【第肆話】唇に灯る体温に

僕らは結局、花火の最中に電車に乗り、クラスメート達にはラインで体調不良と言って帰ったことを知らせた。家の近くのコンビニで、凪が強請ねだったプリンを2人分買い、家の玄関を開ける。


僕の家にはただいまやおかえりなどの挨拶の習慣はない。母さんも父親も家にいないことが多いからだ。しかし家に居たかと言って挨拶があるわけでもない。互いが互いを認識していないかのように生活している。


今日も無言で入り、手洗いうがいをした。今日は珍しくリビングに電気がついている。恐らく仕事が早く終わった父親だろう。けれども僕には関係のないことだ。


リビングに入り、ソファでテレビを見ている父親を尻目にキッチンの方へ向かう。コップにコーヒー牛乳を2人分注いだ。無論、僕と凪の分だ。部屋に戻ろうとしたその時だった。


「母さんは?」


父親は振り返ることもなく、僕に声をかけた。声を聞いたのはいつぶりだろうか。


「知らない。」


僕は問われた事をただ独り言のようにぼそりと返し、リビングを出た。


自分の部屋に着く。それと同時にどっと疲れを感じ、ベッドに横たわる。やはり自分の部屋は安心する。人を感じないから。


5分程休んでから、先程買ったプリンと注いできたコーヒー牛乳を思い出した。ベッドの下で正座をちょこんとして、こちらを見つめている凪を見つけた。


「凪、食べようか。」


そう言うと、凪の顔はパアアっと輝き、


「うんっ!」


という弾んだ声が響いた。


僕の部屋には勉強机しかなかったため、折りたたみテーブルを家の倉庫から取り出し、凪とそのテーブルを囲んで食べた。


しかし僕はとある事に気付く。


「なあ、凪。さっきのりんご飴とかは想像で食べてたのに、なんでプリンやコーヒー牛乳は実物を食べられるんだ?」


「りんご飴だから良いとかプリンだからダメってわけじゃないの。ほら、私の姿が前と変わったでしょ?その時に物が触れるようになったんだよ。そして食べれるようにもね。人間に近づいたと言えるかな。」


僕の動悸が激しくなった。震える声で絞り出す。


「じゃあ、もう、凪にさわれるってこと…?」

「一度触ってみれば?」


僕は凪の耳に手をかける。触れはするが、体温を感じない。まるで屍に触れているようだ。手をゆっくりと凪から話す。


「がっかりした?」

「まあ、正直に言えば。」



「限りなく近い存在になれるよ。」 


凪がつぶやく。


「人間に近い存在に…。」


凪はそう言い遠い方を目を細めて見ている。


もし凪が人間なら…僕は凪とずっと…。




「僕はどう変わるべきなの?」


その呟きを聞いた凪は、またあの吸い込まれるような微笑みを浮かべた。



時刻は11時を回っていた。僕達が帰って2時間半程の時が経っていたが、やはり母さんは帰っていなかった。凪を部屋に置いたまま、僕はリビングへと向かう。父親は先程同じ体勢でテレビを観ていた。


「ご飯、食べた?」


僕が声をかけるとテレビを止め、父親は振り向き驚いたようにこちらを見た。


「竜樹は?」

「まだだけど。」


短文での応酬が続く。父親は少し考えたような素振りを見せ、家の食糧庫をあさり、レトルトのカレーとパックご飯を電子レンジに入れた。そして冷蔵庫の中から燻製チーズと発泡酒、そしてコーヒー牛乳を取り出しダイニングテーブルへと置いた。僕も2人分のコップを取り出しテーブルへと置く。


「竜樹、注いでくれるか。」


僕は無言で頷き、発泡酒をコップへと注ぐ。正しい注ぎ方がわからなかったので泡だらけになってしまった。それを見て父親は大声で笑った。長い間父親の笑いが静寂を支配した後、机を見つめた。その視線の先には大粒の雫がぽたりとぽたりと落ちていた。


「知らないよな。俺と食べたことないしな。母さんとも、ずっと、そうなんだろ?」


嗚咽をあげながら続ける。


「父さんさ、竜樹の事、母さんと結婚した後からしか知らなかった。それでもさ、これから住むとなった時には竜樹はもう1人でいることに慣れすぎてたんだよ。」


冷静に文を整理する余裕がないのか、所々文章の繋がりが不自然だった。


「その頃は俺も若かったから…お前がいなきゃよかったって…。ごめん、一回外の空気吸ってくる。」


そう言い残し父親は玄関へと向かった。僕は電子レンジからレトルトカレーとパックご飯を取り出して食べた。時間がたったからか冷めていた。僕は黙々と食べ、ゴミを捨て、自分の部屋へと戻った。


凪は頭と手をベッドに委ね、床に目を閉じて座っていた。僕が戻ってきた事に気がついてか、目をおもむろに開ける。先程はまだあどけなさが全面にあったが今は違う。


昔の人は美しく綺麗な人を見た時に、天女様だとかの表現をしていたのだろう。でもその言葉は凪に当てはまらない。凪を形容する言葉として安っぽすぎるからだ。


「たっちゃん、おかえり。変われたんだね。」


ああ、そうか。僕が変わったから、凪は変わったんだ。僕の理想の姿に、僕の求めた姿に…。


凪ともっと話したいところだが、僕は立ち眩みを感じ、直ぐにベッドの中へと入った。恐らくいろいろな事があって疲れたのだろう。仰向けになり、目を瞑っていると、凪が小さな声で僕を呼んだ。僕は半目になりながら、凪の方に寝返る。


凪が先程の体勢のまま、僕の顔を覗き込む。凪と目があった。僕はその目を見た瞬間、この世は凪の為にあると思えた。疲れて重かった瞼も嘘のように軽くなり、その姿を捉え続けた。


「たっちゃん、おやすみ。」


そう言い終えた後、唇に微かな感触があった。凪は幸せな目をしていた。僕はそのまま目を閉じた。

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