第12話

 俺がこの異世界『アースガルド』に突然放り出されてから、季節の風向きが、その色合いを一度変えようとしていた。アークライトの街を吹き抜ける風は、以前のような乾いた土埃の匂いだけでなく、どこか湿り気を帯びた、生命の息吹を感じさせる濃密な香りを運んでくるようになった。市場に並ぶ野菜や果物の種類も、少しずつその顔ぶれを変えている。硬い皮を持つ冬越しの根菜類が姿を消し始め、代わりに、鮮やかな緑色をした葉物野菜や、瑞々しい赤色の果実が、陽光を浴びてきらきらと輝いているのが目立つようになった。人々の服装も、厚手の外套を羽織る者は少なくなり、軽やかな麻や綿のシャツ一枚で、額に汗を浮かべながら行き交う姿が多く見受けられる。


 時間の流れ。それは、俺のいた元の世界と変わることなく、この世界にも厳然として存在していた。一日が終わり、また新しい一日が始まる。その、当たり前で、しかし着実な繰り返しの中で、俺たち三人の関係性もまた、静かに、だがその内実を大きく変化させていた。それは、まるで硬い蕾がゆっくりとほころび、その内側に隠されていた柔らかな花弁を一枚、また一枚と広げていく過程にも似ていたかもしれない。俺と、アリシアと、セルフィ。出自も、種族も、そして性格も全く異なる、本来であれば決して交わることのなかったであろう三人が、この辺境の街で寄り添い、冒険者パーティという家を得て、一つの形を成していた。


 その日の午後、俺たちはギルドで受けた依頼を終え、アパートへの帰路についていた。依頼内容は、街の近くにある古い鉱山跡に巣食った、ジャイアント・バットと呼ばれる大型の蝙蝠の討伐。洞窟のような薄暗い場所での戦闘は、視界も悪く、三人の連携が何よりも重要になる。アリシアが先陣を切って、松明の灯りを頼りに、飛びかかってくる蝙蝠の群れを長剣で薙ぎ払い、俺がその背後を守りながら、取りこぼした個体を短剣で確実に仕留めていく。そして、後方からはセルフィの放つ風の魔法が、正確無比な軌道を描いて、洞窟の天井に潜む敵を撃ち落としていく。もはや、俺たちの間には、多くの言葉は必要なかった。アリシアが剣を振るう際の、わずかな呼吸の変化。セルフィが次の魔法を準備する際の、微弱なマナの揺らぎ。それらを、俺は肌で感じ取り、自分が次にどう動くべきかを、思考よりも先に身体が理解していた。


「それにしても、今日のケントは冴えてたじゃないか! あたしが斬り損ねた奴を、後ろから見事にかっさらっていったな!」


 大通りを歩きながら、アリシアが、いつもの快活な声で俺の背中を強く叩いた。騎士としての鍛錬で引き締められたその腕から繰り出される一撃は、もはや軽い激励の域を超えており、俺の身体はよろめき、数歩前へとつまずいてしまう。


「…あれは、お前が大振りすぎただけだ。もう少し、コンパクトに振ることを覚えろ」


「へっ、口の減らねえ奴だな! まあ、いいさ。おかげで、思ったよりも早く依頼が片付いたんだ。報酬の山分けが楽しみだぜ!」


 彼女はそう言って、にっと歯を見せて笑った。その夏の空のように澄んだ碧眼には、俺に対する純粋な信頼と、仲間としての親愛の情が、何のてらいもなく浮かんでいる。パーティを組んだ当初、彼女の目にあった、俺という得体の知れない存在に対する好奇と、ほんの少しの警戒心。それらは、いつの間にか完全に姿を消していた。彼女は、俺の持つ力の異質さや、その根源にある謎について、もはや深く詮索しようとはしない。ただ、俺という人間を、そのまま受け入れてくれている。


 アリシアにとって、俺はもはや、単なる『得体の知れない面白い奴』ではなかったのだろう。それは、今日の討伐依頼の、最後の局面で、俺にはっきりと示された。洞窟の最奥に潜んでいた、群れのボスと思しき一際巨大な個体が、最後の力を振り絞り、天井から俺を目掛けて急降下してきた時だ。俺は、その素早い動きに反応しきれず、咄嗟に短剣で防御の体勢を取ったが、間に合わない、と直感した。だが、その俺の身体を、巨大な影が覆い尽くすよりも早く、横から突き出された銀色の何かが、俺を突き飛ばしていた。


 それは、アリシアの、盾を持たない左腕だった。彼女は、自らの身体を文字通り盾として、俺の前に割り込んだのだ。巨大な蝙蝠の鋭い爪が、彼女の肩当ての軽銀鎧を抉り、火花と共に、耳障りな金属音を立てた。彼女自身の身体に、傷はなかった。だが、もし、俺がもう少し反応が遅れていたら。あるいは、彼女の鎧が、もう少し脆いものだったとしたら。そう考えると、俺の背筋には、今でも冷たいものが走る。


