第13話

 隣町までの道のりは、アークライトから馬車で丸一日といったところだった。俺たちが護衛を請け負ったのは、その町で年に一度開かれるという織物市で取引される、上質な羊毛や染料を運ぶ数台の荷馬車の一団だ。道中は山賊が出没する可能性もゼロではないと聞いていたが、幸いにも俺たちの警戒を必要とするような大きな事件は起こらなかった。小規模なゴブリンの斥候に遭遇した程度で、それもアリシアが先頭で威嚇の剣を一閃させると、蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ帰っていった。結局、俺の短剣もセルフィの魔法も、その真価を発揮する機会は訪れなかった。それは護衛任務としては、最上の結果と言えるだろう。


 数日がかりの依頼を滞りなく完了させた俺たちは、依頼主である商人組合の代表から、基本報酬に加えて、心ばかりの色を付けた銀貨を受け取った。恰幅のいい組合長は、俺たちの手際の良い仕事ぶりと、道中におけるアリシアの陽気な人柄をえらく気に入った様子で、「来年もぜひ『白銀の風』にお願いしたい」と、がっちりとした握手を求めてきた。アリシアは「おう、任せときな!」と、いつものように快活に笑ってその大きな手を受け止め、俺とセルフィは、その横で儀礼的に頭を下げた。こういう対外的な交渉事は、アリシアの独壇場だ。彼女の、誰に対しても壁を作らない、太陽のような明るさは、商人や貴族といった、俺やセルフィが苦手とするタイプの人間の懐に、実にあっさりと潜り込んでしまう。彼女のその天性の才能が、このパーティの屋台骨を支えている一面であることは、間違いない事実だった。


 隣町を発ってから半日ほどが過ぎた頃だろうか。見慣れた森の木々と、緩やかに起伏する丘陵地帯が、俺たちの視界に広がり始めた。アークライトは、もう目と鼻の先だ。数日間、慣れない町の宿で寝泊まりし、緊張の糸を張り詰めていたせいか、懐かしい故郷の景色を前にした旅人のように、俺の心には、じんわりとした安堵の念が広がっていくのを感じていた。いつの間にか、俺にとって、あの辺境の街アークライトが、そしてあのアパートの殺風景な一室が、確かに『帰る場所』として、俺の中に根を下ろし始めていた。元の世界への未練が、完全に消え去ったわけではない。だが、あの書物と資料の山に埋もれた薄暗い自室の記憶は、今や、遠い昔に読んだ物語の一場面のように、どこか現実感を失い始めていた。俺の現実は、今や、この世界にこそある。アリシアの騒がしい笑い声と、セルフィの静かな眼差し。そして、俺自身が作り出す、温かい食事の匂い。それらが、俺の新しい日常を、確かな手触りをもって構成していた。


「いやー、それにしても、今回の依頼は楽なもんだったな! これなら、もう一日くらい、隣町で羽を伸ばしてきても良かったかもしれねえな。あの町の地酒、結構いける味だったしよ」


 俺の少し前を歩いていたアリシアが、気持ちよさそうに両腕を空へと突き上げながら、大きな声で言った。その声は、任務の完了による解放感からか、いつも以上に弾んでいる。


「お前は、ただ酒が飲みたかっただけだろう」


 俺が、半ば呆れたようにそう返すと、彼女は振り返り、悪戯っぽく片目をつぶってみせた。


「ったりめえよ! 仕事の後の美味い酒ほど、この世で最高のもんはねえからな! なあ、セルフィもそう思うだろ?」


 話を振られたセルフィは、俺たちの数歩後ろを、いつものように音のない足取りでついてきていた。彼女は、アリシアの問いかけに、こくりと小さく頷くだけで、肯定も否定もしなかった。だが、そのいつもと変わらない無表情の奥に、わずかな疲労の色が浮かんでいるのを、俺は見逃さなかった。エルフという種族は、人間が作り出した、騒々しくて雑然とした街の環境を、本能的に好まないのかもしれない。彼女にとって、このアークライトの森の空気に触れることこそが、何よりの休息になるのだろう。


