第27話

討論会から数日。

大学のあちこちで「医療哲学」という言葉が囁かれるようになっていた。


「おい、この前の討論で出てきたやつ、聞いたか? 医療哲学って……」

「机上の空論かと思ったけど、妙に引っかかるんだよな」

「教授まで興味を示していたし、これから研究テーマになるかもしれないぞ」


カフェテリア、講義室の片隅、図書館の廊下——。

神谷が直接関わらなくとも、あの討論は学生たちの心に火種を残していた。

それはもう彼の手を離れ、独り歩きを始めている。


神谷はそれを冷静に観察していた。


そんな折、研究棟の廊下で声をかけられる。

「神谷君、少し時間はあるか?」


声の主は——若先生だった。

まだ四十代の教授でありながら、学生からの信頼も厚く、討論会では司会役を務めた人物だ。


研究棟の一室。夕刻の光はすでに薄れ、ランプの明かりだけが二人の顔を照らしていた。

机の上には論文と資料の山。若先生はその中から一部をどけ、神谷に椅子を勧めた。


「……この前の討論会での君の発言。あれは単なる思いつきには思えなかった。“医療哲学”と口にしたとき、教室の空気が変わった。私も含め、誰も無関心ではいられなかった」


神谷は軽く会釈するにとどめた。その目には感謝よりも、次の問いを投げかける準備が光っていた。


「教授。ひとつお願いがあります」

神谷は落ち着いた声で切り出した。

「サヴァン症候群について、医学的にご説明いただけませんか」


若先生はわずかに目を細めた。

「サヴァン症候群か。ずいぶん難しい題材を選んだな」


それでも彼はゆっくりと口を開いた。

「臨床的には、自閉スペクトラム障害や脳の損傷と関連して現れることが多い。日常生活の多くの部分で困難を抱えながらも、特定の領域——たとえば音楽、絵画、暗算、記憶など——で驚異的な能力を発揮する」


神谷は黙って聞いていた。若先生は続ける。

「脳科学的にはいくつか仮説がある。まずは局在仮説。脳の一部の機能が失われたことで、他の領域が異常に活性化するというもの。

次に結合仮説。神経回路の結合様式が通常とは異なるため、情報処理の仕方が独特になるという説明。

あるいは代償的活性化。通常使われない経路が働き、特定の機能が強調される。

遺伝的要因も、発達段階の脳の可塑性も関与している可能性がある」


彼はそこで言葉を切り、苦い笑みを浮かべた。

「——だが、どれも仮説にすぎない。症例報告は豊富にあるのに、統一的な理論は存在しない。なぜそうなるのか、私たちにはまだ説明できないのが現状だ」


神谷はしばし沈黙した。そして、穏やかに言葉を返す。

「教授は優秀な脳神経外科医であり、脳科学にも精通していらっしゃいます。その先生が“分からない”と結論づけるのであれば、これは誰が考えても“分からない”と答えるしかないのだと思いますが、いかがでしょうか」


若先生は苦笑した。

「……そうかもしれないな。少なくとも現時点の医学ではな」


神谷は軽く頷き、声を落とした。

「だからこそ、私は哲学を持ち出したのです。医学が機構を説明できなくても、哲学は意味を与える。サヴァン症候群を“病気か障害か”と二分法で捉える必要はない。ただ“人間の多様性の一つ”と考えれば、すっきりと整理できる」


若先生は静かに目を閉じた。

「……なるほど。医学は原因を探す。だが哲学は意味を与える。そういうことか」


神谷は黙って頷いた。

やがて彼は一歩踏み込み、声をさらに低くする。


「——ここからは無責任な話をいたします。よろしいですか」


若先生は眉を上げた。「無責任?」


「はい。つまり、これから話すことを教授が外に漏らしても構いません。ただし、そのとき私は必ずこう言います。“そんな話をした覚えは一切ない”と」


若先生は腕を組んだまま、しばし神谷を見つめていた。その眼差しは挑発を見抜こうとするものではなく、むしろ知的な好奇心の輝きだった。

「……なるほど。つまり、これは機密保持契約の裏返しのようなものか」


神谷は口元をわずかに緩めた。


「分かった。聞こう」


神谷は机に軽く指先を置き、淡々と告げた。

「私はいま、人類最高の知が集まるこの医学部をも凌駕する知性を宿しています。……それは大きな代償を払ったからこそ得られたもの。詳細は語りません。ただ“得るためには必ず何かを失う”という交換原理に基づいている。それだけは確かです」


若先生は深く息をつき、神谷を見据えた。

「……信じるかどうかは、聞き手に委ねるというわけか」


神谷は静かに微笑んだ。

「はい。信じるも信じないも、教授の自由です」


研究室の空気は重くも澄み切っていた。

二人の間には、言葉以上の理解が確かに生まれていた。

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