軽視された死 2話
翌朝、川島は出勤前に自宅で新聞を広げた。社会面の片隅に、小さな囲み記事が載っていた。
《名駅地下街で男性倒れる 事故か》
本文はわずか数行。
「昨日午後三時ごろ、名古屋駅の地下街で男性が倒れているのが発見され、病院に搬送された。警察は事故の可能性が高いとみて、詳しい状況を調べている」──ただ、それだけだった。
「……やけに簡単だな」
川島は記事を指でなぞりながら、思わずつぶやいた。死んだのかどうかもはっきりしない。現場の様子も、発見者の証言もない。警察発表の定型句を並べただけのような記事。あれほど人通りの多い名駅で起きたことが、まるで取るに足らない出来事のように処理されていた。
昨夜、喫茶店で聞いた「誰も助けんかったんか?」という声が、頭の奥で反響する。事故として片づけられるには、あまりに早すぎる。
川島は新聞をたたみ、重たい気持ちのまま東海新聞の編集部へ向かった。
中区三の丸の本社ビルにある編集局は、朝から雑然とした活気に満ちていた。電話が鳴り響き、プリンターが原稿を吐き出し、記者たちがコーヒー片手に机を行き来する新聞社独特の慌ただしい空気のなかで、ベテラン記者は冷めかけたコーヒーをすすりながら記事を打ち込み、若手は資料を抱えて上司に小走りで呼ばれていく。
川島の席は生活部の一角にあった。主に地域の催しや暮らしにまつわる記事を扱う部署で、社会部の事件事故とは距離がある。だが机に腰を下ろしても、昨日のニュースが頭から離れなかった。
彼は隣のデスクに座る同僚・村井に声をかけた。
「なあ、昨日の名駅の件、変だと思わないか?」
村井は原稿用紙をめくる手を止め、怪訝そうに眉をひそめた。
「お前なあ、それは社会部の仕事だろ。生活部の俺らには関係ないって」
「そうだけど……現場検証まで入ってたんだろ? 記事は小さいし、どうも腑に落ちないんだよ」
村井はあきれたように笑った。
「三年目にもなって、まだそんな青臭いこと言っとるのか。名駅で人が倒れるなんて珍しくもない。熱中症か持病か、そんなとこだろ。記事が小さいのは妥当だわ」
そのやりとりを聞きつけて、斜め向かいの社会部の先輩・沢田が顔を上げた。
「おい生活部。首突っ込むな。お前の仕事は祭りとかイベントの取材だろ? こっちは殺人やら火事やらで手一杯なんだ。名駅の件なんざ、ただの倒れ込みだ」
川島は食い下がった。
「でも、“倒れているのを発見された”っていう言い方、妙じゃないですか? あんな人通りの多い場所で、誰もすぐ助けなかったってことになる。しかも現場検証までやってるのに、警察は事故の可能性が高いって……あまりに早すぎる気がするんです」
沢田は肩をすくめ、煙草の箱を机に置いた。
「若いなあ。いちいち引っかかってたら身が持たんぞ。お前の言う“妙な感じ”なんて、俺らは何十回も経験してきた。結局は大したことにならんのだ」
そのとき、編集局長が編集部に姿を現した。分厚い資料の束を抱え、鋭い声で告げる。
「港区で火事発生だ。沢田、至急現場へ走れ!」
一瞬にしてフロアの空気が変わった。社会部の記者たちは電話を取り、カメラを抱え、慌ただしく席を立つ。
「ほら見ろ」
沢田は椅子を蹴るように立ち上がり、バッグを掴んだ。
「名駅の件なんて、これでおしまいだ。火事のほうがよっぽど紙面になる」
そう言い残し、彼は同僚たちとともに編集局を飛び出していった。残されたのは、散らかった資料と、張り詰めた緊張の余韻だけだった。生活部の川島は、机に腰を下ろしながら胸の奥で苦い思いを噛みしめた。こうして名駅の件は、なかったことのように押し流される。
しかし、昨夜から続く違和感はますます濃くなっていた。
午後、川島は生活部の仕事で名駅に足を運んでいた。新しくオープンする店舗の取材をするためにゲートタワーを訪ねた。開業を控えたフロアはまだ工事の音が響き、段ボール箱が積み上げられていた。照明は明るく、未来的な空気に満ちているが、どこか落ち着かない。
「すみません、東海新聞の川島と申します。再開発特集の記事で、オープン準備について少しお話を伺えればと思いまして」
応じてくれたのは二十代半ばの女性社員だった。名刺を受け取りながら、笑顔で案内してくれる。川島は商品のコンセプトや出店の経緯を聞き取り、メモ帳に走り書きを続けた。
取材が一段落した頃、案内してくれた女性社員がふと思い出したように言った。
「そういえば、昨日ミヤコ地下街で事件があったの、ご存じですか?」
川島はペンを止め、顔を上げた。
「事件……?」
「帰りに通りかかったんです。警察が来ていて、人が倒れて運ばれていくのを見ました。ニュースでもやってましたよね」
川島の胸がざわついた。
「その現場、どのあたりでしたか?」
「確か……昔、喫茶店があったあたりだったと思います。シャッターが閉まっていて、暗い場所なんですけど。普段から人通りが少ないので、余計に人だかりが目立ってました」
社員は少し声を落とした。
「事故ってことになってるみたいですけど……あれだけ規制していたのに、ずいぶん早く終わったなと思って」
川島は礼を言いながらメモ帳に書き込んだ。生活部の取材のはずが、気づけば社会部の記者のように事件の情報を追っている自分がいた。
取材を終え、ゲートタワーを出た川島は名駅のコンコースに立っていた。手帳には店舗の情報がびっしりと書き込まれている。記事の材料としては十分だったはずだ。
だが、心の奥には別の言葉が残っていた。
《昔、喫茶店があったあたりで、人が倒れていた。》
社員が語ったその一言が、妙に頭から離れない。再開発で新しく生まれ変わろうとしている街の片隅に、シャッター街となった場所。その前で起きた出来事が「事故」として片づけられることに、どうしても違和感を覚えていた。
気づけば、川島は地下へ続く階段を降りていた。行き先を決めていたわけではない。ただ、足が自然にミヤコ地下街へ向かっていた。
通路を進むにつれ、人通りは徐々に薄れ、賑やかなサンロードの喧騒は遠のいていく。曲がり角が多く、慣れている川島ですら方向感覚を失いそうになる。その迷路のような構造の奥に、かつて喫茶店があった区画。今は空きテナントとしてシャッターが閉ざされている一角が、静かに口を閉ざしていた。
川島は歩を止め、その前に立った。昨日、男性が倒れて発見されたというのは、まさにこの場所だった。
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