「アパートに帰ったら、まず熱い風呂だな。それから、ケントの作った美味い飯を腹一杯食って、新しい寝台でぐっすり眠る。ああ、考えただけで、最高の気分だぜ!」


 アリシアは、これからの予定を指折り数えながら、子供のようにはしゃいでいる。その無邪気な様子に、俺の口元にも、自然と微かな笑みが浮かんだ。そうだ。俺も、早くあの部屋に帰りたい。そして、この数日の旅で汚れた身体を清め、静かな自室で、ゆっくりと自分の時間を過ごしたい。新しく手に入れた鉱石の分析もしたいし、先日考案した、新しい香辛料のレシピも試してみたい。俺の求める平穏は、そんな、ささやかで、何気ない日常の営みの中にこそあった。


 だが、その穏やかな帰路の終わりを、世界は許してはくれなかったらしい。



 変化は、唐突に訪れた。それまで、俺たちの頭上には、どこまでも高く澄み渡った青空が広がっていたはずだった。時折、白い綿のような雲が、風に流されてゆっくりと横切っていく、そんな長閑な午後の風景。だが、丘を一つ越えたあたりから、俺は、空気の質が微妙に変化していることに気がついた。まず、風の匂いが変わった。乾いた土の匂いに、湿り気を帯びた、青草の濃い匂いがまとわりつくように加わってきたのだ。それは、雨が降る前の、独特の気配だった。


 俺が空を見上げると、西の地平線の彼方から、まるで巨大な獣が墨汁を吐き出したかのように、どす黒い灰色の雲の塊が、不気味なほどの速さでこちらへと迫ってきているのが見えた。その雲は、太陽の光をみるみるうちに飲み込んでいき、俺たちの周囲の世界から、急速に色彩を奪い去っていく。つい先ほどまで、陽光を浴びて鮮やかな緑色に輝いていた木々の葉は、今は沈んだ暗緑色となり、街道の土の色も、生気を失ったような、くすんだ茶色へと変わってしまった。


「…おいおい、なんだい、この空は。さっきまで、あんなに晴れてたってのによ」


 アリシアが、空を見上げながら、不満そうな声を上げた。彼女もまた、この天候の急変を予測していなかったのだろう。その言葉が終わるか終わらないかのうちに、生ぬるい風が、ごう、という唸りを上げて、俺たちの身体を強く打ち付けた。風に煽られて、アリシアの束ねた金髪が大きく乱れ、セルフィのまとったローブの裾が、鳥の翼のようにはためく。俺は、咄嗟にフードを目深にかぶり、風で飛ばされそうになる外套の前を、強く押さえた。


 そして、それは、落ちてきた。


 ぽつり、と、俺の鼻先に、冷たい感触があった。続いて、頬に、額に、そして手の甲に。最初は、遠慮がちに地面を叩いていたその雫は、やがて、数え切れないほどの仲間を呼び寄せ、一気にその勢いを増していった。ざあ、という音。それは、森の木々が、一斉に葉を揺らす音のようでもあり、あるいは、遠い海の、巨大な波が打ち寄せる音のようでもあった。空と大地を繋ぐ、無数の灰色の線。世界が、その線によって、完全に塗りつぶされていく。


 あっという間に、雨は、土砂降り、という表現が生ぬるく感じるほどの、猛烈な豪雨へと変わった。大粒の雨滴が、まるで天から投げつけられる小石のように、俺たちの身体を、地面を、そして周囲のあらゆるものを、容赦なく叩きつけてくる。視界は、数メートル先も定かではないほどに白く煙り、耳に届くのは、ただ、叩きつけるような雨音と、時折、空を切り裂くように轟く、雷鳴の音だけだった。


