第10話

 俺がクズ鉄から調理器具一式を創造するという、常軌を逸した所業を披露して以来、俺たちの間の空気は、目には見えない形で、しかし確実にその質を変えつつあった。アリシアは、相変わらず竹を割ったような態度で俺に接してくれている。彼女にとって、俺の作る道具が異常な性能を持っているという事実は、おそらく「ケントは時々とんでもないことをやらかす、面白い奴だ」という彼女の中の俺の人物評を、さらに補強する一つのエピソードとして処理されたに過ぎないのだろう。その大雑把さが、今の俺にとっては救いだった。彼女は、俺の力の根源にある異質さや、その裏に潜むであろう危険性について、深く詮索しようとはしない。ただ、仲間として、その利便性を享受し、面白がってくれている。その屈託のなさが、俺がこのパーティに留まる上での、精神的な防波堤の役割を果たしてくれていた。


 だが、セルフィは違った。


 彼女の俺に対する態度は、明らかに変化していた。以前の、得体の知れない侵入者を値踏みするような鋭い警戒心は、今や完全にその姿を消している。代わりに彼女の内に生まれたのは、より深く、そして純粋な探求心だった。俺がアパートの部屋で過ごしていると、彼女は時折、何の予告もなくふらりと現れるようになった。何かを言うでもなく、ただ部屋の隅の、窓から差し込む光が溜まる場所に静かに腰を下ろし、俺が本を読む様子や、道具の手入れをする様子を、じっと観察している。その翠の瞳は、まるで森の奥深くにある、底知れない湖のようだ。静かで、一切の感情の波を立てず、ただ対象の全てを映し込み、その本質を理解しようとしている。その視線に晒されていると、俺は自分が、高名な魔法使いの研究室に持ち込まれた、解析不能な古代の遺物にでもなったかのような気分にさせられた。彼女は、俺を問い詰めない。だが、その沈黙は、雄弁な言葉以上に、俺の存在そのものに対する根源的な問いを、絶えず俺に投げかけ続けていた。『あなたは何者で、その力は何なのか』と。その静かな圧力は、アリシアの快活な騒がしさとはまた違う種類の、しかし確かな緊張感を、俺の日常にもたらしていた。


 そんな日々が数日続いた、ある日の午後だった。その日は珍しくギルドからの依頼もなく、俺はアパートの部屋で、先日手に入れた隕鉄の残りで、さらに小型のナイフでも作ろうかと考えていた。アリシアは「たまの休みだ、昼寝でもするに限るぜ!」と言い残し、宿屋の自室で本当に惰眠を貪っているらしい。静かで、穏やかな昼下がり。俺が作業台代わりの机の上に、麻布と、いくつかの道具を広げ始めた、その時だった。


 コン、コン。


 控えめな、しかし澄んだ音が、部屋の扉を叩いた。アリシアならば、こんな行儀の良い訪れ方はしない。俺が「…開いている」とだけ答えると、扉はゆっくりと、音もなく内側へ開かれた。そこに立っていたのは、やはりセルフィだった。彼女は、いつものように森の緑を写し取ったかのような装束に身を包み、その手には白木の杖が握られている。


 俺は、てっきり彼女が、またいつものように部屋の隅で俺の観察を始めるものだと思っていた。だが、その日の彼女は、少しだけ様子が違った。彼女は、部屋の中には入ってこず、開かれた扉の向こう側から、ただ真っ直ぐに俺を見つめていた。そして、やがて、その薄い唇を、ごくわずかに動かした。


「…行く」


 ぽつりと、それだけが告げられた。あまりにも短い言葉。だが、その一言には、有無を言わせない、静かだが確固たる意志が込められているように感じられた。


「行く、とは…どこへだ?」


 俺の問いに、彼女は、わずかな間を置いて、答えた。


「森へ」


 森。その単語が、俺の耳に奇妙な響きを残した。彼女にとって、森は庭であり、書斎であり、そして信仰の対象でもある、聖域のような場所だ。その場所に、俺を二人きりで誘う。その意図は、一体何なのだろうか。俺の力の源を探るためか。あるいは、何かを俺に試そうとしているのか。様々な憶測が頭の中を駆け巡る。だが、彼女の、一点の曇りもない、ただ純粋な探求の色を映した翠の瞳に見つめられていると、俺の中にあった警戒心は、不思議と霧散していった。このエルフは、俺を害そうとしているのではない。ただ、知りたいのだ。俺という、彼女の理解を超えた存在の正体を。その真摯な探求心に、同じ探求者として、応えないわけにはいかない。そんな気がした。


「…分かった。行こう」


 俺がそう答えると、セルフィは、ほんのわずか、本当にごくわずかだけ、その表情を和らげたように見えた。それは、ほとんど自己満足の錯覚に近い、微細な変化だったかもしれない。だが、俺には、彼女が俺の同意を喜んでいるのだということが、確かに伝わってきた。


 俺は、作りかけの作業を中断し、腰に短剣とポーチだけを提げると、静かに席を立った。アリシアへの書き置きは必要ないだろう。彼女のことだ、目を覚ました頃に俺がいないことに気づいても、「また何か変なことでも始めたんだろ」と、大して気にも留めないに違いない。俺は、セルフィの後に続き、陽光が満ちるアパートの廊下へと、一歩を踏み出した。



