第26話

議論は白熱を極め、すでに二時間近くが経っていた。

学生たちは次々と発言し、責任の所在について、法的・倫理的・組織的な観点から様々な意見を出し尽くした。


「患者にインフォームド・コンセントを徹底すれば、自己責任という形になるはずだ」

「でも現実には、同意していても訴訟になるじゃないですか」

「組織全体で責任を持てばいい。チーム医療なんだから」

「その場合、結局は病院経営の論理に押しつぶされるだけですよ」


やがて言葉は途切れ、場を包むのは疲労と重苦しい沈黙だった。

若い教授が時計を見て、打ち切ろうかと息を吸った瞬間、神谷が静かに口を開いた。


「……皆さんの議論は、それぞれ正しい。だが私は、一つの“欠落”を感じています」


視線が彼に集まる。

神谷は両手を組み、ゆっくりと語り始めた。


「これまでの医学は、臨床医学、生物学、薬理学……数え切れないほどの学問分野に支えられてきました。しかし、その根底にあるべき“哲学”については、十分に意識されてきたでしょうか」


ざわめきが広がる。

神谷は一呼吸置き、さらに言葉を重ねた。


「私は思うのです。いま我々が語っている“責任”という言葉こそ、医学に欠けていた哲学的視点の象徴ではないかと。臨床も、制度も、技術も、それぞれ大切だ。だが——責任をどう位置づけるかという問いは、それらを統合する思想を必要とする。つまり“医療哲学”という視座が不可欠だと」


教授たちが眉を動かし、学生の中から小さな驚きの声が漏れた。


「医療哲学……?」


神谷は頷く。

「哲学とは、無駄な抽象論ではありません。むしろ現場で最も必要とされる“道しるべ”です。患者にとっての最善とは何か。医師はどこまで責任を引き受けるべきか。AIや新しい技術とどう共存していくのか。——これらはすべて、科学だけでは答えられない問いです。だからこそ、哲学がいる」


一人の学生が小さく手を上げた。

「……でも哲学なんて、結局は机上の空論じゃないんですか? 現場では役に立たない」


神谷はその学生をまっすぐに見て、微かに笑んだ。

「その“机上の空論”と嘲笑されたものを、私は誰よりも味わってきました。だが考えてみてください。臨床現場で生じるジレンマの多くは、答えの出ない問いです。延命か、尊厳か。安全か、挑戦か。もしそこに哲学的な言語化がなければ、ただその場しのぎで判断し、後から後悔するだけでしょう」


沈黙が落ちる。

神谷は、さらに声を低めた。


「だから私は、いまこそ“医療哲学”を確立すべきだと考えます。それは現場に生きる医師たちの責任を軽くするためではない。むしろ、責任を言語化し、共有し、引き受けるためにこそ必要なのです」


ベテラン教授が深く息をついた。その目には否定ではなく、静かな共感が宿っていた。

「……なるほど。医療に哲学を、か。私は長く現場にいたが、その言葉は確かに新しい」


教室には再びざわめきが広がる。しかしそれは先ほどの混乱ではなく、新しい概念を咀嚼しようとする熱気だった。

「医療哲学」という言葉が、確かに皆の胸に刺さったのだ。


神谷は椅子に深く腰を下ろし、もう何も言わなかった。

——その一言が、やがて未来の医療を形作る始まりになることを、彼自身はまだ知らない。

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