第3話京都大学・佑樹の研究室・昼
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### 『曽根崎心中 anone - あのね -』
### 第二話:観測者
**1. 京都大学・佑樹の研究室・昼**
窓から差し込む光が、埃の舞う研究室を照らしている。
佑樹は、山のようになった文献に囲まれ、パソコンの画面を睨んでいた。だが、彼の意識は論文のデータではなく、数日前の祇園の夜に囚われていた。
ポケットに忍ばせたままの、桔梗のかんざし。冷たい金属の感触が、あの夜の佐知子の肌を思い出させる。
――あの瞳は、すべてを知っていた。
ノックの音で、佑樹は我に返る。
ドアを開けて入ってきたのは、婚約者の美咲だった。上質なツイードのワンピースに、寸分の隙もなく整えられた髪。彼女の存在そのものが、この雑然とした研究室とは不釣り合いだった。
**美咲**
「佑樹さん、お疲れ様。お父様から伺ったわ。祇園、楽しかったそうね」
その声には、棘も嫉妬もない。ただ、事実を確認するような、平坦な響き。
それが逆に、佑樹の罪悪感を刺激する。
**佑樹**
「あ、ああ。まあ、付き合いだからな」
**美咲**
「ええ、分かっているわ。そういうお付き合いも、これから先、あなたには必要なことだもの」
美咲は、佑樹の机に手作りの弁当を置く。完璧な妻の役割を演じながら、彼女の目は冷静に佑樹を観察していた。鋭い観察眼。佑樹が彼女に惹かれた理由の一つであり、今、最も恐れているものだった。
**美咲**
「……でも、無理はなさらないで。あなた、少し顔色が悪いわ」
そう言って、美咲は佑樹のジャケットに手を伸ばし、襟元の乱れを直そうとする。
その瞬間、佑樹は凍りついた。
ポケットの中のかんざしが、まるで時限爆弾のように感じられた。
**佑樹**
「だ、大丈夫だ! ちょっと寝不足なだけだ」
佑樹は、慌てて彼女の手を振り払うように身を引いた。
不自然な拒絶。
美咲の目に、一瞬、冷たい光がよぎる。だが、彼女はすぐに完璧な笑顔に戻った。
**美咲**
「そう? ならいいのだけれど。……じゃあ、私はこれで。また連絡するわね」
何事もなかったかのように去っていく美咲。
ドアが閉まった後、佑樹は大きく息を吐き、ポケットからかんざしを取り出した。
――危なかった。
だが、本当にそうだろうか。彼女は、本当に気づかなかったのだろうか。
美咲という女の恐ろしさを、佑樹はまだ完全には理解していなかった。
**2. 祇園・置屋『桔梗屋』・夜**
佐知子(菜々美)は、鏡の前で白粉を塗りながら、女将の嫌味を聞き流していた。
**女将**
「佐知子。この前のお座敷、ようやったそうやないか。教授さんもえらいご機嫌やったて」
**佐知子**
「おやかたさんのおかげどす」
**女将**
「ふん。口ばっかりは達者なこと。ええか、あんたはうちの商品や。うちが磨いて、値打ちをつけたんや。勘違いしたらあかんで。あの京大の先生かて、あんたやのうて、『桔梗屋の佐知子』を可愛がってくれはったんや」
釘を刺すような言葉。女将は、佐知子の才能が自分の手からこぼれ落ちていくのを、本能的に感じ取っていた。だからこそ、厳しく躾け、縛り付けようとする。
佐知子は、鏡の中の自分を見つめる。完璧な芸妓の仮面。その下で、冷たい炎が燃えている。
――商品、ね。
ならば、その値打ちを決めるのは、買い手だけではない。売り手が、市場そのものを支配することだってできるのだ。
そこへ、別の芸妓が慌てた様子で部屋に入ってくる。
**芸妓**
「お、おやかたさん! 表に……斎藤さんが……」
**女将**
「なんやて? アポもなしに、こんな時間に? …まあええわ。お通ししよし」
女将の顔に、下卑た笑みが浮かぶ。若い男が、芸妓に入れあげて掟を破る。これほど面白い見世物はない。そして、金になる匂いがした。
**3. 桔梗屋の客間・夜**
通された客間で、佑樹は落ち着きなく待っていた。
