第11話
アパートでの生活は、静かな湖面に小石を投じたかのように、俺たちの日常にささやかな、しかし確かな変化の波紋を広げ続けていた。俺自身の生活リズムが確立されたこと以上に大きな変化は、仲間たちとの距離感にあったように思う。
特に、森で俺の力の片鱗を目の当たりにして以来、セルフィの俺に対する態度は、明らかに以前とは異なるものになっていた。彼女の翠の瞳から、得体の知れないものを探るような鋭利な光は消え去り、代わりに、未知の真理を前にした研究者のような、純粋で静謐な探求の色が湛えられるようになった。彼女は言葉で多くを語ることはない。だが、その沈黙は、もはや俺を試すためのものではなく、異なる理を持つ者同士が互いの存在を認め合う、そのようなものに変わっていた。
その日、俺たちは三人で街の西側、職人たちが集まる地区へと足を運んでいた。目的は、先日俺がクズ鉄から作り出した調理器具――特にフライパンの性能をさらに引き出すための、ちょっとした道具の調達だった。俺が創造したフライパンは、その異常なまでの熱伝導率のせいで、通常の木の取っ手では熱が伝わりすぎてしまい、長時間の調理には向かないという欠点があったのだ。その対策として、耐熱性の高い鉱物を取っ手に巻きつけることを思いつき、その素材を探しに来たというわけだ。アリシアは「そんな面倒なことしなくても、布でも巻いときゃいいだろ!」と、いつものように大雑把なことを言っていたが、物事をあるべき形にしたいという俺の性分が、そんな妥協を許さなかった。
職人街は、アークライトの中でも特に生命力に満ちた場所だ。石畳の道の両脇には、間口の狭い工房が軒を連ね、その奥からは様々な音が絶え間なくあふれ出してくる。鍛冶師が大槌を振り下ろす、重く、腹の底に響き渡るような金属音。木工職人が木材を削る、乾いた軽やかな音。革なめし職人の工房からは、独特の薬品の匂いと、革を叩いて柔らかくする鈍い音がもれ聞こえてくる。それらの音と匂いが渾然となり、この街の産業を支える人々の、力強い営みの息吹を俺の五感に直接伝えてきた。行き交う人々の顔つきも、商業地区の商人たちとは違う。日に焼け、筋骨たくましいドワーフの鍛冶師たち、指先を染料で染めた織物職人の女性、そして、どこか神経質そうな表情で図面を睨みつけている建築家らしき男。誰もが、自らの腕一本で生きているという、誇りと厳しさをその身にまとっているようだった。
俺たちは、目当ての鉱石を扱う店を見つけ、無事に耐熱性に優れた雲母の一種を手に入れることができた。これも、鉱石の山の中から、俺が『吸収』によって最も純度と品質の高いものを選び出した結果だ。アリシアはその間、近くの武具屋で新しい剣の鞘を品定めしており、セルフィは、工房の軒先に吊るされた、風を受けて澄んだ音色を奏でる、ガラス細工の小さな飾りを、ただ黙って見つめていた。それぞれの時間を過ごした後、俺たちは再び大通りへと合流し、アパートへの帰路についた。時刻は、昼を少し過ぎたあたりだろうか。空は高く澄み渡り、石畳の道には人々の活気が満ちあふれている。荷馬車が土埃を上げて通り過ぎ、その脇を、買い物かごを抱えた主婦や、屈強な冒険者の一団が足早に歩いていく。どこからか、吟遊詩人が奏でるリュートの陽気な音色が風に乗って運ばれてきた。平和で、ありふれていて、そして、かけがえのない日常の風景。俺は、この世界に来てから、こんな風に街の喧騒を心地よいと感じられるようになった自分自身に、少しだけ驚いていた。
そんな、穏やかな午後のひとときだった。
突如として、大通りの空気が変わった。それまで雑多な音と匂いで満たされていた空間が、まるで水を打ったかのように、一瞬だけ静まり返る。人々の話し声が途切れ、歩みを止めた者たちが、道の向こう、街の正門がある方角へと一斉に視線を向けた。俺も、その場の雰囲気に促されるようにして、同じ方向へと目をやった。
そこに現れたのは、一台の、壮麗な馬車だった。
