第4話 僕の住む桜城の町の彷徨える魂たち



 秋がもうそこまで来ている。

 木々たちが、いまはかすかとなった緑葉りょくばの匂いをすずやかな風に乗せ、夏の名残なごりにそれを教えてくれる。

 抱き合ったまま離れられずにいる僕と小夜さや姫のふたりを、風はやさしくぜて行く。

 あおい月の光に映し出された姫の顔は雪より白く、目には涙をたたえ僕を見つめている。

「姫、さびしかったでしょう? どれくらいの時を此処ここで、僕を待っていたのですか?」

「はい、小夜は正太郎しょうたろう様と、嵐の晩にこの場にて雷が落ちてきて……気が付くと、小夜は独り……傍にいたはずの正太郎様はいなくなっていて……あれから三度目の春を数えました」

嗚呼ああ、それはつらい想いを……姫、何と云えばいいのか、申し訳ないことをさせてしまいました。姫、僕は本当に何と云えば……」

「いいえ、正太郎様、それは違います。正太郎様と逢えずにいたのは、私にとってはとても辛いことではありましたが……でも、その間に小夜に元気付けていた人がおりました。正太郎様も会ったことのあるお婆の千代ちよの子孫で、その方のおっしゃるには千代の生まれ変わりなのだと云っておりました。その人の云うには、代々千代の家系は持って生まれた能力があって正太郎しょうたろう様と小夜がこの時代にまためぐり逢えるので、その為に子々孫々そのことを代々伝承でんしょうしてきて、私がこの時代に来たのをその千代は感じとり、私のもとにふたりの姉と伴に馳せ参じた、とのことでした。そして、この時代に生まれたその千代は代々伝承してきた中でもとても大事な役目、運命だからと名も千代と名付けられたそうです。その上、その千代と云う人はお婆の千代の生まれ変わりだと云い、お婆の記憶も少し持って生まれたそうです。私が、この時代に来た時は気を失っていたようで、目を覚ますとその千代と三人がおりました。そして、私は千代に沢山たくさん様々さまざまな話を聞かせて貰いました」

 小夜姫は、僕の目を見て話していたが、急に目をせ顔を左右に嫌々を云うように振った。

「姫、どうしたんですか? 何か辛いことでも聞いたのですか?」

 姫は、顔を上げたのだが、目には涙があふれていて、その目には僕に救いを求めるように見つめすがっていた。そして、すがる姫の手には痛いほど力が込められていたが、小刻みに震えていた。

「……正太郎様。御父上様が、小夜の御父上様が……殺されたそうです。それも、正太郎様の配下のしのびの者に……」

「エッ? まさか、マサが……そんな、そんなことって……」

「嫌え、正太郎様そうではありません。本当の暗殺者あんさつしゃは、私めの母上様です。あの数年前に私の母となった高尾たかおと娘で小夜には姉になる彩乃あやのの二人が仕組しくんだはかりごとで、敵の黒鷺くろさぎじょう配下はいかの忍びの者を裏で手引きをして御父上様のお命を……」

 姫は言葉も最後まで語れずその場に泣き崩れそうになるのを、僕は体を張って支えた。っがしかし、姫には重力とか自然の摂理せつりのようなものは僕には感じなかった。何故だろう?、まるで今吹いているこの微風そよかぜにだってふわりと浮き持ち去られそうな程に軽い、羽のようだ。しかし、姫はしっかりと僕の腕の中にいる。

 姫はさぞくやしいのだろう。その悔しさをこらえ震えながらも僕に哀願あいがんの目で見つめている。そのような目で僕にたよられても、何もなすことの出来ない僕は姫のその目をけ逃げるように姫の体を強く抱き締めた。

