第16話
あの日、俺の腕の中でか細い身体を丸めていた少女――後に自らセレスティアと名乗ることになる彼女を、このアパートの一室に運び込んでから、指で数えるほどの日々が静かに流れ過ぎていった。俺が壮絶な消耗の果てに解き放った呪いの枷は、確かに彼女の魂から消え去っていた。それを証明するかのように、彼女の身体は、まるで乾いた大地が慈雨を吸い込むかのように、俺が作る滋養に富んだ食事を少しずつ、しかし確実に受け入れ始めた。死の淵をさまよっていたとは思えないほどの、驚異的な回復力。その生命力の強さは、彼女が本来、いかに強靭な魂の持ち主であったかを物語っているようでもあった。
血の気を取り戻し始めた頬。ほんのりと桜色を帯び始めた唇。そして、嵐が過ぎ去った後の湖面のように、穏やかで深く、安らかなものへと変わった寝息。それらの変化は、俺と、そしてアリシアやセルフィの胸を、確かに安堵の感情で満たしてくれていた。だが、その身体的な回復とは裏腹に、彼女の心は、依然として固く、厚い氷の壁の内側に閉じこもったままだった。
彼女は、眠っているか、あるいは、ただ虚空を見つめているか。そのどちらかの時間だけを、まるで壊れた自動仕掛けの玩具のように、ただひたすらに繰り返していた。俺たちが部屋に入っても、その澄み切った空色の瞳は、俺たちの姿を映すことはない。その視線は、常に俺たちの身体を通り抜け、その向こう側にある、俺たちには決して見ることのできない、絶望に満ちた過去の風景を、ただじっと見つめ続けているかのようだった。食事の時だけ、俺がスプーンをその口元へと運ぶと、雛鳥のように、反射的に、ごくわずかにその唇を開く。だが、そこに感情の動きは一切ない。ただ、生きるために、生命を維持するためだけの、機械的な運動。その行為が終われば、彼女は再び、自分だけの、静かで、色のない世界へと沈み込んでいってしまう。
そんな彼女の存在は、この狭いアパートの空気を、奇妙な形で支配していた。俺たちの間から、ごく自然な会話が消えた。アリシアの、いつもであれば部屋中に響き渡るような快活な笑い声も、今では潜められ、セルフィの、時折ぽつりと呟かれる示唆に富んだ言葉も、その鳴りを潜めた。俺たちは、まるで薄いガラスでできた、精巧な細工物の隣で生活しているかのように、自らの行動の一つ一つに、無意識の配慮を強いられていた。大きな物音を立てないように。彼女を驚かせないように。その繊細な精神を、これ以上傷つけることのないように。その息苦しいまでの静けさは、善意から生まれたものであったが故に、より一層、俺たちの肩に重くのしかかってくるようだった。
特に、その状況に最も苛立ちを募らせていたのは、おそらくアリシアだっただろう。彼女は、物事を真正面から捉え、その腕力と行動力で道を切り拓いていくことに慣れた人間だ。目の前に壁があれば、それを打ち破る。敵がいれば、斬り伏せる。その単純明快な生き方こそが、彼女の強さの源だった。だが、今のこの状況は、彼女がこれまで経験してきた、どんな強敵との戦いよりも、はるかに厄介なものだったに違いない。そこには、殴りかかるべき相手も、斬りつけるべき敵もいない。ただ、目に見えない、心の壁だけが、氷のように冷たく、そして高く、俺たちの前にそびえ立っている。
どうすればいいのか分からない、という無力感。それが、彼女の行動の端々に、焦燥という形で現れていた。意味もなく部屋の中を歩き回り、やがて自分の立てる足音の大きさに気づいて、慌てて動きを止める。何かを言おうとして口を開きかけ、しかし、かけるべき言葉が見つからずに、ただ唇を噛み締める。そして、夜、少女が眠りについたのを確かめた後で、俺のいるリビングの隅にやってきては、声を潜めて、しかし切実な響きを帯びた声で、俺に問いかけるのだ。
「…なあ、ケント。あの子、本当に大丈夫なのか? 呪いは、あんたが解いたんだろ? なのに、なんで、あんな…。まるで、魂が抜け殻になっちまったみたいじゃねえか」
その問いに、俺はいつも、的確な答えを返すことができなかった。
「…呪いが残した傷跡は、身体だけじゃない。魂に刻まれた記憶は、そう簡単には消えないんだろう」
