第15話

 降りしきる雨は、天がその底を抜いてしまったかのような、凄まじい勢いを保ったままだった。俺の小さなアパートに運び込まれた少女は、ひとまず俺の寝台の上にそっと横たえられていた。アリシアが手早く暖炉に火を熾し、パチパチと乾いた薪の爆ぜる音が、部屋に満ちる重苦しい沈黙の中に、かろうじて生命の営みを思わせる唯一の音色を響かせている。だが、その暖かな光と熱気さえも、寝台に横たわる少女の周囲にだけは届いていないかのように、彼女の周りだけが、まるで時間が凍り付いてしまったかのような、絶対的な冷気に支配されているように感じられた。

 俺が路地裏で彼女にかけた外套は、今や泥と雨でその役目を終え、床の隅に無造作に脱ぎ捨てられている。代わりに、俺が予備として持っていた清潔な毛布が、そのか細い身体を覆っていた。だが、毛布の厚みなどまるで意味をなさないかのように、彼女の身体は、小刻みに、しかし絶え間なく震え続けていた。それは、寒さからくる震えとは明らかに質が違った。もっと内側から、生命そのものが蝕まれていく過程で発せられる、魂の痙攣とでも言うべき、痛々しい律動だった。固く閉じられた瞼は、外界からのあらゆる刺激を、そしておそらくは救いの手さえも拒絶するという、固い意志を示しているかのようだ。その下に隠された瞳に、かつてどんな色の光が満ちていたのか、今の俺には想像することさえ難しかった。


「おい、ケント。やっぱり、街の診療所から医者を呼んでくるべきだ。どう見ても、ただの風邪や衰弱じゃ済まされねえぞ。このままじゃ、朝まで保たねえかもしれねえ」


 アリシアが、焦燥を滲ませた声で俺に詰め寄った。その碧眼には、目の前の小さな命を救いたいという純粋な善意と、得体の知れない状況に対する苛立ちが、複雑な模様を描いている。彼女の言うことは、この世界の常識に照らし合わせれば、あまりにも正論だった。パーティのリーダーとして、そして一人の人間として、彼女の判断は正しい。だが、俺は、その提案に、静かに首を横に振ることしかできなかった。


「…無駄だ」


 俺の口からこぼれ落ちたのは、自分でも驚くほどに、感情の温度を失った、冷たい響きを持つ言葉だった。

 俺の返答に、アリシアの表情が、不満と不信で険しいものに変わる。


「無駄だぁ? お前さん、何言ってやがる!やってみなきゃ、分からねえだろうが!見殺しにするってのか!」


「…医者、意味ない」


 激昂するアリシアの言葉を遮るように、それまで黙って少女の枕元に佇んでいたセルフィが、ぽつりと呟いた。その声は、いつものように抑揚に乏しいものだったが、その一言には、有無を言わせない確信が込められている。彼女は、その深い森の湖面を思わせる翠の瞳で、じっと少女の顔を見つめていた。その視線は、まるで薄い皮膜の向こう側にある、少女の魂の本質そのものを見透かそうとしているかのようだ。


「…この子の病は、身体のものじゃない。魂が、泣いてる。黒い何かに、絡め取られてる」


 セルフィの言葉は、詩的で、曖昧な響きを持っていた。だが、それは、俺が先ほど彼女に触れた瞬間に『吸収』によって得た、おぞましい情報の奔流を、彼女なりの感受性で的確に言い当てたものだった。俺は、改めて、このエルフの持つ、自然の理と調和した鋭敏な感覚に、内心、感嘆を覚えていた。

 この状況で、俺の胸の内を占めていたのは、目の前の少女に対する憐憫の情だけではなかった。それ以上に、もっと利己的で、そして切実な焦燥感が、俺の思考を支配していた。この呪いを、このまま放置するわけにはいかない。それは、単に一つの命を見捨てるという人道的な問題に留まらない。俺が『吸収』によって読み解いたこの呪いの本質は、この少女の死を最終トリガーとして、その悪意を周囲一帯に撒き散らすという、あまりにも悪辣なものだった。もしこのまま彼女が息絶えれば、凝縮された呪詛は、目に見えない疫病となってこのアークライトの街に蔓延するかもしれない。人々は理由もなく苛立ち、互いを疑い、些細なことで争い始める。俺がようやく手に入れた、アリシアやセルフィとの、あの温かくて穏やかな日常。気の置けない仲間と食卓を囲み、他愛もないことで笑い合う、かけがえのない時間。その全てが、この呪いがもたらす精神汚染によって、根こそぎ破壊されてしまう。俺の求める平穏な生活は、この少女の命運と、今や完全に分かちがたく結びついてしまっていたのだ。