 そんなあわれな姫と卑怯ひきょう者な僕の二人を、今宵こよいの月は空高く僕たちふたりをまぶしく照らし包んでいる。

「悔しいだろうなぁ?……」

「……ウッ、ウン」

「さぞかたきって遣りたいだろうなぁ?……」

「ウッ、ウン、それは勿論もちろん、出来るものなら……!?。って・・・だ、誰?」

「ほら此処だよ……純一じんいち、お前の後ろにいるぞ」

 振り向くと、僕の後ろの大きな岩の上に学生服のブレザーを着た女の子がしゃがみこんで僕たちをながめていた。

「って、やっぱり誰?……」

「ウフフ、正太郎様この方がお千代です。あのお婆の生まれ代わりの……」

 お千代という女の子は短いスカートのすそを押さえ岩からヒョイッと飛び降りて、こっちへ近付いて来た。

「ヨウ!、久しぶりだな。彼此かれこれ大まかに言って六百年ぶりと言うか、純一お前にとっては2年と半年くらいのものかな?」

 お婆の生まれ代わりというから僕は勝手にしわくちゃなイメージを持っていたのに、その子は、見るからにとても若い。歳は多分、十五、六だろうか、おかっぱ頭の女の子だ。

「コラッ、純一、何をお前えはジロジロ見てんだよ。俺だって、小夜姫様と同じ十六なんだ、気を付けろよ。お前にだってデリカシーというものはあんだろう……」

「アッ、ごめん。ついお婆の生まれ変わりっていうからてっきり皺くちゃなお婆ちゃんだと思っていたか……こんなに若い子だなんて想像していなかったから」

「フンッ、純一、その言葉を忘れるなよ」

「何を怒っているの? 別に悪口を言っている訳じゃあないのに」

「アアー、その内に分かることさ……それより、加減かげんもういいだろうに、いつまでも二人抱き合っていなくてもよ。そろそろ離れてもいいじゃん。俺だって今をときめく可憐かれん乙女おとめなんだかんな……それにすこしうらやましく、なんか傷つきわ」

 言葉の最後は、力なくボソッと言った。

「アッ、そうだ! それよりも、これからのことを考えなくちゃぁ。このままだと小夜姫様はこの世から完全に消えてしまうことになるからな」

「エッ! な、なんで? どうして姫が消えてしまうの? やっと、僕は姫に逢えたというのに」

「だから、そのことを話し合おうと言っているんだ。何も救える手だてがない訳じゃあないからな」

「じゃ、じゃあどうすれば善いの? 僕は、姫を救えるのなら何でもするよ」

う、そうだな。ず、純一、今のお前のそのおもい忘れるな。お前のその念いにってうかばれ救われる者たちが大勢いるんだからな」

「ンッ、なに? 姫以外にも救える大勢の者って」

「それはな、先ずは……ウーン、先にこの地の歴史から話さないとな……」

 お婆の生まれ代わりのお千代が瞑想めいそうするかの様に目をつぶり話し始めた。意識を遠い昔のお婆のいる処に持って行き、まるで向こうにいるお婆と交信をしているかのようだ。

「この地は、元は緑の庄と呼ばれておって、作物は常に豊穣ほうじょう、山のさちにもめぐまれてこの地の民も幸せに暮らしておった。それと、この地をかこむようにし三つの国が隣接りんせつしておって、東の方には正太郎殿がいた高柳たかやなぎじょうの在る高柳と云う国じゃ。その頃は城の名で国の名も付いて措って、小夜姫様がおられた城はさくらじょうと呼ばれておった。昔は城の中にはとても大きなあでやかな桜の木が立っておった。

