第14話

 一歩、また一歩と、俺の足はまるで自分の意思とは無関係に動いているかのように、その薄暗い路地の入り口へと近づいていく。叩きつけるような雨は、俺の視界を白く煙らせ、思考さえも洗い流してしまいそうなほどの、単調で暴力的な音を世界に満たしていた。背後から、アリシアの訝しげな、あるいは制止しようとする気配を感じたが、今の俺には、それを振り返る余裕はなかった。俺の意識の全ては、前方、泥水の中に横たわる、あの正体不明の塊に集中していた。それは、強い磁力を持つ鉄塊に引き寄せられる砂鉄のように、抗いがたい力で俺を前へと進ませていた。


 路地の入り口に到達し、その塊を間近に見下ろした時、俺の予感が、いや、観察眼が導き出した推論が、冷徹な事実であったことを確認した。それは、やはり、人間だった。それも、まだ成熟しきっていない、か細い身体を持つ一人の少女だった。


 年の頃は、俺よりもいくつか下だろうか。正確な年齢を推し量ることは、もはや困難だった。その身体は、生命の輝きとでも言うべきものを、ほとんど失いかけているように見えたからだ。長く、そして本来であれば美しいはずの銀色の髪は、今は降りしきる雨と、路地の泥にまみれて、重く、くすんだ灰色の束と化している。その髪が、まるで水草のように、彼女の顔や首筋に無惨に張り付いていた。身にまとっているのは、衣服と呼ぶのもはばかられるほどに擦り切れ、至る所が裂けた、薄い布切れだけだった。その破れた隙間から覗く肌は、健康的な血の色を失い、まるで上質な蝋細工のように、青白い透明感を帯びている。何日もの間、まともな食事を口にしていないのだろう。手足は、枯れ枝のように細く、そのか細い身体の輪郭は、濡れた布の下からでも、痛々しいほどに浮き出て見えた。


 彼女は、路地の壁に背を預けるようにして、その場にぐったりと身体を沈ませていた。激しい雨が、その小さな身体を容赦なく打ち据えている。だが、彼女は、その冷たさや痛みに反応する様子さえ見せなかった。まるで、自分に降りかかる全ての苦痛を、世界の理の一部として、ただ甘んじて受け入れているかのようだ。その姿は、嵐の中で打ち捨てられた、壊れた玩具のようでもあった。かつては誰かに大切にされ、温かい光の中で微笑んでいたのかもしれない。だが、今は、その全ての記憶を奪われ、ただ、無慈悲な現実の中に、無防備に晒されている。


 だが、何よりも俺の意識を強く捉えて離さなかったのは、その瞳だった。わずかに開かれた瞼の隙間から覗く、その双眸。そこには、いかなる光も宿ってはいなかった。喜びも、悲しみも、怒りも、そして恐怖さえも。あらゆる感情が燃え尽きた後に残る、完全な無。それは、虚ろ、という言葉ではあまりにも生ぬるい、もっと根源的な、魂の空洞とでも言うべきものだった。まるで、世界の全ての色彩が、その瞳の奥にある一点へと吸い込まれ、永遠の闇へと消え去っていくかのようだ。あらゆる希望を諦観し、自らの生を放棄し、ただ、静かに、世界の終わりが訪れるのを待っているかのような、深い、深い絶望の色。その瞳に見つめられていると、俺自身の存在さえもが、その底知れない闇の中へと引きずり込まれてしまいそうな、錯覚に襲われた。


 俺は、探求者だ。未知の物事を分析し、その本質を理解することに、何よりも喜びを見出す。だが、今、俺の目の前にあるこの絶望は、俺のいかなる知識をもってしても、理解することも、分析することもできない、あまりにも巨大で、そして圧倒的な存在だった。これは、俺がこれまで対峙してきた、どんな古代の謎や、難解な術式よりも、はるかに根源的で、そして不可解な『現象』だった。


 どうして、こんなことになるまで、彼女はここにいたのか。誰かが、彼女をここに置き去りにしたのか。あるいは、彼女自身の足で、この場所にたどり着き、そして、力尽きたのか。様々な疑問が頭の中を駆け巡る。だが、そんなことは、もはやどうでもいいことのように思えた。理由が何であれ、現実は一つだ。今、俺の目の前で、一つの命が、音もなく、静かに消え去ろうとしている。その事実だけが、揺るがしようのない重みをもって、そこに存在していた。