 俺は、二人に向き直ると、できるだけ落ち着いた声で、しかし、一切の反論を許さないという強い意志を込めて、告げた。


「これは、医者の手には負えない。俺が、やる」


 その言葉は、もはや相談でも、提案でもなかった。それは、この名も知らぬ少女の運命と、そして俺自身の平穏な未来に、俺の全てを賭けて介入するという、一方的な決定宣告だった。アリシアは、俺のそのただならぬ気配に何かを感じ取ったのだろう。彼女は、なおも何かを言い返そうとして開きかけた口を、固く引き結んだ。その表情には、納得しきれないながらも、今の俺に何を言っても無駄だという諦観と、そして、仲間である俺を信じようとする、複雑な葛藤が浮かんでいた。



 アリシアには、万が一の事態に備えて、扉の外で見張りに立ってくれるよう頼んだ。彼女は、最後まで渋い顔をしていたが、最終的には「…無茶だけは、するんじゃねえぞ」という、姉が弟を案じるような一言を残して、静かに部屋を出て行った。扉が閉められ、部屋の中には、俺と、セルフィと、そして寝台に横たわる少女の三人だけが残された。暖炉の炎が落とす揺らめく光が、壁に俺たちの長い影を映し出し、まるでこれから始まる儀式のための、厳かな舞台装置のようにも見えた。

 俺は、セルフィに向き直った。彼女の翠の瞳は、静かに、そして真剣に、俺の次の言葉を待っている。


「セルフィ。これから、俺がやることに、疑問を挟まずに、ただ力を貸してほしい」


 俺は、ゆっくりと、言葉を選ぶようにして続けた。


「この子に取り憑いている『呪い』を、俺が剥がす。だが、その間、この子の生命力は、極限まで削られることになるだろう。君の魔法で、この子の命が尽きないように、支え続けてほしいんだ。できるか?」


 俺の口から『呪い』という、具体的な単語が出たことに、セルフィの瞳が、ごくわずかに見開かれた。彼女は、俺がなぜ、そこまで正確に状況を把握しているのか、問いたかったに違いない。だが、彼女は、その疑問を、沈黙の中に飲み込んだ。俺の、全てを覚悟したような眼差しから、今が、そんな詮索をしている場合ではないことを、瞬時に理解したのだろう。彼女は、多くを語る代わりに、その手に握られた白木の杖を、こつり、と一度、床に強く突き立てた。それは、彼女なりの、最も雄弁で、そして力強い肯定の返事だった。


 覚悟は決まった。

 俺は、寝台の脇に膝をつくと、目を閉じて、深く、長く、呼吸を繰り返した。吸って、吐いて。思考の雑音を消し去り、意識を、俺の内なる力の源泉へと、深く沈めていく。これから行うのは、料理や、道具作りとは、全く次元の異なる、危険な作業だ。俺の持つ『融合』の権能を、創造のためではなく、破壊と分解のために行使する。それは、術式の構造を原子レベル、あるいは情報レベルで完全に理解していなければ、対象である少女の魂そのものを、呪いごと破壊しかねない、あまりにも繊細で、そして暴力的な行為だった。

 俺は、自分の右の手のひらを、少女の冷たい額の上に、そっと置いた。ひやりとした、生命感の乏しい感触。だが、その皮膚のすぐ下で、おぞましい黒い何かが、まるで意志を持っているかのように、蠢いているのが、俺には分かった。

 俺は、本格的に『吸収』の能力を解放した。今回は、ただ情報を読み解くだけではない。その情報の構造そのものに、俺の意識を深く介入させ、その支配権を奪い取るのだ。

 脳内に、再びあの情報の奔流が、今度は津波のような勢いで押し寄せてきた。少女の記憶、感情、そして、その魂の最も深い場所に巣食う、呪いの術式の全貌。それは、無数の、悪意に満ちた棘を持つ、黒い茨のようだった。その茨は、少女の、家族に愛された温かい記憶、聖女として人々に尽くした誇らしい記憶、その全てに深く食い込み、それらを、絶望と、自己嫌悪と、人間不信という、負の感情へと強制的に書き換えていく。そして、その負の感情を養分として、さらに深く、広く、その根を張り巡らせていくのだ。なんと悪辣で、完成された術式だろうか。