 戦闘の後、俺が彼女に礼を言うと、彼女は、いつものように豪快に笑い飛ばしながらも、その表情には、どこか真剣な色が浮かんでいた。


「…気にすんな。リーダーが、仲間を守るのは当然だろ? それに、お前さん、どうも見てて危なっかしくて、放っておけねえんだよ。あたしがしっかり見ててやらねえと、いつかどでかいヘマをやらかしそうだ」


 その言葉は、まるで年の離れた弟の将来を案じる、姉のそれのようだった。彼女の中で、俺は守るべき対象であり、そして、共に戦う対等な仲間でもある、そんな複雑で、しかし温かい位置づけの存在へと変わっていたのだ。得体の知れない力を持つ、謎めいた男。そんな当初の評価は、共に過ごす時間の中で、徐々にその輪郭をぼやかされ、『少し頼りないが、いざという時に頼れる弟分』という、より人間味のある、確かな像を結びつつあった。その事実が、俺の心を、少しだけくすぐったいような、それでいて心地よい感覚で満たしていた。



 アパートの自室は、俺にとっての城であり、同時に、外界の理から隔絶された聖域でもあった。壁際に設えた作業台の上には、俺が暇を見つけては作り出した、様々な道具が整然と並べられている。切れ味を追求した数種類のナイフ、用途に応じて熱伝導率を微妙に調整した銅製の鍋、そして、最近の研究テーマである、薬草の成分を最も効率的に抽出するための、ガラス製の蒸留器具。それらは、この世界のどんな職人の手によるものよりも、遥かに高い精度と性能を秘めていた。この部屋で、誰にも邪魔されることなく、未知の素材に触れ、その本質を『吸収』し、そして自らのイメージを『融合』によって具現化させていく。その時間は、俺という探求者にとって、何物にも代えがたい、至福のひとときだった。


 その日も、俺は依頼を終えて部屋に戻ると、早速、新しい実験に取り掛かっていた。対象は、セルフィが先日、森の奥深くから持ち帰ってきた、一つの奇妙な石だ。見た目は、何の変哲もない、黒曜石にも似た、滑らかな黒色の石。だが、セルフィによれば、この石は『月の雫』と呼ばれ、満月の夜にのみ、ごく微かな魔力を帯びて淡い光を放つのだという。俺は、その発光現象のメカニズムに、強い興味を抱いていた。


 俺が、その石を手に取り、その内部構造に意識を集中させようとした、その時だった。音もなく、部屋の扉がゆっくりと開かれ、セルフィが、いつものように静かな足取りで中へと入ってきた。彼女は、俺が何か新しいことを始めようとしているのを、その鋭い感受性で察知したのだろう。彼女は、もはや俺の実験を、遠巻きに観察するだけでは満足できなくなっていた。今では、彼女が自ら興味深い素材を森から持ち帰り、それを俺に提示し、俺がそれをどう解析し、どう変化させるのかを、すぐ間近で見届けることが、彼女にとっての新しい探求の形となりつつあった。


 彼女は、俺の隣に、小さな木製の椅子を運び、そこに静かに腰を下ろした。何かを言うでもなく、ただ、俺の手の中にある黒い石と、俺の顔を、交互に見つめている。その翠の瞳は、静かな湖面のように澄み渡り、これから始まろうとしている未知の現象に対する、純粋な期待の色だけを映していた。俺たちの間には、もはや、言葉は必要なかった。探求者と、その協力者。あるいは、異なる理を生きる者同士が、互いの知識と技術を持ち寄り、一つの真理へと至ろうとする、共同研究者のような関係。それが、今の俺と彼女の、最も正確な姿だったのかもしれない。


 俺は、彼女のその信頼に応えるように、ゆっくりと『吸収』の能力を発動させた。石の冷たい感触が、手のひらから俺の意識へと流れ込んでくる。脳内に、再びあの情報の奔流が満ちていく。


 『月長石(ムーンストーン)の一種』。主成分、ケイ酸アルミニウムカリウム。微量に含まれる曹長石の薄層が、光の干渉を引き起こし、青白い閃光(シラー効果)を生じさせる。特筆すべきは、その結晶構造の内部に、極めて微細な空洞が無数に存在し、そこに周囲の魔素を蓄積、凝縮する性質を持つこと。満月の夜、月の引力に似た、特殊な魔力の波長が世界に満ちる時、この凝縮された魔素が励起され、可視光線として放出される。


 なるほど。現象の原理は、理解できた。それは、俺のいた世界の物理法則と、この世界の魔法的な法則が、絶妙な形で組み合わさった、実に興味深いメカニズムだった。


「…この石の光は、石そのものが生み出しているわけじゃない」


 俺は、石から手を離し、隣に座るセルフィに向かって、静かに語り始めた。


「石の内部には、俺たちの目には見えない、小さな隙間が無数にあって、そこに、空気中のマナが閉じ込められている。満月の夜の、特別な光…いや、力とでも言うべきものが、その閉じ込められたマナを刺激して、光らせているようだ」


 俺は、できるだけ、自分の能力の異常性を感じさせないように、言葉を選びながら説明した。だが、セルフィには、俺が成し遂げたことの、本当の意味が分かっていたはずだ。彼女が、エルフの長い伝承の中で、ただ『そういうものだ』と受け入れてきた神秘的な現象。その根本的な原理を、俺が、ほんの数分で、まるで教科書でも読むかのように、解き明かしてしまったのだ。


