に追い込まれた。
すべては、黒岩の計画通りだった。彼の情報網は、想像を絶するものだった。黒岩は、兄の死後、隆の残した日記や手記を読み漁り、健吾への復讐を誓った。そして、そのために独学で金融を学び、ヘッジファンドを立ち上げ、何年もかけて健吾を追い詰める力を手に入れたのだ。彼の復讐への執念は、常軌を逸していた。
失意のどん底にいる健吾の元に、黒岩が現れた。佐々木家の広い応接室に、黒岩の冷たい声が響く。まるで、彼の勝利を告げる凱歌のように。
「佐々木社長、あなたはすべてを失ってしまいましたね。会社も、名誉も、そして信頼も。これが、あなたの罪の代償です。私の兄が味わった苦しみに比べれば、まだ生温いものですがね…」
黒岩の羅針盤のペンダントが、胸元で冷たく光る。健吾は顔を上げ、黒岩を睨みつけたが、その目には絶望の色が濃く滲んでいた。
「…お前は、このために、俺の全てを奪ったのか?隆が、こんな復讐を望むとでも思っているのか!?」
黒岩は、健吾の絶望を楽しむかのように、冷笑した。
「ええ。兄は復讐を望んでいたんだ…兄の無念を晴らすためなら、どんな手段も厭わない。隆が望むかだと?兄は、あの投資詐欺で人生を奪われたんですよ。兄は、この結果を喜んでますよ。私は、あなたが真実を隠し、兄を裏切った瞬間から、あなたにこの場所を用意していたんですから…」
美佐子は夫を庇うように黒岩の前に立ちはだかった。
「やめてください!もう、これ以上、何を望むの!?あなたも、同じ苦しみを繰り返しているだけよ!こんな復讐に、何の価値があるというの!?」
美佐子の言葉は、黒岩には届かない。彼女の懇願は、虚しく空気に吸い込まれていった。黒岩の眼差しは冷酷なままだ。彼は、まるで獲物を追い詰めた捕食者のように、満足げに微笑んでいた。
「本当は兄が何を望むかなど、今となってはどうでもいいことです。これは、私の、私自身の復讐だ。そして、資本主義のルールの中で、私はあなたの全てを合法的に奪ったに過ぎない。あなたが、兄から全てを奪ったように…」
第5章:奈落の底
美佐子は、彼の憎悪の根源、そしてこの復讐の連鎖を終わらせる方法を必死で探していた。だが、その声は、震えが止まらなかった。
「なぜ、そこまで憎むの?もう、十分に罰を受けたはずよ!この憎しみが、あなた自身を壊していることに気づかないの!?復讐なんて、何も生まないわ…私たちも、あなたも!これが真実なのよ!」
黒岩は、美佐子の言葉に耳を貸さず、ただ冷笑するだけだった。
「真実?真実など、この世には存在しませんよ。あるのは、私にとっての『正義』だけだ。そして、あなたの夫は、その正義の前にひざまずいた。彼自身の選択によってね。彼は、兄を見捨てた。その報いを受けるのは当然のことでしょう…」
黒岩は、美佐子に一枚の写真を見せた。それは、健吾と隆が並んで写っている大学時代の写真。しかし、健吾の顔は黒く塗り潰され、その上に赤い文字で「裏切り者」と書き殴られていた。美佐子の問いかけにも、黒岩は何も答えなかった。彼にとって、健吾の破滅こそが唯一の目的であり、その先に何もない空虚な復讐心だけが残っていた。彼の目は、決して満たされることのない深淵を覗き込んでいた。
佐々木財閥は、黒岩の手によって完全に解体された。長年の歴史と伝統は踏みにじられ、残っていた社員たちも散り散りになった。健吾は、すべてを失い、精神的に崩壊していった。彼は、日々幻覚や幻聴に悩まされ、やがて美佐子の声も認識できなくなった。
「…美佐子?…隆…なのか?お前も、俺を許さないのか…?」
健吾は、虚ろな目で宙を見つめ、意味不明な言葉を呟いた。その手には、昔隆からもらった、今は色褪せた小さなテニスボールが握りしめられていた。その隣には、使われることのない真鍮製のペーパーナイフが転がっていた。
美佐子は、壊れていく夫を目の当たりにしながらも、何もすることができなかった。彼女の心にも、深い絶望の淵が広がっていく。夜中に黒岩の幻覚を見るようになり、美佐子自身も食事が喉を通らなくなっていた。鏡に映る自分の顔は、見る見るうちにやつれていった。彼女は、静かに健吾の震える手を握った。その手は、冷え切っていた。健吾の目から、一筋の涙が流れ落ちたが、彼はそれを拭うことすらできなかった。美佐子は、夫の罪を知り、それを隠蔽する側に回った自分自身にも、深く絶望していた。
黒岩は、目的を達成したにもかかわらず、満たされることはなかった。彼の心には、兄を失った深い悲しみと、復讐によって得られた空虚感だけが残っていた。彼は、東京の煌々とした夜景を見下ろしながら、静かに呟いた。その表情には、勝利の満足ではなく、底知れない飢えが宿っていた。彼の羅針盤のペンダントが、暗闇の中で微かに揺れる。その針は、まだ次なる標的を指し示しているようだった。
「…まだ、足りない。この世界には、罰せられるべき偽善者が、いくらでもいるんだ…佐々木健吾は、始まりに過ぎない。この悪徳に満ちた社会の、腐敗した構造を、私は決して許さない。次は…あの傲慢な政治家か…それとも、表では慈善家を装う、あの老いぼれた財界人か…私は、彼らの罪を暴き、すべてを奪い尽くす。この資本主義の闇の中で、俺は、真の『正義』を執行する存在となるのだから…ふふふ…」
そして、黒岩の影は、静かに、次の犠牲者を見つけるべく、闇の中に溶け込んでいった。彼の復讐は、決して終わることがない。それは、終わりのない闇の連鎖の始まりだった。東京の夜空の下、新たな悲劇の予兆が、静かに蠢き始めていた…
SCENE#94 物言う株主 魚住 陸 @mako1122
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