俺に言えるのは、そんな、ありきたりな推測だけだった。俺の『吸収』の力は、呪いの術式構造を読み解き、分解することはできた。だが、その呪いが、彼女の心に、どれほど深く、そしておぞましい傷跡を残していったのか。その痛みの、本当の意味を、俺は理解することはできない。俺にできるのは、ただ、彼女が自らの力で、その傷を乗り越える日が来るのを、静かに待ち続けることだけだった。そんな俺の無力さが、アリシアの焦りを、さらに助長しているのかもしれない。俺は、彼女の苛立ちを、ただ黙って受け止めることしかできなかった。
一方のセルフィは、アリシアとは全く違うやり方で、この状況と向き合っていた。彼女は、無理に少女と関わろうとはしない。ただ、部屋の隅にある、窓から差し込む陽光が溜まる定位置に静かに座り、時には古びた革表紙の本を読み、時には森で摘んできたハーブの手入れをしながら、その視線だけを、常に少女の方へと向けていた。その翠の瞳には、アリシアが浮かべるような焦燥や、俺が感じるような無力感の色はない。そこにあるのは、ただ、純粋な観察者の眼差しだった。それは、森の中で、嵐によって翼を折られた小鳥が、再び飛び立つことができるようになるまで、ただ静かに、その回復の過程を見守る、賢者のそれに似ていたかもしれない。彼女は、理解していたのだ。魂の回復には、時間が必要なのだということを。そして、その過程において、周囲の人間にできることは、ただ、安全な環境と、静かな時間を提供し、その生命が持つ、本来の治癒力を信じて待つことだけなのだということを。彼女のその静謐な存在は、この張り詰めた空気のアパートの中で、俺にとって、唯一の救いとなっていた。
そして俺自身は、いつの間にか、この三人の中での自分の役割を、ごく自然な形で受け入れていた。それは、食事を準備する、という極めて単純で、しかし根源的な役割だった。朝、誰よりも早く起き、市場で仕入れた新鮮な食材を使って、その日のスープを煮込む。昼には、そのスープを温め直し、消化の良い粥と共に、少女の枕元へと運ぶ。そして夜には、ギルドでの依頼を終えて帰ってきたアリシアとセルフィのために、少しだけ手を加えた夕食を用意する。その一連の作業に、俺は、ほとんど無心で没頭していた。料理をしている間だけは、俺はこの部屋を支配する、重苦しい沈黙から解放されるような気がした。食材に触れ、その本質を『吸収』し、最適な調理法を考え、そして、自らの手でそれを形にしていく。その創造的なプロセスが、俺自身の心を、平穏に保つための、唯一の拠り所となっていた。俺は、彼女に、何かを求めてはいなかった。ただ、生きるためには、食べなければならない。その、生命の、最も基本的な法則に従って、俺は、淡々と、食事を作り続けた。それが、今の俺にできる、唯一のことであり、そして、全てだった。
◇
その日は、朝から小雨が降り続いていた。空は、厚い灰色の雲に覆われ、世界から色彩を奪い去ってしまったかのように、全てのものが、くすんだモノクロームの色合いをしていた。窓ガラスを伝う、無数の雨の筋を眺めていると、まるで自分自身の心までが、この湿っぽくて薄暗い空気の中に溶け込んでいってしまいそうな、そんな錯覚に襲われる。アリシアは、こんな天気では身体がなまる、と不満を漏らしながらも、珍しく、ギルドで知り合った仲間との飲み会に出かけていった。おかげで、アパートの中は、いつも以上に静かだった。聞こえてくるのは、屋根を叩く、単調な雨音と、暖炉の中で、湿った薪が、時折、ぱちり、と控えめな音を立てて爆ぜる音だけ。セルフィは、いつものように窓際の椅子に座り、膝の上で、小さな革袋を繕う作業に没頭している。その指先は、まるで蝶が舞うかのように、正確で、そして優雅に、針と糸を操っていた。
俺は、厨房で、昼食の準備をしていた。今日の献立は、鶏のささ身と、数種類の野菜を、米と一緒に、ことことと長時間煮込んだ、雑炊に近い、柔らかな粥だった。仕上げに、ほんの少しだけ、すりおろした生姜に似た、身体を温める効果のある薬草の根を加える。鍋から立ち上る、優しい湯気。その中に含まれる、米の甘い香りと、野菜の穏やかな香り、そして薬草の、鼻腔をかすかに刺激する、清涼な香り。それらが、この薄暗い部屋の空気を、少しだけ、温かいものに変えてくれているような気がした。
