第2話. 祇園・お茶屋『一力』・夜



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### 『曽根崎心中 anone - あのね -』

### 第一話:共犯者


**1. 祇園・お茶屋『一力』・夜**


豪奢な数寄屋造りの座敷。金屏風が鈍い光を放ち、磨き上げられた黒塗りの膳が並ぶ。

そこに座るのは、京都大学の重鎮である老教授と、その隣で息を詰めている大学院生の斎藤佑樹(28)。

目の前では、あでやかな舞妓たちが空虚な愛想笑いを振りまいている。


**教授**

「どうだね、斎藤君。君の論文も面白いが、少し急進的すぎる。研究室に籠っているだけでは、世の中は渡れんよ。浮世の義理も時には必要だ」


**佑樹**

「は、はい。肝に銘じます」


佑樹は、借りてきた猫のように萎縮している。彼の野心――既存の権威を揺さぶろうとする魂は、この伝統と格式で塗り固められた空間に馴染めない。グラスを持つ手が、わずかに汗ばんでいた。

頭に浮かぶのは、婚約者・美咲の顔。京都の名家の娘である彼女なら、この世界の作法を完璧に心得ているだろう。教授の言葉は、結局その家柄に助けられているだけだという、暗黙の指摘に聞こえた。


ふすまが、すっと開く。

女将に促され、一人の芸妓が静かに入ってくる。

黒地に桔梗をあしらった引き着。他の芸妓たちの華やかさとは違う、凛とした静寂をまとっていた。

彼女が顔を上げた瞬間、佑樹は息を呑む。

化粧の下にある、底知れないほど静かで、どこか挑戦的な瞳。


**女将**

「教授、こちら、桔梗屋の佐知子どす。まだ若おすけど、舞はうちの自慢どっせ」


佐知子と名乗った芸妓は、深々と頭を下げる。

佑樹の視線に気づいたのか、彼女はふと顔を上げ、佑樹と一瞬だけ目を合わせた。その瞳に、値踏みするような鋭い光が宿るのを、佑樹は見逃さなかった。


**2. 同・座敷**


宴もたけなわ。

佐知子は、教授の隣に座り、そつなく酒を注いでいる。会話は政治から古典文学まで多岐にわたるが、彼女は淀みなく、的確な相槌と自らの見識を披露する。

佑樹は、その知性に驚愕していた。中卒でこの世界に入った芸妓――そんな先入観は、木っ端微塵に砕かれる。


やがて、場の空気を読んだように、佐知子は静かに立ち上がる。

舞が始まった。演目は『黒髪』。

他の芸妓の華やかな舞とは違う。

――この人は、舞っているのではない。闘っているのだ。

研ぎ澄まされた指先は、見えない何かを切り裂く刃。流し目は、この息苦しい世界への呪詛そのものだ。それは、恋に焦がれる女の舞ではなく、見えない檻の中でもがき、絶望し、それでもなお抗おうとする魂の叫びだった。

佑樹は、金縛りにあったように動けなかった。彼女が燃やす静かな炎は、俺が心の奥底で燻らせているものと、同じ色をしていた。


舞が終わり、喝采が起こる。

しかし、佐知子は誰に媚びるでもなく、静かに一礼するだけだった。


宴が終わり、教授は酔いをまとった赤い顔で、佑樹の肩を叩く。


**教授**

「斎藤君、今日は無礼講だ。佐知子君、あとはこの男に、祇園の夜というものを教えてやってくれたまえ」


それは、拒否できない命令だった。

女将の含み笑い。周囲の芸妓たちの羨望とも嫉妬ともつかぬ視線が、無数の針となって突き刺さる。佑樹は、断崖に立たされたような気分だった。


**3. 置屋『桔梗屋』の一室・深夜**


祇園の喧騒から離れた、静かな一室。

布団が二組、並べて敷かれている。

佑樹は、着物を緩めただけの佐知子と向かい合って座っていた。気まずい沈黙。美咲への罪悪感が、鉛のように身体を重くする。この一線を越えれば、自分が築き上げてきた全てが崩れるかもしれない。


**佑樹**

「……すまない。教授の、手前……」


言い訳がましい言葉しか出てこない。

佐知子は、ただ静かに佑樹を見つめている。その瞳は、彼の葛藤も、野心も、臆病さも、すべてを見透かしているかのようだった。


**佐知子**

「……怖いんどすか?」


静かな京言葉が、胸を刺す。


**佑樹**

「……婚約者が、いるんだ」


それを聞いた佐知子の唇に、ふっと自嘲するような笑みが浮かんだ。


**佐知子**

「あんた、賢い人やと思ってましたけど、存外、阿呆どすなぁ」


**佑樹**

「……何?」


**佐知子**

「この世界では、ほんまのことなんて、何の価値もありしまへん。大事なのは、何があったように『見える』か、だけどす」


佐知子はゆっくりと立ち上がり、佑樹の隣に座る。触れそうで触れない、絶妙な距離。甘い白粉の香りが、理性を揺さぶる。


**佐知子**

「『何もありまへんどした』。そう言うて帰らはったら、あんたは教授の顔に泥を塗る。うちは、置屋の恥になる」

「……せやけど」

「『何かあった』ことにしとけば、丸う収まる。教授はご機嫌、うちの株も上がる。そしてあんたは……教授にとって、もっと『可愛げのある』教え子になれる」


それは、悪魔の囁きだった。

嘘をつけ、と彼女は言っている。事実を捻じ曲げ、それを二人だけの秘密にしろ、と。


**佑樹**

「君は……それでいいのか」


**佐知子**

「うち? うちは、ただの商品どすから。どう使われるのが一番、値打ちが上がるか。それしか考えてしまへん」


その言葉に、佑樹は彼女の瞳の奥にある、深い孤独と絶望を見た。自分を商品だと言い切る潔さ。その裏にある計り知れない諦念。だが、その瞳の奥には、まだ消えない火種が燻っている。

――この女となら。この欺瞞に満ちた退屈な世界を、根底から覆せるかもしれない。


佑樹は、覚悟を決めたように顔を上げた。


**佑樹**

「……わかった。君の言う通りにしよう」


その言葉を聞いた佐知子の唇に、共犯者だけがわかる、静かな笑みが浮かんだ。


**佐知子**

「……おおきに、お兄さん」


彼女はそう囁くと、自分の襟にそっと手をかけ、わずかにはだけてみせる。そして、乱れた髪を手でくしゃりと掻き、枕元に置いてあった自分のかんざしを、そっと佑樹のジャケットのポケットに滑り込ませた。


何も始まらなかった夜。

しかし、この夜を境に、二人の魂は嘘という名の固い絆で結ばれた。


ポケットの中で、かんざしの冷たい感触がやけにリアルだった。それは明日、嘘を完成させるための小道具。そして、この世界を壊すための、共犯の証だった。


(第一話・了)

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