 姫様の御父上様が、姫様が生まれた時にその桜の木の下で酒宴をお開きになられて、その時、桜の花が夜にほのかに香るのを至福しふくの時とし、生まれた姫名を小夜香と命名しようとその場にいた一同にお披露目とその名の理由を言われた。夜に微かな香りと当てめ、かすかを小とし、夜はそのままとし香りを付けようとしたら、隣の国のかい邦城ほうじょう佐々木ささき様は御父上様とは兄弟のように仲が宜しかったお方で、その佐々木様が『香りは立ちのぼってはくるが、風にさらわれても行くぞ』とおたわむれを言われ、御父上様はらば香りは後に取って措こうと言われて、姫様の名を小夜と命名されたんじゃ。姫様も、このことは初めてお耳に為られるであろう。後に、殿は私めにこう申された。小夜姫の名に香を付けなくて善かったと……それは姫の御母上様が亡くなって後の話だったんじゃが、何せ御母上様の名は花織梨かおり様と云う名じゃったから……ンッ、話が横にれてしもうたな。この地、桜の国をふくむ三つの国は正太郎殿の高柳に先程の御父上様の仲の善い海邦の国に後一つ少し離れた黒鷺くろさぎの国じゃ。この黒鷺の国は、元々は白鷺しろさぎと呼ばれておったのじゃが、先代の主が築城した時はそれは見事な城であった。天守閣てんしゅかくを備える屋根は大きく空に両翼りょうよくを広げた真っ白な大きな鳥のように、それはそれは美しい城であったのじゃが。その城に仕えておった樋口ひぐちきょうすけという若い家老がある時、民を苦しめこんなにも余分よぶんな城を作ったと云う口実こうじつ謀反むほんを起し、主家族、一族諸共もろとも惨殺ざんさつし乗っ盗って仕舞うた。それから、なぜかその城は真っ白だったかべは黒くすさむがごとこけで黒くなりて、後に人々は黒鷺城と呼ぶようになってしまったんじゃ。それは元主家族一族の無念の恨みの念がそうさせたのかも知れんな。黒鷺の国は山に囲まれ平地が少なく作物も稀少きしょうで此処の民は常に窮々きゅうきゅうとして暮らしておったのじゃが、しかし城の中は贅沢ぜいたくの限りを尽くたし暮らしておった。の国に起城きじょうした樋口京ノ介に殺された主は元々は山賊さんぞくで、京ノ介にしても主が山賊の頭領とうりょうだった頃は頭領に仕える片腕だった者の息子だったというし、元山賊の国は他の国との国交もなく。まして、謀反で乗っ盗って城主となった京ノ介は、民が食えずに困窮していても隣接する国に支援しえん要請ようせいすることも出来ず。自分たちが贅沢なまま暮らしたいという想いから、他の国への要請が出来ぬのならばその国々をれば善いと考え国盗りの策略さくりゃくをし始めてしまったのじゃ。京ノ介の一番のねらいは海邦の国じゃ。海邦という国は海にも接していて遠くの国々との貿易も盛んで、常に国内の城内は無論むろん民に至るまでうるおっていたからじゃ。しかし、海邦の国を攻めるには問題があった。それは、武勇ぶゆうまさる高柳の国が海邦の国の隣に在って黒鷺の国は海邦の国を攻めに行くにはけわしい山の地形が邪魔じゃまをし高柳の国を通らねばならず、最初は一緒に手を組んで海邦の国をうばい領地を半分づつを取り合おうと打診だしんをしたのじゃが、高柳の城首の正太郎殿の御父上はあつくその相談をね返して仕舞い。それより高柳の国はより黒鷺の国の動向どうこうを前にもまして視るようになり、黒鷺は高柳のせいでより動きずらくなってしまい、そこから京ノ介は裏でより巧妙こうみょうな策をほどこし始めた。して、最初の犠牲ぎせいになってしまったのが、高柳の嫡子ちゃくしの正太郎殿の兄の伊織いおり様と佐々木様のひとり娘のあかね姫が、京ノ介の策略にって命を落とされたのじゃ。京ノ介の策とは、とても狡猾こうかつ用意周到よういしゅうとうにことを数年に掛けて表にはれなく着々と進めていたようじゃ。その策とは、純一にも忍びの者に”くさ”と云うものが在るということは聴いたことがあるであろう。草という者は代々に渡り敵国や他方での地に根を生やすように暮らして居って、そこの情報やある時は内乱ないらんや騒ぎを起すための下級の忍びの者たちなのじゃが、しかし黒鷺の国の者の云うことにはその草の一つ上に”はな”と呼ばれている者たちがおって、その花という者たちは常に艶香いろかを使い人をたぶらかすための者とのことじゃ。して、その花と呼ばれる者の中に高尾と彩乃という親子がおって、二人は樋口京ノ介のめいに依って桜の国に来る前は、京の公家でその時は落魄おちぶれていた綾小路あやのこうじと云う名の元は代々格式高い処の名を言葉たくみにだまし貰い受け、後々其のことが表に出ては厄介やっかいなことになるからと、京にいる一族を一人残らず殺した上で、先ずは海邦の国へと来て、京の綾小路の名をかたり佐々木様に近付き小夜様の御母上様が亡くなった頃だったので、佐々木様の口添くちぞええで御父上様の後添のちぞいとなったようじゃ。