俺は、完成した粥を、深めの木の椀によそい、小さな盆の上に乗せた。そして、音を立てないように、慎重な足取りで、少女が眠る寝室へと向かう。彼女は、毛布を胸元まで引き上げ、静かな寝息を立てていた。その寝顔は、まるで無垢な子供のようで、数日前の、路地裏で絶望の縁にいた、あの虚ろな瞳の少女と、同じ人間であるとは、にわかには信じがたいほどだった。
俺は、寝台の脇に置かれた、小さな丸テーブルの上に、盆をそっと置いた。いつもならば、俺は、ここで踵を返し、彼女が自ら目を覚まし、食事に気づくのを、別の部屋で待つことにしていた。それが、俺たちの間の、暗黙のルールのようなものになっていた。だが、その日に限っては、なぜか、俺は、その場をすぐに立ち去ることができなかった。何かが、いつもと違う。そんな、予感にも似た、漠然とした感覚が、俺の足を、その場に縫い付けていた。
俺は、テーブルの脇に置かれていた、簡素な木の椅子を引き寄せ、そこに、静かに腰を下ろした。そして、ただ、黙って、彼女の寝顔を見つめ続けた。
どれほどの時間が、そうして過ぎていったのだろうか。五分か、あるいは、三十分か。時間の感覚は、この静寂の中では、その意味を失っていた。やがて、彼女の長い睫毛が、かすかに、ぴくりと震えた。そして、ゆっくりと、その瞼が、持ち上げられていく。
現れたのは、悲しいほどに澄み切った、空色の瞳だった。その瞳は、まだ、眠りの世界の余韻を引きずっているのか、どこかぼんやりとしていて、その焦点は、定まっていなかった。だが、やがて、その瞳が、自分のすぐそばにある、椀から立ち上る、温かい湯気の存在に気づいた。そして、次に、その湯気の向こう側に座っている、俺という人間の存在を、その視界に捉えた。
その瞬間、彼女の瞳に、ごくわずかな、しかし確かな、変化が生まれた。それは、恐怖でも、警戒でもなかった。ただ、純粋な、これは一体どういう状況なのだろう、という、戸惑いの色だった。俺は、彼女を驚かせないように、身じろぎ一つせず、ただ、静かに、彼女が見つめ返してくるのを待った。俺たちの間に、言葉はなかった。ただ、視線だけが、この薄暗い部屋の中で、静かに交差していた。
やがて、彼女の視線が、俺の顔から、再び、テーブルの上の粥へと、ゆっくりと移された。そして、彼女は、何かを、確かめるように、ごく、ごくゆっくりと、自分の上半身を、寝台の上で起こそうとした。その動きは、生まれたての小鹿のように、頼りなく、そしてぎこちない。俺は、手を貸すべきか、一瞬、迷った。だが、彼女が、自らの力で、何かをしようとしている。その、ささやかな、しかし確かな意志の芽生えを、俺は、尊重すべきだと感じた。
彼女は、何度か、力の入らない腕で寝台を押すのに失敗した後、ようやく、壁に背を預けるような形で、そのか細い身体を起こすことに成功した。その額には、玉のような汗が、いくつも滲んでいる。ぜい、ぜい、と、その小さな肩が、荒い呼吸に合わせて、大きく上下していた。
そして、彼女は、震える手で、盆の上に置かれていた、木製のスプーンを、掴み取ろうとした。だが、その指先は、思うように動かないらしい。スプーンは、彼女の指の間をすり抜け、かちゃん、という小さな音を立てて、盆の上に転がり落ちてしまった。
その、ささやかな失敗が、彼女の心に、どれほどの絶望感をもたらしたのか。俺には、想像することしかできない。彼女の顔が、くしゃりと、歪んだ。その空色の瞳が、みるみるうちに、涙の膜で潤んでいく。そして、その、これまで何の感情も映し出すことのなかった唇が、わなな、と震え始めた。
ああ、まずい。俺は、彼女を追い詰めてしまったのかもしれない。俺が、ここにいるべきではなかったのだ。そう、後悔の念が、俺の胸を締め付けた、その時だった。
彼女は、俺の方を見た。その、涙で潤んだ瞳で、真っ直ぐに、俺の目を。そして、その、震える唇から、か細い、ほとんど吐息のような声が、紡ぎ出された。
「……あ…りが…とう……」
それは、音として、かろうじて認識できるほどの、小さな、小さな声だった。長い間、使われることのなかった声帯が、錆びついた楽器のように、軋みながら、ようやく絞り出した、一つの、言葉。
ありがとう。