人目を忍んで、ここまで来てしまった。論文も、美咲のことも、何も手につかなかった。ただ、もう一度、あの瞳に会わなければならない。そう思ったら、身体が勝手に動いていた。
ふすまが開き、佐知子が現れる。
座敷でのあでやかな姿ではなく、稽古着のままの、少しあどけなさの残る素顔に近い彼女がいた。佐藤菜々美の姿だった。
**佐知子**
「……何の御用どすか、お兄さん」
**佑樹**
「君に、会いたかった。それだけだ」
まっすぐな佑樹の言葉に、佐知子の表情がわずかに揺らぐ。
佑樹は立ち上がり、彼女に歩み寄ると、懐からあのかんざしを取り出した。
**佑樹**
「これを、返そうと思って」
佐知子は、かんざしを受け取らず、ただ佑樹の目を見つめ返す。
**佐知子**
「それは、うちのもんやありまへん。『共犯』の証どす」
**佑樹**
「……俺は、君のことをもっと知りたい。本当の君を」
**佐知子**
「本当のうち? そんなもん、とうの昔に売っぱらってしもたわ」
自嘲する彼女の肩を、佑樹は思わず掴んでいた。
**佑樹**
「嘘だ。あの舞は、嘘じゃなかった。君の魂の叫びだったはずだ」
その時だった。
乱暴にふすまが開き、女将が仁王立ちしていた。
**女将**
「何をしとるんや、あんたら!」
女将の怒声が飛ぶ。
だが、佐知子は少しも動じなかった。彼女は、佑樹の腕をそっと振り払うと、女将の前に進み出て、深々と頭を下げた。
**佐知子**
「申し訳ありまへん、おやかたさん。このお方は、うちが無理にお呼びしたんどす。忘れ物をお届けいただくために」
**女将**
「忘れ物やと? しらばっくれるんやないで!」
**佐知子**
「ほんまどす。……ね、お兄さん」
佐知子は、佑樹にちらりと視線を送る。それは、第一話の夜と同じ、共犯者を求める瞳だった。
佑樹は、一瞬ためらった後、覚悟を決めて口を開いた。
**佑樹**
「……その通りです。私が、彼女に頼まれて。どうか、彼女を責めないでいただきたい」
佑樹が自分を庇ったことに、佐知子の瞳の奥に、今まで見せたことのない複雑な光が灯った。
女将は、納得いかない顔をしながらも、客である佑樹を無下にはできず、舌打ちする。
**女将**
「……お帰りはあちらどす。二度と、こんな真似はよしとくれやす」
追い出されるようにして、佑樹は桔梗屋を後にする。
冷たい夜風が、火照った頬に心地よかった。
これでよかったのかは分からない。だが、彼女を守れた。その事実だけが、確かなものとして胸に残っていた。
**4. とあるカフェ・翌日**
美咲は、一人の男と向かい合っていた。
その男は、美咲の父親の息のかかった興信所の調査員だった。
**調査員**
「……お嬢様。こちらが、例の斎藤佑樹氏の、昨晩の行動記録です」
調査員が差し出した封筒を、美咲は指先一つ汚さないように受け取る。
中には、佑樹が桔梗屋に入っていく姿と、出てくる姿を捉えた鮮明な写真が数枚入っていた。
**調査員**
「この『桔梗屋』は祇園でも格式のある置屋でして、ここに所属する芸妓『佐知子』が、先日のお座敷に…」
**美咲**
「もういいわ」
美咲は、調査員の言葉を冷たく遮る。
彼女は写真の一枚を手に取った。そこには、置屋から出てきた佑樹の、どこか高揚したような、安堵したような、複雑な表情が写っていた。
美咲の完璧に整えられた唇が、かすかに震える。
彼女は、ルールを逸脱する者を許さない。自分の所有物に、傷がつくことを許さない。
愛情が、冷徹な計算と復讐心へと反転する。そのスイッチが入る音が、静かなカフェに響いた気がした。
**美咲**
「……彼の研究、確か、古代都市の成立における『秩序と逸脱』について、だったわね」
その呟きは、誰に言うでもなく、しかし確かな殺意を帯びていた。
断罪の序曲が、静かに奏でられ始めた。
(第二話・了)
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