俺の知る世界のどんな高級車よりも、その馬車は圧倒的な存在感を放っていた。車体は、黒檀のように深く、艶やかな光沢を放つ木材で作られており、その表面には金箔を用いた、精緻極まる植物文様の彫刻が施されている。車輪の軸や、扉の取っ手といった金具の部分は、磨き上げられた真鍮だろうか、昼の光を受けてまばゆいほどに輝いていた。そして、その車体の側面には、ひときわ大きく、一つの紋章が掲げられている。剣と盾を組み合わせ、その中央に一頭の猛々しい獅子が描かれた、見るからに威厳のある意匠。それは、この国の支配者階級に連なる者の証に違いなかった。
その豪華な車体を引いていたのは、四頭の、純白の馬だった。その毛並みは、まるで真珠の粉をまぶしたかのように滑らかで、その体躯は、俺がこれまで見てきたどんな馬よりも大きく、そして力強い。首から下げられた馬具には、小さな銀の鈴がいくつも取り付けられており、馬が歩を進めるたびに、チリン、チリン、という涼やかな音色を立てていた。
そして、その馬車の前後を固めていたのは、完全武装の騎士たちだった。その数、およそ十名。彼らは、馬車と同じ紋章が刻印された、全身を覆う鋼鉄の鎧に身を固めている。その鎧は、冒険者が身に着けるような実用本位のものではない。装飾的な意匠が凝らされ、寸分の隙もなく磨き上げられた、儀礼用のそれに近いものだった。だが、彼らが腰に下げた長剣の柄や、その鋭い眼光からは、ただの飾りではない、歴戦の強者だけが持つ、張り詰めた圧力が発せられている。彼らは、周囲の野次馬たちを一瞥だにすることなく、ただ前だけを見据え、機械のように正確な足取りで、馬車を護衛していた。
その一団が、まるでモーセの奇跡のように、雑踏を両側に押し分けながら、俺たちのいる大通りをゆっくりと進んでくる。周囲の人々は、畏怖と、好奇と、そしてほんの少しの反感をないまぜにしたような複雑な表情で、その行列を遠巻きに眺めていた。辺境の街アークライトでは、これほどまでにあからさまな権威の象徴を目にすることは、滅多にないのだろう。誰もが、その場違いなほどの豪奢さと、近寄りがたい威圧感に気圧されているようだった。俺自身もまた、その光景を、一つの興味深い観察対象として、冷静に眺めていた。この世界にも、明確な階級社会が存在する。その事実を、これほどまでに分かりやすく見せつけられたのは、初めてのことだった。
その、時だった。
「…ちっ」
俺のすぐ隣から、小さく、しかし鋭い舌打ちの音が聞こえた。ハッとしてそちらを見ると、そこに立っていたのは、俺の知るアリシアとはまるで別人のような、険しい表情を浮かべた彼女の姿だった。
いつもは快活な笑みを浮かべているはずのその口元は、今は真一文字に固く引き結ばれている。夏の空のように澄んでいたはずの碧眼は、氷のように冷たい光をたたえ、その視線は、まるで憎悪の対象でも見るかのように、ゆっくりと通り過ぎていく馬車の一団に、突き刺さるように注がれていた。その握りしめられた拳は、白くなるほどに力が込められ、かすかに小刻みに震えている。彼女の全身から発せられる、あからさまな嫌悪と、抑えきれない怒りの気配。それは、俺がこれまで一度も彼女から感じたことのない種類の、激しい感情の発露だった。
馬車の一団が、やがて俺たちの前を通り過ぎ、街の役所がある方角へとその進路を変えていった。その姿が通りの向こうに完全に見えなくなるまで、アリシアは、まるで石像のように、身じろぎ一つせずにその場に立ち尽くしていた。やがて、大通りの喧騒が、元の雑然とした状態に戻り始めた頃、彼女はようやく、ふう、と長い息を吐き出した。だが、その表情から険しさが消えることはなかった。
「…どうしたんだ、アリシア。知り合いでも乗っていたのか?」
俺は、努めて何気ない口調で、彼女に問いかけた。俺の言葉に、彼女は視線をこちらに戻したが、その瞳には、まだ先ほどまでの冷たい光の残滓が揺らめいているようだった。
「…知り合い、ね。まあ、そんなところさ」
彼女は、そう言うと、まるで何かを振り払うかのように、わざと乱暴に自分の金髪をかき上げた。
「…気にすんな。ちょっと、虫が好かねえ連中を見ただけだ」