ある時、海邦の国にて今までにない大きな船を造ったとのことで黒鷺以外の隣接する国々をまねきお祝いのうたげを開き、正太郎殿の御父上様と嫡子の伊織様も来ておられていた。桜城からは小夜姫様の御父上様に高尾に彩乃が付いて来て、彩乃は佐々木様の一人娘の茜姫と歳も近かったこともあり仲がよく姫の傍におってな、偶々たまたま伊織様が挨拶に来たときに姫を見た伊織様の表情が変ったのを彩乃は見逃さなかった。そのことは直ぐさま黒鷺城に一報が入り、それを聞いた京ノ介は顔をほころばせたと聞いておる。海邦の国の祝いより戻って着て数日が経ったる日、伊織様に彩乃が茜姫からふみを預かって来たと彩乃が姫に似せて書いた文を手渡し、そして伊織様から返事の文を受け取りその足で海邦の城に行き彩乃は伊織様からの文にも手を加えた上で茜姫に届けて、近々伊織様がこの地にお忍びで来られるから逢っては如何とけしかけ、元々姫にも伊織様には特別な想いもあったようで、ことは意図いと容易たやすく進み半月して二人は人目を避け、山のふもとに姫は従者じゅうしゃを待たせ一人で山の中へと入って行ったのじゃが、そこで待っていたのは黒鷺城の忍びの者たちであえなく姫は命を絶たれてしもうた。して、伊織様の方は翌日海邦の城の者たちの捜索によって、その山の断崖だんがいから身を投げ変わり果てた姿で発見されたんじゃが、それも黒鷺城の手に因ってのことは言うまでもないが、しかしその時の佐々木様は愛娘まなむすめの茜姫の突然の不幸じゃ、気が動転どうてんなさっていたのじゃろう。正太郎殿の国の高柳の城に宣戦布告せんせんふこくを出してしまったのじゃが、それを聞いた正太郎殿のお父上は慌てて小夜姫の御父上様に書状を書き佐々木様との仲を取り持って貰おうとしたのじゃが、その書状は高尾に因って破かれいっしてしもうた。高柳の殿としては、次男の正太郎殿と正式ではなかったにせよ許婚としていづれは小夜姫を貰い受け、親戚としてみていた桜城からは何も返事は来ずしびれを切らしながらも独自に息子の伊織様と茜姫のことを調べて行く内に何やら高尾親子がことの根源こんげんなのではと気付き、忍びの者たちに京へ行かせ返って着た情報は本家の綾小路家の無残な末路まつろを知り、その上高尾親子と黒鷺城の繋がりまで知ることとなり、海邦城にその事を記した書状を送り、息子伊織様の仇として高尾親子討伐とうばつに出たのじゃが、海邦城の家老の一人に京ノ介の息の掛かった小森という者がおって、その書状もその者の手の因って破られてしまい。更に、高尾が桜城主の名を騙り佐々木様に娘の仇を討つのは今この時、桜の国も介添えの手助けをするからと。そのことには、気付かず高柳の軍は桜の国に入ったのじゃが、そこで待っておった海邦の軍と戦った。して、本来武勇に勝る高柳の軍にはかなうはずのない海邦軍なのだが、高柳軍は桜城の軍旗ぐんきを見て援軍えんぐんじゃと安心をしてしまい、そこに突然の奇襲きしゅうなのじゃから防戦するのもやっとで被害は荘等そうとうなものだった。しかし、遅きながらもどうにか陣を立て直し反撃に打って出ようとした頃合いを観て遠く陣を隠してあった黒鷺の軍が高柳と海邦の両軍に襲い掛かって来て、更に桜の城からの追い討ちじゃ、策に嵌った両軍幾数万もの兵に容赦ようしゃない攻撃は言葉に出来ない程の殺戮さつりくじゃった。陽が沈む頃には、戦場は全て高柳、海邦軍の兵士の死体の山と血の海となり、その殺された兵士の怨念おんねんなのじゃろうそれ以来この地、かつて緑の庄と呼ばれたこの土地には作物が育たなくなってしもうた。樋口京ノ介は、四つあった国を一つに束ねたのじゃが、やること総て上手く行かなんだった。それはそうじゃ、物を作ることは知らず奴の知っていることと云えば奪うことだけなのじゃからな。作物も採れず大きな船や港が在ってもかつてあった貿易等はあきないの才覚のない家臣たちでは知れたことじゃ。十数年の間に京ノ介のしたことは大きくなったこの国の民を苦しめこの地に地獄を作ったことじゃ。純一よ。じゃからなこの地には、未だ成仏出来ずにおる魂たちがこの世を彷徨い続けておるのじゃ。それで彷徨さまよう魂たちは純一、お前に願いをたくし沢山の念いをひとつにして時の扉を開けてしまったのじゃ。じゃが、しかしワシにもさっぱりとに落ちないでいることが幾つかある。それは、もしかすると先に誰かの手に由って時の扉は開けられていたのやも知れぬ。それで、時をつかさどる者がねじれた時の流れを正して欲しいと純一に白羽の矢を立てたのかも知れぬ。それは多分、純一お前が行けば分かることなのじゃろうな。じゃから、純一よ。行ってくれるよな? 小夜姫様のためにも、この世を彷徨う魂たちのためにもな?」

