ばばいよ

壱原 一

 

実家で良く観るホームビデオは、夕食後の夜の団欒中、当時新築の実家リビングの中庭へ出られるドアを前に、父に抱かれた幼児の私が泣き叫ぶものだ。


黒いアルミ枠で片開きでハンドル状のノブのドアは、上半分に屋内側のみ細かい凸凹でこぼこでぼかされた型ガラスがはまっている。


屋外側のドア脇の上部には玄関灯が点っていて、白くぼんやりした明かりが中庭の夜暗やあんを照らすのが型ガラス越しにうかがえる。


ビデオはシーリングライトが皓々こうこうひかるリビングの半ば、父と私から少し離れた横手の画角で撮られていて、其処に映る型ガラスに他に視認できる物はない。


私は父の首元にしがみ付き、肩を越えて床へ下りんと藻掻きつつ、忙しくドアへ振り返っては金切り声でわめいている。


ばばいよー


ばばいよー ばばいよ


ばばいー


目一杯ゆびを開いた片手を突っ張るようにドアへ伸ばし、上下左右に振り回して絶え間なく「ばばいよ」と繰り返す。


親に求められてそうすると、何時いつも傍に居た人と離れるので、そうすれば離れると思って力の限りを尽くしている。


渾身でばいばいしている。


父は可笑おかしくて堪らない顔で私が落ちぬよう抱き直し、自身の顔で安堵させるべくしきりに私を覗き込む。


じたばた暴れて声を張る私を猫撫で声で「うんうん」とあやし、型ガラスを見ては吹き出して小刻みに肩を揺らし、「うん。ばばいよー。ばばい、ばばいー」と笑みを含んだ相槌を打つ。


私で塞がる両手の代わりに上体を軽く左右に振って、私と一緒に「ばばいよ」を唱え、だんだん声を大きくする。


穏やかに落ち着いていた声が、徐々に硬直してとがりを帯び、私を覗き込むよりも型ガラスに集中し始める。


間も無く父の「ばばいよ」は声で殴ろうとする風な太く沈めて濁らせたいきどおりの怒鳴り声になる。


ばばいよー!


ばばいよ! ばばぁい!


ばばぁーーーーぁああい!!!!


息んだ体を浮き立たせ、目を剥いた獰猛な脅しの声が、私の泣き声を塗り潰し明るいリビングに反響する。


私は父に触発されて世の終わりの如く絶叫する。


びりびりと音が割れるほど声が荒れ狂う数秒後、父が機敏に身を引いて、「何だ手前この」と口早になじり、私を画面隅に僅かに映るキッズサークルの中へ下ろしてドアを叩き開け躍り出る。


夜暗に暗む中庭へじゃっじゃと駆ける音が遠ざかり、後には「わうわー、わうわー」と口の締まらない私がキッズサークルの柵にすがって父を求める泣き声が残る。


開け放たれたままのドアから眩しい光に引き寄せられて蛾などが入り込む様子が、警察の人が訪れるまで無情にも淡々と続く。


以来父は帰らない。


それで如何どうか忘れないであげてと今も私が実家へ帰るたび母がビデオを再生する。


母は当時新婚で婦人科の手術入院中に夫が子を残し蒸発した。その心中を慮って毎度おとなしく視聴する。


私は何せ幼さゆえ当時を全く覚えていない。


そう言う事にしているが、ビデオの画角と異なった正面から見る型ガラスに、私を抱く父の姿と同じ構成の立像が、ぼんやり照らし出されている様を今でも時おり幻視する。


父よりも細く小柄で、紺とベージュの立像が、大人しく静かな塊を重たげに庇って抱いている。


ぐっと胸を張って顎を引き、ひたと此方を見据えているのが型ガラス越しに窺える。


後年、口さがない親族から、如何いかにも気遣わしそうに聞かされた所によると、父は母が2度目の結婚で、そこまでに重大な不義があり前妻とかなり揉めたらしい。


実家へ来もしていたようで、母が参って手術となり、父はますますうとんじてピリピリ気を張っていたとか。


すると父はあの立像を、怯える私にかこつけて、「うんうん。怖いね。ばばいよ」と、憎しみを籠めてはやし立て、嘲笑あざわらったのではないだろうか。


新築の家に陣を取り、新しい我が子を見せ付けて、侮蔑していたのではなかろうか。


それに挫けず、萎縮もせず、図太く居座るから苛立ち、開けた途端すがたをくらましたのをらしめようと追って行った。


無理に得た病身の新妻も、泣き喚く幼い我が子も置いて、それよりもっと大事な方を、瞬時に選んで実行した。


そう言う事の様に思える。


母は外聞が悪いからビデオを余所へ見せないと言う。


入院中だった母へ私を見せようとしたのか。証拠を残そうと企てて画角を見誤ったのか。


当時母は居なかったので、父が撮ったに違いないが、一体このホームビデオが誰に何を示しているのか、考えると少し不安になる。



終.

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ばばいよ 壱原 一 @Hajime1HARA

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