そう言って、彼女は無理に笑みを作ろうとした。だが、その笑顔は、いつもの太陽のような明るさとは程遠い、ぎこちなく、そしてどこか痛々しいものだった。彼女が、何かを隠していること、そして、その隠しているものが、彼女の心の深い部分に触れる、決して軽くない問題であることは、誰の目にも明らかだった。俺が、さらに何かを問うべきか、あるいは、彼女の言葉通り、これ以上は触れずにそっとしておくべきか、判断に迷っていると、それまで黙って成り行きを見守っていたセルフィが、静かに口を開いた。
「…あの紋章。ボールドウィン家のもの」
その言葉は、ただ、事実を淡々と告げる、セルフィらしい響きを持っていた。だが、その一言は、アリシアのまとっていた虚勢の鎧を、いとも簡単にはがれ落としてしまったようだった。
アリシアは、一瞬、目を見開いてセルフィの顔を見た。そして、やがて、観念したように、これまでで一番大きなため息をついた。そのため息には、諦めと、長年抱え込んできたであろう、うんざりとした感情が色濃く滲み出ている。
「…ああ、そうだよ。あんたの言う通りさ。あれは、あたしの『実家』の紋章だ」
彼女は、まるで汚いものでも吐き出すかのように、そう言った。その声には、苦々しさだけが満ちていた。
◇
俺たちは、アパートに戻る足を止め、街の中心から少し外れた、小さな公園のベンチに腰を下ろしていた。人通りもまばらなその場所は、込み入った話をするにはちょうどいい静けさがあった。アリシアは、ベンチの背もたれに深く身体を預け、空を仰いでいる。その横顔は、いつも俺たちが見ている、快活で、面倒見のいいパーティのリーダーのそれとは、全く違う表情をしていた。どこか遠くを見つめるその瞳には、過去を振り返る人間の持つ、複雑な色が浮かんでいる。俺とセルフィは、何も言わずに、彼女が自ら口を開くのを、ただ静かに待っていた。
しばらくの間、心地よい風が木々の葉を揺らす音だけが、俺たちの間に流れていた。やがて、アリシアは、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、ぽつり、ぽつりと、その過去について語り始めた。
「…ボールドウィン家。そう聞けば、この国で暮らす人間なら、大抵はその名を知ってるだろうさ。代々、王家に仕える騎士を輩出してきた、王国有数の武門貴族。まあ、聞こえだけは、やけに立派なもんだ」
彼女の口調は、自嘲的だった。
「あたしは、そこの次女として生まれた。物心ついた時から、あたしの周りには、いつも『ボールドウィン家の人間として、恥ずかしくないように』っていう、見えない鎖が巻き付いてた。朝起きてから、夜眠るまで、一日の行動は全て決められてる。食事のマナー、歩き方、話し方、お辞儀の角度。そのどれもに、がんじがらめの、くだらない決まりごとがあるんだ」
彼女は、まるで昨日のことのように、その時の情景を思い出しながら、言葉を続ける。
「あたしには、兄貴と、姉貴がいた。兄貴は、ボールドウィン家の嫡男として、そりゃあもう、絵に描いたような優等生だった。剣の腕も、勉学も、貴族としての立ち居振る舞いも、全てにおいて完璧。親父の期待を一身に背負って、その期待に完璧に応えてみせる、そんな男だったよ。姉貴は姉貴で、淑女の鑑みたいな人間だった。刺繍や、ハープの演奏が得意で、いずれはどこぞの大貴族の元へ嫁いで、家の利益になるのが自分の役目だと、本気で信じ込んでるような女だった」
そこで、彼女は一度言葉を切り、ふっと乾いた笑みを漏らした。
「じゃあ、あたしはどうだったか。…言うまでもないだろ? 完全な、出来損ないさ。お行儀よく刺繍をするよりも、木剣を振り回して庭を駆けずり回ってる方が、ずっと楽しかった。着飾らされたドレスは、動きにくくて大嫌いだったし、退屈な茶会で、腹の中を探り合うような貴族の女たちの会話には、反吐が出そうだった。あたしは、ボールドウィン家っていう、きらびやかで、息の詰まる鳥籠の中で、たった一人、違う生き物だったんだ」
彼女の言葉の端々から、その当時の彼女が感じていたであろう、孤独と、疎外感が、ひしひしと伝わってくる。俺は、黙って彼女の話に耳を傾けていた。俺が知っているアリシアは、いつも誰かの中心にいて、太陽のように周囲を照らす存在だ。そんな彼女に、こんな過去があったとは、想像もできなかった。