 お千代は、まるで僕が前に会った初代お千代のように腰を丸めて僕に返答を求めるように眼を向けていた。勿論、僕の答えは「行かねば……」だったが、何を行かねば、嫌、何をって決まっている小夜姫の為だ、しかしどうやって……お千代は、僕の表情を視て取ってか。

「純一よ、そうくでない。ワシは唯、今のお前の意志いしを聞いたまでじゃ。ことを起すまでには未だ時間はある。して、先ず今やらねばならぬことは、今の姫のことじゃ。このままだと、姫の魂もこの地で彷徨う魂たちと同じように眼に視得ず彷徨うこととなる。

唯、しかし純一よ。先にも言ったように手立てがない訳ではない。それはな、何故に姫はこの世に現れたかじゃ。ただ純一を迎えに来ただけならば、そのまま純一と共に元の時代に戻ればよいのじゃが、ワシには姫には使命があって来たのじゃと思う。それは、純一に正太郎殿と云うもう一人の生まれ変わりがいたように姫にもな。だから純一よ。小夜姫様の片割れ、姫の生まれ変わりがいるであろう、その人を見つけ姫と交わり、さすれば分かることだと思う。ワシには、それが一つの布石ふせきとなるのではないかとな」

「しかし、お婆、嫌お千代の云う小夜姫の生まれ変わりはいったい何処にいて、何をしている人なんだ」

「うーん、それはワシも分からぬこと。しかし、ワシは信じている。時を司る者の意思いしをな」

「ふーん、時を司る者の意思?」

 僕は、漫然まんぜんと心に広がるかすむ霧の中をひたっていたのか、お千代の明るい声に引き戻された。

「純一、今は考えるなよ。自分の中に答えのないものをどんなに考えてみてもらちのないことだから……それより、もう夜もだいぶけたから純一は帰んないと、今は仮の家へとな……」

 何が可笑おかしいのか、クスクス笑いながらお千代は僕に言葉を告げた。表情や体付きは元の女子高校生の顔に戻っていた。

 そうだ、僕にはこの世では一つの家庭を築いていた。彩という妻を持ち京一という子までいるのだ。そのことは、何て小夜姫に話せばいいのだろう。

「純一、気にすんな。今のお前の状況は全て小夜姫様には話してあって、純一自身が知らないことだって姫様にはもうすでに話してあるのだからな」

「な、何? 僕の知らないことって……それは、どういうこと?」

「嫌々、純一お前は知らない方がいいよ。何せお前は思ったことが直ぐ顔に出るんだからな。相手にも直ぐばれてしまうから、純一の為にも知らない方がいいよ」

 僕には、お千代の言うことがさっぱり分からないでいた。小夜姫を見ると微笑んではいるものの何故か目の奥に不安を隠せないでいる。

「正太郎様、どうぞお気を付けてお帰りを、そして明日もまたこの小夜の許に来て下さいませ」

 夜明けには未だ時間はあるが、月が木々の彼方へ沈んで行こうとしていて、小夜姫の姿も薄らいで行き掛けている。

 僕は、傍にお千代がいるのに躊躇ためらわず姫の体を抱き締めた。このままずっと姫をこの腕の中に抱き締めていたかったのに、木々の向こうにあった月は完全に落ちきったようで、僕の腕の中にあった姫の体が霞のように消えて行って仕舞った……最後に僕への微笑みを見せて……。


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