その一言が、この部屋を支配していた、凍てついた空気を、まるで春の陽光が、分厚い氷を溶かすかのように、打ち破った。俺は、その言葉の意味を、すぐには理解することができなかった。ただ、その、あまりにもはかなく、そして、あまりにも切実な響きだけが、俺の鼓膜を、そして、俺の魂を、直接、震わせた。
俺は、何も言うことができなかった。ただ、ゆっくりと、そして深く、頷き返すことしか。
その俺の反応を見て、彼女の瞳から、それまで、どうにか堪えていたのであろう、大粒の涙が、一筋、また一筋と、その青白い頬を伝い落ちていった。それは、悲しみの涙ではなかった。それは、絶望の涙でもなかった。それは、おそらく、彼女が、この世界で、再び、誰かと繋がることができた。その、ささやかな奇跡に対する、安堵の涙だったのだろう。
俺は、静かに席を立つと、彼女が落としたスプーンを拾い上げた。そして、椀の中から、温かい粥を、少量だけすくい上げると、それを、彼女の唇へと、そっと運んでいった。
彼女は、今度は、拒まなかった。その小さな唇が、ゆっくりと開かれ、スプーンを、優しく迎え入れた。
◇
その日の夕方、飲み会から戻ってきたアリシアは、アパートの扉を開けた瞬間、その場の空気が、これまでとは全く違うものになっていることに、すぐに気づいたようだった。彼女は、酔いも一気に醒めたかのような、きょとんとした顔で、リビングの光景を、ただ、呆然と見つめていた。
無理もないだろう。そこには、数時間前まで、この部屋を支配していた、あの息苦しいほどの静寂は、もはやどこにも存在していなかったからだ。
暖炉の前では、俺と、少女が、小さなテーブルを挟んで、向かい合って座っていた。テーブルの上には、チェスによく似た、この世界独自の盤上遊戯の盤が広げられている。俺が、先日、市場の古道具屋で、暇つぶしのために手に入れたものだ。少女は、まだ、自ら言葉を発することはほとんどない。だが、彼女は、俺が指し示す駒の動きを、真剣な、そして、どこか楽しそうな表情で、じっと目で追っていた。その頬には、健康的な血の色が戻り、その空色の瞳には、これまで決して見ることのできなかった、生き生きとした好奇の光が、確かに灯っていた。
そして、部屋のもう一方の隅、窓際の定位置では、セルフィが、静かに、ポットから湯気の立つ液体を、三つのカップへと注いでいた。それは、彼女が森で摘んできた、心を落ち着かせ、安らかな眠りを誘う効果のある、数種類のハーブをブレンドした、特別なハーブティーだった。その、甘く、そして優しい香りが、部屋全体を、穏やかな空気で満たしていた。
アリシアは、しばらくの間、その信じられない光景を、声もなく見つめていたが、やがて、状況を理解したのだろう。彼女の顔に、いつもの、太陽のような、快活な笑みが、満開の花のように、ぱっと咲いた。
「…なんだい、なんだい! あたしがいない間に、ずいぶんと、楽しそうなことになってるじゃねえか!」
彼女は、わざと、いつも以上に大きな声でそう言うと、俺たちのそばに、どかりと腰を下ろした。そして、少女の頭を、大きな手で、わしわしと、少し乱暴に撫で回した。
「ようやく、お目覚めってわけかい、お嬢ちゃん! まあ、無理すんなよ。ゆっくり、やっていきゃいいさ。腹が減ったら、ケントに美味い飯を作ってもらえ。眠れなくなったら、セルフィがおまじないでもかけてくれるだろう。あたしは…まあ、なんだ。何か、悪い奴に絡まれたりしたら、いつでも言え! このあたしが、一発で、叩きのめしてやるからな!」
その、あまりにも彼女らしい、不器用で、しかし、心の底からの優しさに満ちた言葉。それを聞いた少女は、一瞬、驚いたように目を丸くしたが、やがて、その唇の端に、ほんの、ほんのかすかではあったが、確かな、微笑みの形が、浮かんだ。
それは、この部屋に、新しい光が灯った、瞬間だった。
俺たちは、まだ、彼女の名前さえも知らない。彼女が、なぜ、あのような姿で、路地裏に倒れていたのかも。そして、彼女の魂を蝕んでいた、あのおぞましい呪いの正体も。だが、そんなことは、今は、どうでもいいことのように思えた。
ただ、確かなことが一つだけあった。
それは、この時から、この俺のアパートは、もはや俺一人の城ではなくなったことだった。
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