 俺は、その茨の中心、全ての呪いの起点となっている核の部分に、俺の意識の全てを集中させた。そこには、やはり、あの紋章が、まるで製作者の傲慢な署名のように、禍々しい光を放って刻まれていた。光を象徴する、複雑な幾何学模様。そして、その中央に鎮座する、一羽の、翼を広げた純白の鳥。

 俺は、その紋章に向かって、俺の持つ力の全てをぶつけることを決意した。


 『融合』の逆転行使――すなわち、『分解』。


 俺は、その術式を構成する、情報の連なりを、一つ、また一つと、強引に引き剥がしにかかった。


「――っ!」


 瞬間、少女の身体が、まるで弓のように、大きくしなった。固く閉じられていたはずの瞼がカッと見開かれ、その虚ろだったはずの瞳の奥から、純粋な憎悪と恐怖に満ちた、黒い光が迸る。


「…セルフィ!」


 俺の叫びに、待機していたセルフィが即座に反応した。彼女は、杖の先端に埋め込まれた宝玉を少女に向け、静かだが、森の奥深くにある泉の清冽さを思わせるような、澄んだ声で、古エルフ語の癒やしの呪文を紡ぎ始めた。彼女の杖から、柔らかな、青緑色の光が溢れ出し、まるで優しい繭のように、暴れる少女の身体を包み込んでいく。それは、直接的に呪いを攻撃するものではない。ただ、少女のか細い生命の灯火が、呪いの最後の抵抗によって吹き消されてしまわないように、その根元を、清浄なマナで支え続ける、守りの魔法だった。

 呪いの抵抗は、想像を絶するものだった。俺が術式の解体を進めるたびに、部屋の中では、常識では説明のつかない現象が次々と巻き起こり始めた。どこからともなく、冷たい風が吹き荒れ、暖炉の炎が、まるで恐怖に怯えるかのように、激しく揺らめく。壁や天井には、おぞましい影が、蠢くように現れては消え、少女自身のものとは思えない、怨嗟に満ちた低い声が、部屋の四隅から響き渡った。少女の身体からは、まるで汗のように、黒く、粘り気のある靄のようなものが、じわりと滲み出し、それは、鼻をつくほどの、腐臭を放っていた。俺の精神にも、呪いは直接的な攻撃を仕掛けてきた。脳裏に、おぞましい幻視がよぎる。この呪いが解放されたアークライトの街。市場で、人々が些細なことで殴り合い、武器を手に憎悪をぶつけ合っている。友人同士が裏切り、家族が互いを罵り合う。俺の知る、活気に満ちたあの街が、疑心暗鬼と暴力に満ちた地獄へと変貌していく光景。その中心で、アリシアとセルフィが、血に濡れて倒れている。やめろ。俺は、歯を食いしばり、精神の全てを、この作業に注ぎ込み続けた。これは、この子一人の問題じゃない。俺たちの居場所を守るための戦いだ。複雑に絡み合った、悪意の結び目を、一つ、また一つと、根気強く解きほぐしていく。それは、嵐の海の中で、一本の、か細い蜘蛛の糸をたぐり寄せるような、あまりにも困難で、そして絶望的な作業だった。俺の額からは、脂汗が流れ落ち、鼻の奥で、ぷつり、と毛細血管が切れる感触があった。生温かい液体が、俺の唇を濡らす。だが、俺は、手を止めるわけにはいかなかった。

 セルフィの顔にも、疲労の色が濃く浮かび始めていた。彼女の額にも、玉のような汗が滲み、その唇は、呪文を紡ぎ続けるために、乾ききっている。だが、彼女は、決して、その癒やしの光を絶やそうとはしなかった。その翠の瞳には、仲間である俺への、そして、見ず知らずの少女の命への、揺るぎない献身の色だけが、灯っていた。

 そして、ついに、俺は、呪いの根源、あの鳥の紋章が刻まれた、術式の核へとたどり着いた。俺は、残された全ての精神力を、その一点へと集約させ、これまでで最強の『分解』の意志を、叩きつけた。


 世界から、音が消えた。


 俺の意識の中で、ガラスが砕け散るような、甲高い音が響き渡ったような気がした。それと同時に、少女の身体から立ち上っていた黒い靄が、まるで断末魔の悲鳴を上げるかのように、一度、大きく膨張し、そして、次の瞬間には、跡形もなく、霧散していった。

