第2話
撤退の列は、果てしなく続いていた。
砦が陥ちた報せは瞬く間に広まり、軍は統制を失い、もはや敗残兵の群れに等しかった。疲弊した兵士たちは鎧を投げ捨て、重い槍を道端に放り出し、ただ生き延びるためだけに歩を進めている。
その中で、ただ一人背筋を伸ばす影があった。
セリナ。血で赤く染まった鎧を脱ぐことなく、黒鉄の槍を肩に担ぎ、黙々と歩いていた。
兵たちは彼女を見るたびに、小声でその名を呟いた。
「ヴァルキュリアだ……」
「まだ……生きていたのか」
その声には、畏怖と憧憬、そして救いを求める弱さが滲んでいた。
やがて列が足を止める。小川のほとり、焼けた林を背にした荒地。ここが今夜の野営地だった。
傷だらけの兵士たちは、草の上に崩れるように横たわった。呻き声とすすり泣きが混ざり、夜の帳が降りる前に敗北の影をさらに濃くする。
セリナは焚き火の前に立ち、剣を研ぐ兵の傍らに腰を下ろした。
「傷は?」
「……浅い。かすり傷だ」
「よかった。死ぬほどの傷を負った者は、もうここにはいないから」
セリナの声は淡々としていた。だが兵士は口を噤み、やがてぽつりと漏らした。
「……すまない。俺たちは逃げた」
「生き残った。それでいい」
短い言葉に、兵士は目を伏せた。
周囲の兵たちもまた、彼女の一言一句に耳を傾けていた。
敗北の中、なお生きる意味を見失わぬ者がここにいる。
彼女がいる限り、帝国はまだ滅んではいない――兵たちはそう錯覚するのだった。
その夜、天幕の中。セリナは自らの槍を膝に置き、布で血を拭いながら、独り言のように呟いた。
「勝てない戦を、どうして続けるのだろう」
焚き火の光が揺れ、彼女の横顔を朱に染める。
答えはわかっている。国のため。家族のため。倒れた仲間たちのため。
だが、それは真実の半分にすぎなかった。
セリナは思い返す。今日の戦場で、己の背を見てなお剣を振るった兵たちのことを。
彼らは命を燃やした。それは彼女が前に立ったからだ。
――自分が退けば、すべてが崩れる。
その重荷を背負うことが、ヴァルキュリアという名の意味だった。
「セリナ隊長」
声に振り向くと、年若い伝令兵が立っていた。まだ十四、五だろう。頬には涙の跡が乾いている。
「明日も……戦うのですか」
問いかけは震えていた。
セリナは微笑み、槍の石突きを軽く地に打ち付けた。
「戦場に立つ限り、戦う。それが兵だ」
「……勝てるのですか?」
一瞬、言葉に詰まる。
だが次の瞬間、セリナは静かに答えた。
「勝てぬ戦でも、戦い方次第で残せるものはある」
その言葉に、少年の瞳が揺れ、やがて小さな光が宿った。
夜が更け、遠くから狼の遠吠えが響く。
セリナは槍を抱えたまま天を仰いだ。星々は雲に隠れ、闇は深い。
それでも彼女は歩みを止めない。
敗北の夜にあってなお、一人の少女が「帝国の希望」として燃え続ける。
――その姿はやがて、兵たちの間で語り草となる。
「負け戦のヴァルキュリア」が最初に人々の記憶へ刻まれた夜は、こうして更けていった。
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