 俺の身体は、ほとんど衝動的に動いていた。そこには、逡巡も、計算も、そしてためらいも、一切介在する余地はなかった。俺は、雨で重くなった自分の外套を、乱暴に脱ぎ捨てた。内側にこもっていた、わずかな体温が、冷たい外気に触れて、一瞬にして奪い去られていく。そして、そのまだ温もりの残る外套を、俺は、少女の冷え切った身体の上に、そっと、しかし隙間なく覆いかぶせた。


 俺の唐突な行動に、背後で息を呑む気配がした。アリシアか、セルフィか。おそらく、二人ともだろう。彼女たちは、俺の行動の意図を測りかねて、戸惑っているに違いなかった。


「…おい、ケント!お前さん、いったい、何を…!」


 アリシアの、咎めるような、それでいて心配するような声が、激しい雨音の向こうから、くぐもって聞こえてきた。だが、俺は、その声に答えることなく、次の行動へと移っていた。


 俺は、少女の前に深く膝をついた。ぬかるんだ泥水が、ズボンの膝を汚す感触があったが、気にもならなかった。そして、俺は、自分の両腕を、外套ごしに、少女の華奢な身体の下へと、慎重に差し入れた。俺の腕に伝わってきたのは、信じられないほどの軽さと、そして、生命あるものとは思えないほどの、氷のような冷たさだった。まるで、冬の川底に沈んでいた石を拾い上げたかのような、無機質で、ずっしりとした冷気。その冷たさが、俺の肌を通して、直接、俺の身体の芯へと突き刺さってくるようだった。


 俺は、ゆっくりと、しかし確かな力で、彼女の身体を泥水の中から抱き上げた。その瞬間、少女の身体が、ぴくりと、ごくわずかに強張ったのが、腕を通して伝わってきた。外界からの、予期せぬ接触に対する、最後の、そして唯一の拒絶反応だったのかもしれない。だが、その抵抗は、あまりにも弱々しく、はかないものだった。俺は、構わず、彼女の身体を自分の胸元へとしっかりと引き寄せる。外套の厚い生地ごしに、彼女の、ほとんど感じられないほどの、微かな呼吸の振動が、俺の胸に伝わってきた。


 俺が、その場でゆっくりと立ち上がった時、アリシアとセルフィは、俺のすぐそばまで近づいてきていた。彼女たちの顔には、一様に、驚きと困惑の色が浮かんでいる。


「…ケント、お前さん、本気かい?そいつを、どうするつもりなんだ?」


 アリシアの問いかけは、もっともなものだった。身元も分からず、今にも事切れそうな少女を、ずぶ濡れのまま抱きかかえている男。それは、誰の目から見ても、常軌を逸した光景に違いなかった。俺が、その問いにどう答えるべきか、言葉を探していると、それまで黙って俺の行動を見つめていただけのセルフィが、静かに一歩、前に出た。彼女の視線は、俺の腕の中にいる少女の、泥に汚れた顔に、じっと注がれている。そして、やて、その翠の瞳が、何かを見抜いたかのように、わずかに細められた。


「…この子。ただ、弱っているだけじゃない」


 ぽつりと、彼女が呟いた。その声は、いつもよりも低く、そして、どこか張り詰めた響きを帯びていた。


「…何か、悪いものが憑いてる。マナの流れが、おかしい。生命の力が、内側から、何か黒いものに喰われてる…」


 彼女の言葉に、アリシアが、はっとしたように息を呑んだ。


「呪い…ってことかい、セルフィ?」


「…分からない。でも、とても、邪悪な気配」


 セルフィの言葉は、俺が、この少女を抱き上げた瞬間に、直感的に感じ取っていた事実を、的確に裏付けるものだった。


 そうだ。俺は、知っていた。この少女が、ただの衰弱や、飢えや、寒さだけで、ここまで追い詰められているのではないことを。


 俺の右腕の掌が、彼女の背中に触れた、その刹那。俺の意思とは無関係に、俺の持つ能力『吸収』は、無慈悲に、そして自動的に発動していた。脳内に流れ込んできたのは、いつものような、物質の構成成分や、その履歴といった、無機質なデータの奔流ではなかった。それは、もっと混沌としていて、悪意に満ちた、おぞましい情報の塊だった。