 俺たちは、もはや会話を交わす余裕もなく、それぞれの雨具を目深にかぶり、ただひたすらに、前へと進むことだけを考えていた。道は、見る間にぬかるみへと変わり、一歩足を踏み出すごとに、粘りつくような泥が、ブーツに重くまとわりついてくる。アリシアは、舌打ちを一つすると、松明代わりに、腰のポーチから小さな魔石を取り出した。彼女が、そこにわずかな魔力を込めると、石はぼんやりとした、温かいオレンジ色の光を放ち始め、俺たちの足元を、いくらか心強く照らし出してくれた。セルフィは、その長い銀髪が雨に濡れて、重そうに背中に張り付いている。彼女は、ローブのフードの下で、何か短い呪文を唱えているようだった。すると、彼女の身体の周囲に、俺の目には見えない、薄い魔力の障壁のようなものが形成され、激しい雨粒を、わずかに弾いているのが分かった。


 俺には、そんな便利な道具も、魔法もなかった。ただ、外套のフードを、雨風が吹き込まないように、きつく顔の前で結び、自分の身体が冷え切ってしまわないように、腕を組んで、耐えることしかできない。冷たい雨水が、フードの隙間や、首筋から容赦なく侵入し、肌の上を伝って、体温を無慈悲に奪い去っていく。指先の感覚は、とうの昔に麻痺してしまい、自分の手が、まるで自分のものではないかのような、奇妙な感触があった。思考もまた、この圧倒的な自然の暴力の前では、その働きを鈍らせていく。ただ、早く、屋根のある場所へ。その、本能的な欲求だけが、俺の足を、半ば自動的に前へ、前へと動かしていた。


 どれほどの時間、そうして歩き続いただろうか。永遠に続くのではないかとさえ思われた、灰色の世界の中に、ようやく、俺は、見慣れたシルエットを捉えることができた。雨に煙る、霞の向こう側。高くそびえる、アークライトの街の城壁。そして、その中央に、巨大な口を開けるようにして存在する、街の正門。その光景を目にした時、俺の身体の芯に、安堵からくる、温かいものが、じんわりと広がっていくのを感じた。助かった。もう、あと少しだ。その思いが、凍えかけていた俺の身体に、最後の力を与えてくれた。


 俺たちは、互いに無言で頷き合うと、最後の気力を振り絞り、街の門へと続く、ぬかるんだ坂道を駆け上がった。門の両脇に立つ衛兵たちも、この悪天候にはさすがにうんざりしているのか、いつもは槍を手に直立しているはずのその姿はなく、門に併設された、小さな石造りの詰所の軒下で、腕を組んで雨宿りをしているようだった。彼らは、ずぶ濡れになって駆け込んできた俺たちに、ちらりと同情するような視線を向けたが、特に何かを咎めるでもなく、そのまま中へと通してくれた。


 分厚い城壁の下をくぐり抜けた瞬間、叩きつけるような雨音は、わずかにその勢いを弱め、代わりに、街の様々な音が、壁に反響して、俺の耳へと届いてきた。石畳の上を流れる、濁流のような雨水の音。雨漏りを防ごうと、慌ただしく屋根の上を走り回る誰かの足音。そして、どこかの酒場から漏れ聞こえてくる、こんな悪天候にもかかわらず、陽気に騒いでいる酔客たちの、くぐもった笑い声。ああ、帰ってきた。その実感が、疲労しきった俺の身体を、内側から優しく包み込んでいくようだった。


「…ちくしょう、とんだ災難だったぜ。こんなことなら、やっぱり、隣町でもう一泊してくるんだったな…」


 アリシアが、フードを取りながら、心底うんざりしたように、そう吐き捨てた。金色の髪は、雨に濡れて、色を失い、細い水の筋となって、その頬を伝い落ちている。


「…まずは、アパートに戻って、火を熾そう。このままでは、風邪をひいてしまう」


 俺がそう提案すると、二人も無言で頷いた。アパートまでは、ここから歩いて十分とかからない。温かい暖炉の火。乾いた衣服。そして、熱いスープ。それらが、今、この世のどんなご馳走よりも、魅力的なものに思えた。


 俺たちが、アパートへの近道である、衛兵の詰所の脇を通り抜けようとした、その時だった。


 俺は、ふと、足を止めた。


 何気なく、視線を向けた、その先に。詰所の建物の裏手、大通りからは死角になる、普段は誰も使うことのないような、薄暗く、細い路地。その入り口に、何かが、うずくまっているのが見えたのだ。