 彼女は、驚きの色を浮かべるでもなく、ただ、深く、そして静かに、頷いた。


「…やはり。あなたは、物事の『本当の姿』が見える」


 その言葉は、もはや問いかけではなかった。彼女の中で、俺という存在に対する、一つの、揺るぎない確信へと至ったことを示す、静かな宣言だった。彼女にとって、俺はもはや、単なる『興味深い観察対象』ではない。言葉を交わさずとも、互いの探求の道を理解し、尊重し合える、心地よい隣人。そして、時には、自らの知の地平を押し広げてくれる、畏敬すべき先達のような存在へと、その認識を変えつつあった。その事実が、俺の孤独な探求の日々に、これまで感じたことのない種類の、温かい充実感を与えてくれていた。



 その日の夕食の食卓は、いつも以上に賑やかなものとなった。テーブルの中央には、俺が腕によりをかけて作った、猪肉の赤ワイン煮込みが大皿に盛られ、湯気と共に、食欲をそそる芳醇な香りを立ち上らせている。その周りには、焼きたてのパン、彩り豊かな温野菜のサラダ、そして、セルフィが森から持ち帰った、甘酸っぱい木の実を浮かべた冷たいスープが並んでいた。このアパートでの生活が始まってから、俺たちの食事は、日に日に豊かになっていった。それは、単に俺の料理の腕が上がったというだけではない。アリシアが、依頼の報酬で、街では手に入りにくい上質な肉を仕入れてきたり、セルフィが、料理に合う珍しいハーブや香辛料を、その日の気分で摘んできたりするようになったからだ。俺たちは、いつの間にか、ごく自然に、一つの食卓を共に作り上げるという、家族のような営みを始めていた。


 この食事の時間は、俺たちにとって、一日の出来事を報告し合い、他愛もないことで笑い合う、かけがえのないコミュニケーションの場となっていた。それは、血の繋がりを持たない俺たちが、互いの絆を確かめ、深めていくための、最も重要な儀式だった。


「それにしても、この肉、とろけるように柔らかいな! ケント、お前さん、また何か新しい魔法でも使ったのかい?」


 アリシアが、口いっぱいに肉を頬張りながら、目を丸くして言った。彼女の口の周りは、ソースでべとべとになっている。


「…魔法じゃない。調理法を少し工夫しただけだ。低温で、長時間、ゆっくりと火を入れることで、肉の繊維が壊れずに、柔らかくなる」


「…まあ、よく分からんが、美味いから何でもいいや!」


 彼女は、難しい話は早々に諦め、再び目の前の料理へと意識を戻した。その単純さが、彼女の魅力であり、この場の空気をいつも明るくしてくれる源だった。


 俺が、ふとセルフィの方へ視線を向けると、彼女は、いつもは決して見せることのない、少しだけ困ったような表情で、自分の皿の上にある、一つの野菜を、スプーンの先でつついていた。それは、この地方でよく食べられている、ニガウリに似た、独特の苦味を持つ野菜だった。


「…これは、少し、苦い」


 ぽつりと、彼女が呟いた。その素直な感想に、アリシアが、口の周りを拭うのも忘れて、大声で笑い出した。


「ははは! セルフィ、お前さん、好き嫌いなんてあったのか! 森のものは何でも食う、って言ってなかったかい?」


「…森の苦さは、生命の味。これは、違う。ただ、不快なだけ」


 セルフィは、少しだけむっとしたように、そう反論した。その、普段の彼女からは想像もつかないような、子供っぽいやり取り。それを見ているだけで、俺の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。


 俺は、この異世界に来て、初めて『帰る場所』というものの意味を、理解したのかもしれない。それは、豪華な屋敷や、安全な城塞のことではない。たとえ、それが古びたアパートの一室であっても、そこに、心から気を許せる仲間がいて、温かい食事と、笑顔の絶えない会話がある。ただ、それだけで、人は、そこを自分の居場所だと感じることができるのだ。俺のいた元の世界では、俺は、自ら選んで孤独の中にいた。書物と、知識だけが、俺の友人だった。だが、今、俺の目の前には、俺の作った料理を、心から美味しそうに食べてくれる仲間がいる。その事実が、俺の心を、これまで感じたことのない種類の、温かい感情で満たしていく。


 アリシアの、太陽のような、屈託のない笑顔。セルフィの、森の湖のように、静かで、全てを受け入れてくれるような眼差し。この二人と共に過ごす、この、何でもない、ありふれた日常。それこそが、俺がこの世界で手に入れた、何よりも尊い宝物なのだ。


 この日常を、守りたい。


 この、かけがえのない、温かい時間を、何者にも脅かされることなく、続けていきたい。そのために、俺にできることがあるのなら、何でもしよう。たとえ、それが、俺が最も避けたかった『厄介事』に、自ら首を突っ込むことであっても。たとえ、俺が持つこの『禁忌』の力を、誰かのために、振るわなければならない時が来たとしても。

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