第2話 はじめまして

波の音に合わせて、木々がさらさらと揺れる。

夏の陽射しを浴びて砂浜はきらきらと光り、視界の先には青のグラデーションがどこまでも広がっていた。

潮風に混じる磯の香りは、都会の蒸し暑さよりもどこか心地よい。



「ひろーーーい!!パパ、ママ、見て見て!すごい広いよ!!」

「分かった!わかったから少し落ち着けあやか……!」

「ふふ、こうして海をじっくり見るのは初めてだもんね」


砂浜に足をつけた途端ピンクのビーチサンダルが飛び出す。元気な声と共に太陽に照らされたベージュブラウンが靡いた。


海岸の街 渚鳥町すどりちょう

海と山に抱かれた、小さな港町だ。

貨物船が出入りする港もあるけれど、今はただ、潮騒と夏の蝉が重なり合って町を包んでいる。

今日から、あやかの一家はこの町で暮らす。


そんな渚鳥町に一家族が引っ越してきた。海に駆けだす娘、あやかを慌てて追いかける父親とそれを見て微笑む母親、そんな三人家族が住むのは海岸沿いにある少し小さめなアパートだ。

父親に捕まったあやかは手を引かれつつも軽い足取りで新しい住処へ向かう。


無造作に置かれたダンボールと窓から見える海が光に磨かれたように輝く。部屋の数はリビングと寝室しかないものの、幼い子含む3人で住むには十分な広さだった。

あやかはダンボールの山から自分の名前を探し当て、大事なうさぎのぬいぐるみを取り出した。



「みてみてキューティーラビラビ!海が見えるよ〜!」

「……あやか、まずは荷解きなさい」

「ふふっ、いいのよ。新しいお家に慣れるのも大事だから」


父が苦笑し、母がやさしく笑った。

すると母親はするりと立ち上がり、あやかの肩に触れる。



「あやちゃん、一緒にお隣さんへご挨拶に行こっか」

「ごあいさつ?」

「そう。これからお世話にもなるだろうし、それにはじめましてって挨拶することは大切なことなの」

「ふぅん……」


優しく諭され手を引かれる。それに素直に頷くと父親に笑顔でお菓子を渡され頭を撫でられた。

あやかは大切にしているぬいぐるみをダンボールの上に置き、いってくるねと優しく声をかけた。

お気に入りのピンクのスニーカーを履き、母親の手をしっかり握って玄関を出る。ドアを開けると慣れない磯の匂いが鼻を擽った。熱っぽい風がじんわりと背中に湿りを集める。


あやかの部屋は角部屋なのでお隣さんは一組だけ。それでもまだ親と幼稚園の先生以外の大人と話す機会が少ないあやかは未知との出会いに緊張で身体がこわばる。


母がインターホンを押し、無機質な音が響く。

しばらくの沈黙の後、はい、と小さな返事が返ってきた。


出てきたのは胸まで伸びる黒い髪をなびかせた女性だった。目元を隠した重たい前髪、その下から覗く長いまつ毛と黒い瞳。鬱蒼とした雰囲気、それでもどこか心を惹かれる存在だった。


「はじめまして、本日から隣に引っ越してきました田中と申します。こちらつまらない物ですが」

「あ、ありがとうございます」



控えめな声のトーンと、春の日差しのような柔らかい声。自然と親和の心が流れる。

それと同時にゴン、と夜明けの鐘を打ち鳴らしたような重音が頭に響き渡った。既視感がふっと現れては消える。いつか遠い以前にどこかで見たことがあるような、有無を言わさず摘み取られた何かがじわじわと自分を蝕んでいく。


自分が自分じゃなくなるような未知な恐怖に思わず母親のスカートを握る。するとそれを受け取ったのか母親が優しく背中を撫でた。



「ほら、あやかも挨拶して」


そして、とん、と背中を押される。



ふわりとバニラの匂いがした。


心の底から湧き上がる懐かしさに思わず顔を上げる。深い暗闇の瞳と目が合った。


その瞬間、ずっとしまい込んでいたものが蓋を弾き飛ばして溢れ出た。周囲の景色はすっかりかすんで、音もどこか遠くに感じる。


「あ……」


過ぎ去っていく季節とその情景、そしてその優しい世界で何よりも美しいそのひと。その儚げで危うく手荒に扱うと砕け散ってしまいそうで、だけど芯があって強い。よく拗ねて、呆れ顔ばかりさせることが多かったけど時折向けてくれる楽しそうな笑顔が本当に愛しくて


『私』の懺悔の形をしている存在



「あーーーーーーーーーーーー!!!!!!」



前世の彼女、鈴木紗蘭本人であった。





◆◆◆


『今から帰るよ〜〜ん(*´З`)チュチュチュ』


最後のメッセージはこんなふざけたものだった。それでも呪いのようなその言葉を信じ続け、ずっと待った。もしかしたらまた変なサプライズをしようとして帰ってくるのが遅いのだと。

のこのこ家に帰ってきたら絶対ぶっ飛ばしてやるとまで思っていて



かえってきたのは、花に埋もれた貴方だった。

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