 それは、最初は、ただの、ゴミの塊のようにしか見えなかった。長年の雨風に晒されて、元の色も形も分からなくなった、ぼろ布の束。あるいは、誰かが不法に投棄していった、不用品の山。激しい雨に打たれ、路地の入り口に溜まった泥水の中に、その半分を沈ませて、それは、ただ静かに、そこに存在していた。おそらく、他の誰かが見たとしても、気にも留めずに通り過ぎてしまったことだろう。こんな豪雨の中、わざわざ、そんな汚らしいものに注意を払う人間など、いるはずもない。


 だが、俺の目は、その塊の、ほんの些細な部分に、違和感を捉えていた。


 布の、破れた隙間から、ほんのわずかに覗いている、何か。それは、泥にまみれてはいたが、明らかに、布や、木片や、あるいは捨てられたガラクタの類とは、その質感が異なっていた。それは、もっと滑らかで、そして、生命だけが持つ、柔らかな曲線を描いていた。


 そして、その塊全体が、ごく、ごく微かに、動いているような気がした。雨風のせいかもしれない。あるいは、ただの、俺の目の錯覚かもしれない。だが、俺の、鍛えられたとは言えないまでも、人並み以上に物事の本質を捉えるように訓練されてきた観察眼は、それが、無機物ではない可能性を、警鐘のように、俺の意識に伝えてきていた。


 俺は、その場に立ち尽くしたまま、路地の暗がりに、じっと視線を注ぎ続けていた。


「…どうしたんだい、ケント? 突っ立ってないで、とっとと行くぜ。これ以上、雨に濡れてるのはごめんだ」


 俺の様子に気づいたアリシアが、いらだたしげに声をかけてきた。彼女は、一刻も早く、この不快な状況から脱したいのだろう。その気持ちは、俺にも痛いほど分かった。俺だって、早く温かい場所へ行きたい。こんな、薄汚い路地の入り口で、正体不明のゴミの山を眺めている趣味など、持ち合わせてはいない。


「…なあ、アリシア。あれは、なんだと思う?」


 俺は、視線を路地から外さないまま、そう問いかけた。俺のその言葉に、アリシアは、面倒くさそうに、俺の視線の先へと目をやった。


「あ? ああ、あれか。なんだって、ただのゴミの山だろ。ったく、衛兵の詰所の真裏に、不法投棄とは、いい度胸してるじゃねえか。後で、衛兵にちくっといてやるか」


 彼女は、全く興味がなさそうに、そう吐き捨てた。だが、その直後、彼女の鼻が、くん、と微かに動いたのを、俺は見逃さなかった。そして、次の瞬間、彼女の表情が、わずかに険しいものへと変わった。


「…いや、待てよ。なんだか、嫌な匂いがするな…。血の匂い…じゃない。もっと、こう、面倒事の匂いだ」


 面倒事の匂い。冒険者としての長い経験が、彼女に、そういった、常人には感知できない種類の、危険の予兆を嗅ぎ分ける能力を与えているのかもしれない。彼女は、それまで浮かべていた、うんざりとした表情を消し去り、代わりに、パーティのリーダーとしての、鋭い警戒の色を、その碧眼に浮かべていた。


 俺の観察眼が捉えた、微かな違和感。そして、アリシアの嗅覚が捉えた、不吉な気配。その二つが、俺の中で、一つの、信じがたい、しかし、無視することのできない可能性を形作りつつあった。


 あれは、ただの物ではない。


 あれは、生きている。そして、おそらくは、人間だ。


 その結論に達した時、俺の身体は、思考よりも先に、動き出していた。

 俺は、アリシアの、あるいはセルフィの制止の声が、もしあったのだとしても、それを聞くこともなく、一歩、また一歩と、その薄暗い路地の入り口へと、近づいていった。

 冷たい雨が、容赦なく俺の顔を打ち、視界を滲ませる。足元の泥水が、跳ね上がって、ズボンの裾を汚していく。


 そんなことは、もはや、どうでもよかった。俺は、ただ、確かめなければならなかった。

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