 少女の身体を構成する、細胞の一つ一つ。その生命活動を司る、マナの流れ。その全てに、まるで黒い粘液状の何かが、深く、そして複雑に絡みついているのが、俺には見えた。それは、生きている寄生体にも似ていた。少女の生命力を、その魂そのものを糧として、少しずつ、しかし確実に、その勢力を拡大させている、悪性のエネルギー体。それは、少女の精神を蝕み、希望を奪い、思考を麻痺させ、そして、最終的には、その存在の全てを、内側から食い尽くそうとしていた。


 だが、問題はそれだけではなかった。この呪いの本当の恐ろしさは、その先にある。俺の脳内に描き出された術式の構造図は、その最終段階について、冷徹な事実を告げていた。この呪いは、宿主である少女の生命活動が完全に停止した瞬間、その役割を終えるのではない。むしろ、その死こそが、最後の引き金なのだ。少女の魂を喰らい尽くし、その絶望を極限まで凝縮させた悪意の塊は、彼女の死体を依り代として、周囲一帯に、まるで悪性の胞子のように、その呪いを撒き散らすように設計されていた。それは、物理的な毒ではない。もっと悪質な、人々の精神に直接作用し、不安を煽り、疑心暗鬼を生み、争いの火種を撒き散らす、精神的な汚染だ。もし、この街の中心で、この呪いが解放されるようなことがあれば、どうなるか。俺がようやく手に入れた、このアークライトでの平穏な日常は、間違いなく、根底から覆されることになるだろう。


 俺の脳内には、その『呪い』とでも言うべきものの、詳細な構造図が、俺の意思とは無関係に、描き出されていく。それは、この世界のいかなる魔法体系にも属さない、極めて異質で、そして高度な術式によって構築されていた。特定の条件下でのみ発動し、対象の精神的な弱さに付け込み、その負の感情を増幅させることで、自己増殖していく、悪辣なプログラム。その術式の複雑さと、込められた悪意の深さに、俺は、思わず背筋が凍るような感覚を覚えた。これは、個人の憎悪といった、生半可な感情から生み出されたものではない。もっと大きな、組織的な、そして冷徹な計算に基づいた、計画的な犯行だ。この少女を、ただ殺すのではなく、その尊厳の全てを奪い去り、生きたまま、ゆっくりと絶望の淵へと突き落とすことだけを目的とした、あまりにも残忍な呪い。


 そして、その情報の奔流の最後に、俺は、一つの、象徴的な『印』のイメージを垣間見た。それは、光を象徴する、複雑な幾何学模様。そして、その中央に刻まれた、一羽の、翼を広げた純白の鳥の紋章。それが、この呪いの術式に、製作者の署名のように、深く刻み込まれていた。


 その紋章が、何を意味するのか。今の俺には、知る由もなかった。だが、その神聖ささえ感じさせる意匠と、この呪いの持つ底知れない邪悪さとの、あまりにも大きな乖離が、俺の胸に、言いようのない、重苦しい塊となって、のしかかってきた。


 これだけの情報を、俺は、ほんの数秒の接触で、完全に理解してしまった。だが、俺は、その事実を、おくびにも出すことはできなかった。アリシアにも、そして、鋭いセルフィにさえも、悟られるわけにはいかない。俺は、自分の内側で荒れ狂う情報の嵐を、冷静沈着という、厚い仮面の下に、必死で押し込めた。


「…とにかく、このままでは、この子は死ぬ」


 俺は、できるだけ平静を装い、短く、そして事実だけを告げた。その声が、自分でも驚くほどに、冷たく、そして感情を欠いた響きを持っていることに、俺自身が気づいていた。


「…アパートへ運ぶ。他に、選択肢はないだろう」


 俺のその言葉には、もはや、反論の余地はなかった。アリシアも、セルフィも、この状況の異常さと、そして、俺の決意が、もはや揺らぐことのないものであることを、理解したのだろう。アリシアは、一度だけ、何かを言いたそうに口を開きかけたが、結局、固く唇を引き結ぶと、力強く頷いてみせた。


「…分かった。やると決めたからにゃ、中途半端は許さねえぜ、ケント。あたしたちも、最後まで付き合う」


 その言葉は、パーティのリーダーとしての、覚悟の表明だった。セルフィもまた、無言で、しかし、その翠の瞳に、これまで見たこともないほどの、真剣な光を宿して、こくりと頷いた。


 俺は、二人からの、声にならない同意を受け取ると、腕の中の、あまりにも軽い少女の身体を、もう一度、しっかりと抱き直した。そして、降りしきる冷たい雨の中を、アパートへと向かって歩き始めた。


 俺の腕の中で、少女が、かすかに、身じろぎをしたような気がした。

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