湧き水

壱原 一

 

ばあちゃんが、山友達の案内で美味しい湧き水を飲みに行きたいから、車を出してくれと言うので孝行に立った。


6人乗りをレンタルして、じじ2人ばば3人のそれはもう賑やか溌溂な歓談に揉まれながら、山間は渓谷沿いの車道の路肩に到着する。


湧き水は車道の山側の斜面の直ぐ傍にあるらしい。


一見では取り付く島の無い斜面を、少し入って斜めに折れ込むと、砂利の筋が延び上がる先に貨物コンテナ位のサイズの巨岩が突き出て厳めしく腹を見せている。


岩の上部の突端から、水道の蛇口の如く指2本程の太さの水が静かに流れ落ちている。下に穿うがたれた極小の池のほとり近くの低木の枝に、くすんだ銀色のアルミのコップが無造作に引っ掛けられている。


水は周りの木々の色を映し、僅かに差す日光に煌めき、成程とても美味しそうだ。


銘々労せず登り着き、コップを借りたり両手に受けたりして飲む。


木や土や水の悠然とした匂いの中、美味しい美味しいと手放しに喜ぶじじばばの声を傍らに、きんと冷えた淡麗な甘露を味わうと、穏やかに滋味が沁み渡って何とも豊かな心地がする。


美味しいね良い所だねまた来たいね□ちゃん□っちゃん有難うねと一頻り感嘆が交わされ、さて帰りは道の駅へ寄ってお茶でもしようと成った時、しみじみ周囲を見回していたじじの1人が、巨岩の辺りの虚空へ目を留め「ああ?」と声を裏返らせた。


釣られて其方を見ると、静かに水が流れ落ちる巨岩の上部の突端の脇に、真っ白でなだらかな膨らみが水に浮く感じにぷかぷか揺れている。


認めるが早いかじじは巨岩を迂回した上へ登り出している。取り敢えず自分もじじに続いた。


*


巨岩の根元から斜め上へと繁茂する茂みを掻き分けて、舞台の如く迫り出した巨岩の上面をじじと覗く。


上面は積年の湧き水に擦り減ってか深皿の様に緩やかに窪み、ひたひた湧き水を湛えた岸に、落ち葉やら折れ枝やらを漂着させている。


下方への流出口たる問題の突端の脇には、それら漂着物に紛れて、真っ白い人の体が俯せで浸かっていた。


素裸の細身中背で性別は分からず、まだ若そうな艶のある黒髪が乱雑に刈られている。


頭を突端に向け、半端に曲げた両腕を先へ伸ばした体勢で水の揺らぎに洗われている。


刹那に遺体かとおののいたものの、表面がのっぺりと均一に白いから直ぐに違うと判別できた。


撮影かイベントか何かで使った道具を、置き忘れるなり遺棄するなりしたのだろうか。


飲んじゃったよと眉を潜めて推量する先で、じじが身軽に巨岩の上面へ下りて行く。異物を湧き水から引き上げるのだろうと、またぞろ後に従う。


くちばし状に突き出した巨岩の中程へ下りて突端へ進み、2人して浅瀬で靴底を濡らしつつ、手頃な折れ枝で異物を刺して引き寄せる。


枝は異物の表面にぬっとりと刺さり、抜くと暫く跡が残る。むろん筋骨やら内臓やらの構造の感触は無く、けっこう重い。


漸く岸へ引き寄せて、俯せの異物に身を乗り出し、沖側の肩と太腿に当たる部位をそれぞれ持つ。


横向きに手前へ転がして、上陸させる塩梅あんばいでえいやと表へ引っ繰り返すと、現れた異物の正面には縦長の四角が開いている。


中からそこそこの勢いでじゃばじゃば水が溢れていた。


*


四角は掌くらいの幅で、額に相当する辺りから、股の終端に当たる辺りまで、測った風に真っ直ぐでやすりを掛けた風に滑らかな白い断面を晒している。


中は急下降の洞窟の様に陽を受け入れず黒い。じじと共に面食らって眺めている間にも、明らかに容積以上の水が、大小のもこもこを不規則に盛り上げては巨岩の上面へ注ぎ込む。


水は澄んでいてとても冷たい。


これ中はどうなってるんだろう。


疑問を覚えるや否や、同じ衝動に駆られたのか、じじが黒い四角の鳩尾みぞおちら辺へ手を突っ込んで指を開きひらひら泳がせていた。


直ぐじじの腕を掴んで「止めなよ」と引っ張り戻す。


じじはむずかるように唸り、ますます手を突っ込んで、逆に自分の手が引っ張られて仲良く四角の中へ浸かる。


うわっと総毛立つ忌避感と、もういっしっかり浸かっちゃえと言う捨て鉢な解放感とが、瞬時に激しくせめぎ合う。


きっと隣にじじが居たので、どうにか前者が勝った。


「駄目だって」と自分にも言い聞かせながら、残る腕でじじの肩を叩きたしなめ、意気を込めて全身の力で引く。


揃って水面から手が抜ける寸前、溢れ出る水の流れとは全く別の運動を感じた。


異物の頭部分から、足部分への縦方向に、何か細くて柔らかいぬるぬるした繊維状の群体が、指の間を強引に擦り抜ける感触があった。


長いもずくみたいな感触だった。


ぶつぶつと肌が粟立って、奥歯が疼いて噛み締める。水面から完全に手が抜ける。


酷い嫌悪感と一緒に、とても素敵な何かを永遠に逃して仕舞ったような、凄く切ない遣る瀬無さもあって、じじに何を言って良いか分からない。


お互い無言で手を振って水を払う合間に、巨岩の下から「もう帰るよ」とばば等が呼び寄せる声がする。傍のじじが「おおう」と応えつつ異物を裏返して水へ戻す。


異物はまた俯せでぐんにゃりと水に浮いて、僅かにぷかぷか上下しながら、至ってゆっくり突端の方へ流されて行く。


それでふと閃いて振り返ったのは、巨岩が突き出す斜面の根元、ふつう水が湧いて出るのは其処らだろうと想像される付近だ。


差し伸ばされた枝や茂みが被さって良く見えなかったが、積もった葉っぱの下を通じて水が伝っている其処は、せいぜい濡れるか湿るかの程度で、およそ乾いていそうに見えた。


つまり此処の水は全部あれから湧いてるんだ。


異様で気味が悪いのに、素晴らしくて貴重な気がする。


じじと自分が下へ戻ると、此処へ案内して呉れたじじとばばの1組が、こっそり目配せを寄越してしたり顔で脂下やにさがっている。


不思議な体験だった。その所為かまだ気分が落ち着かない。運よく取り留めたような、尻込みして失ったような、この不協和が何なのか、今すぐ戻って確かめたい、でも2度と行くべきでない。


ちぐはぐな思考にそわそわする頭の中の上の方で、あれが俯せにぷかぷか浮いてじゃばじゃば水を湧かせている。


湧いた水は自分を洗い流し、ひたひたに満たして、優しく幸せな感覚を綺麗に磨き上げている。


だんだん安堵に包まれる。


再び賑やかな帰りの車中、バックミラー越しに、ふと、じじと目が合った。


にっこり微笑みを浮かべると、じじも嬉しそうに目を細め頷き返して呉れた。


美味しい水が湧いている。


誰を誘おうかな。



終.

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湧き水 壱原 一 @Hajime1HARA

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