 部屋を吹き荒れていた冷たい風は、ぴたりと止み、蠢いていた影も、怨嗟の声も、嘘のように消え去っていた。後に残されたのは、暖炉の薪が、静かに爆ぜる音と、俺とセルフィの、荒い呼吸の音だけ。

 呪いは、解かれた。

 その事実を認識した瞬間、俺の身体を支えていた最後の緊張の糸が、ぷつりと切れた。俺は、疲労困憊のあまり、その場に、崩れるようにして、床へと倒れ込んだ。遠のいていく意識の片隅で、セルフィが、俺の名前を、か細い声で呼んでいるのが、聞こえたような気がした。…終わった。…これで、あの子も…この街も、俺の日常も…守れたんだ…。



 どれほどの時間が経ったのか。俺が、床の冷たさで意識を取り戻した時、部屋の中は、完全な静寂に包まれていた。俺は、軋む身体をゆっくりと起こし、寝台の方へと視線を向けた。

 少女は、そこに、静かに眠っていた。先ほどまでの、魂が絶叫しているかのような、痛々しい痙攣は、完全に収まっている。その寝顔は、まだ青白く、血の気は戻っていない。だが、その呼吸は、嵐が過ぎ去った後の湖面のように、驚くほどに穏やかで、そして深く、安らかなものへと変わっていた。

 呪いは、確かに消え去った。だが、彼女の身体は、その壮絶な戦いの代償として、極限まで生命力を消耗しきっている。このままでは、呪いとは別の理由で、彼女は、夜を越せないかもしれない。

 俺は、壁に手をつきながら、ふらつく足取りで立ち上がると、ほとんど無意識のうちに、厨房へと向かっていた。身体は、鉛を飲み込んだかのように重く、頭の芯が、ずきずきと痛む。だが、俺の心の中には、一つの、明確な衝動があった。この子に、温かいものを、食べさせてやらなければならない。生命の、温もりを、その身体の内側から、もう一度、灯してやらなければならない。それは、失われかけた一つの命を救う行為であると同時に、俺自身が守り抜いた、かけがえのない日常を取り戻すための、最初の一歩でもあった。

 俺は、先日作り置きしておいた、万能香辛料の小瓶を手に取った。そして、保存してあった鶏肉と、いくつかの野菜を、手早く鍋に入れ、ゆっくりと火にかける。やがて、厨房に、滋養に満ちた、優しい香りが立ち上り始めた。俺は、その鍋の中に、仕上げとして、あの香辛料を、ほんの少しだけ、振り入れた。その瞬間、香りは、ただの美味しそうな匂いから、まるで、それ自体が生命力を持っているかのような、魂を直接呼び覚ます、芳醇な芳香へと、その質を変えた。

 その匂いに、誘われたのだろうか。俺が、完成したスープを、小さな木の椀によそい、寝室へと戻ると、寝台の上で、少女の瞼が、かすかに、ぴくりと動いたのが見えた。

 俺は、寝台の脇に、再び腰を下ろした。そして、木製のスプーンに、黄金色に輝くスープを、ごく少量だけすくい上げると、それを、少女の、乾いた唇へと、そっと運んでいった。

 最初は、かすかな抵抗があった。長期間、何も受け付けなかった身体が、外部からの異物を、反射的に拒絶しようとしているかのようだ。だが、スープの、温かい湯気が、その唇に触れた、その瞬間。彼女の身体から、ふっと、最後の力が抜けていくのが、俺には分かった。

 俺は、ゆっくりと、スプーンを傾けた。温かい液体が、彼女の唇の間から、その内側へと、静かに流れ込んでいく。一口、また一口。それは、単なる栄養補給ではなかった。それは、俺が、この世界で手に入れた力の全てを注ぎ込んで作り出した、生命そのもののエッセンスだった。それが、彼女の、凍てつき、荒れ果てた魂の大地に、温かい雨のように、ゆっくりと、しかし確実に、染み渡っていく。

 やがて。

 固く閉じられていた、彼女の瞳から、一筋、透明な雫が音もなく、その頬を伝い落ちた。


 それは、悲しみの涙ではなかった。絶望の涙でもなかった。


 俺、そして、アリシアとセルフィは、ただ、息を詰めて、その光景を見つめていることしかできなかった。

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