「親父は、そんなあたしのことが、許せなかったんだろうな。ボールドウィン家の人間は、強く、気高く、そして、家の名誉と利益のためには、自分を殺すことのできる人間でなければならない。それが、あの人の絶対的な価値観だった。だから、あたしが何かをするたびに、親父は言ったよ。『お前は、ボールドウィン家の恥だ』ってな。何度も、何度も、耳にタコができるくらい、そう言われ続けた」
「あたしの将来も、とっくの昔に決められてた。家の利益になる、どこかの貴族の次男坊か三男坊あたりに、政略結婚の道具として嫁がされる。それが、出来損ないの次女であるあたしに与えられた、唯一の役割だった。十六になったら、正式に婚約者を決めると、親父はそう言った。それを聞いた時、あたしの中で、何かが、ぷっつりと切れたんだ」
彼女は、空を仰いでいた顔を、ゆっくりと俺たちの方へ向けた。その碧眼には、あの時の決意の光が、再び灯っているようだった。
「冗談じゃない、って思ったね。あたしの人生は、あたしのものだ。誰かの道具になるために、生まれてきたわけじゃない。家柄だの、血筋だの、そんなくだらないもののために、自分を偽って、息を殺して生きていくなんて、まっぴらごめんだった。あたしは、自分の力を試したかった。自分の腕一本で、どこまでやれるのか。この広い世界で、自分の足で立って、生きていきたかったんだ」
彼女は、自分の胸を、拳でとんと叩いた。
「だから、あたしは家を飛び出した。十六の誕生日を迎える、その前の晩にな。親父が大事にしてた、家宝の剣を一本、こっそり拝借して、それだけを持って、屋敷を抜け出したんだ。それ以来、一度も、あの家には帰ってない。家族の誰とも、連絡なんか取っちゃいない。あたしは、ボールドウィン家の次女、アリシア・ボールドウィンを捨てて、ただの冒険者、アリシアになったのさ」
彼女は、そこまで一気に語り終えると、ふう、と大きく息を吐き出した。そして、今度は、いつもの彼女らしい、悪戯っぽい笑みを、その口元に浮かべてみせた。
「…まあ、そういうわけさ。あたしが、ああいう堅苦しい連中を、毛虫みてえに嫌ってる理由、分かってくれたかい?」
その問いかけに、俺は、ただ静かに頷くことしかできなかった。彼女の底抜けの明るさ。誰にでも分け隔てなく接する、その気さくな態度。家柄や身分といったもので、決して人を判断しようとしない、その公平さ。その全てが、彼女が自らの過去と決別し、自分の力で勝ち取ってきた、生き方の証なのだ。その事実に、俺は、彼女という人間に対する尊敬の念を、さらに深くした。
「…堅苦しいのは、性に合わなくてね」
先ほど、彼女が吐き捨てるように言った言葉。その一言の裏に、これほどまでの物語が隠されていたとは。
俺は、この『アースガルド』という世界が、俺が思っていた以上に、複雑な社会構造と、それに伴う人々のしがらみで成り立っていることを、改めて痛感していた。王族、貴族、平民。そして、その枠組みから自ら外れた、冒険者という存在。それは、俺がいた元の世界と、何ら変わりはないのかもしれない。そして、そんな社会の力学は、俺が望む『平穏な生活』にとって、いずれ、無視できない障害として、俺の前に立ちはだかることになるのかもしれない。
そんな、漠然とした予感が、俺の胸の中をよぎっていった。
「…まあ、あたしの話はこれでおしまいだ! しけた話をしちまって、悪かったな! さあ、腹も減ったことだし、とっととアパートに帰って、ケントの美味い飯でも食うとしようぜ!」
アリシアは、まるで自分自身を奮い立たせるかのように、わざと大きな声でそう言うと、勢いよくベンチから立ち上がった。その振る舞いは、いつも通りの、快活な彼女のものだった。だが、その笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ見えた、拭いきれない翳りのようなものが見て取れた。
俺とセルフィも、無言で立ち上がり、彼女の後に続いた。
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