 二人きりでアークライトの街を歩く、というのは、これが初めてのことだった。いつもは、俺たちの間には、緩衝材のようにアリシアの快活な存在があった。彼女の絶え間ないおしゃべりが、俺とセルフィの間の、ぎこちない沈黙を埋めてくれていた。だが、今は違う。俺と、俺のすぐ前を歩くセルフィ。その間には、言葉の代わりに、静寂だけが存在している。だが、その静寂は、決して不快なものではなかった。むしろ、互いの存在を、より深く意識させるような、密度の濃い沈黙だった。


 街の雑踏を抜けて西門をくぐり、広大な森へと続く小道へと足を踏み入れる。一歩、森の中に身を置いた瞬間、空気が変わった。街の喧騒と、生活の匂いが嘘のように後退し、代わりに、湿った土の匂い、腐葉土の甘い香り、そして無数の植物が発する、生命力に満ちた青々しい匂いが、俺の肺を満たしていく。頭上では、木々の葉が幾重にも重なり合って、緑色の天蓋を形成している。そこから漏れ落ちる木漏れ日が、地面に敷き詰められた苔やシダの上に、ゆらゆらと揺れる光の模様を描き出していた。耳に届くのは、遠くで鳴く鳥の声、風が梢を渡る音、そして、俺たちの足が落ち葉を踏む、乾いた音だけ。


 ここは、セルフィの領域だ。


 街中を歩いている時とは、彼女の放つ雰囲気が明らかに違っていた。背筋は、より一層まっすぐに伸び、その歩みには、一切の迷いがない。まるで、自分の家の廊下を歩くかのように、自然で、くつろいでいるようにさえ見える。彼女は、この森の全てを、自分の身体の一部のように感じ取っているのだろう。その気配は、俺に、彼女がただの魔法使いではなく、この森という巨大な生命体と対話し、その理と共に生きる、特別な存在であることを、改めて強く認識させた。


 しばらくの間、俺たちは無言で森の奥深くへと進んでいった。道なき道ではあったが、セルフィは、まるで目に見えない道筋がそこにあるかのように、淀みない足取りで木々の間を縫っていく。俺は、ただ黙って、その小さな背中を追い続けた。


 やがて、彼女は、森の中にぽっかりと開けた、小さな円形の広場の前で、不意に足を止めた。その広場の中心には、ひときわ巨大な古木が、まるで森の主であるかのように、威厳に満ちた姿でそびえ立っている。その幹は、大人が五人がかりで腕を回しても、まだ足りないほどの太さがあった。苔むした樹皮は、長い年月の記憶を刻み込んだ、賢者の顔の皺のようにも見える。広場の周囲には、小さな小川がさらさらと流れ、澄んだ水が、陽光を反射してきらきらと輝いていた。


「…ここ」


 セルフィが、広場を指し示しながら、ぽつりと呟いた。


「…マナが濃い。大地の力が、この木に集まってる」


 俺は、彼女の言葉を聞きながら、周囲の空気に意識を集中させた。確かに、この場所の空気は、森の他の場所とは明らかに質が違う。空気が、わずかに震えているような、あるいは、ごく微弱な静電気を帯びているような、肌をぴりぴりと刺激する感覚がある。これが、マナ、あるいは魔素と呼ばれるものの正体なのだろう。俺の持つ『吸収』の力は、それを具体的なデータとして認識することができるが、セルフィは、それを肌で、あるいは魂で、直接感じ取っている。


 彼女は、小川のほとりまで歩いていくと、その流れの中に、そっと指先を浸した。


「…水精霊がいる。とても、小さいけれど。この水の清らかさを守ってる」


 水精霊。俺のいた世界のファンタジーでは、お馴染みの存在だ。だが、この世界では、それは空想の産物ではなく、確かに存在する理の一部なのだ。俺は、彼女が見つめる水面を覗き込んだ。俺の目には、ただ澄み切った水と、その底で揺れる滑らかな小石しか見えない。だが、セルフィの目には、その流れの中に宿る、小さな生命の輝きが、確かに見えているのだろう。彼女は、その見えない存在と、静かに対話しているようだった。


 やがて、彼女は水から指を離すと、今度は広場の中心に立つ、あの巨大な古木へと向かった。そして、そのごつごつとした樹皮に、まるで大切なものに触れるかのように、そっと手のひらを当てた。


「…この木は古い。そして、とても賢い。たくさんの記憶を持ってる」


 彼女は、目を閉じ、木の幹に寄り添うようにして、その声に耳を澄ませている。


「…この木の枝は、森の力をよく通す。優れた魔法の杖になる。私の杖も、この木の遠い子孫から作られた」


 彼女は一つ一つ、丁寧に、この森に宿る神秘について、俺に教えてくれた。それは、俺がこれまで本の中でしか知ることのできなかった、魔法と精霊が息づく世界の、生の姿だった。彼女の言葉は、無駄がなく、飾り気もない。だが、その一言一言には、この森に対する、深い愛情と、畏敬の念が込められているのが、痛いほど伝わってきた。彼女にとって、この森は、ただの木々の集合体ではない。数多の精霊が宿り、マナが循環し、そして、それら全てが調和して存在する、一つの巨大な生命体そのものなのだ。


 俺は、彼女の知識を、純粋に尊敬した。


 俺の『吸収』がもたらす知識は、絶対的で、網羅的で、そしてデータに基づいた、極めて無機質なものだ。物質の構成成分、エネルギーの分布図、過去の履歴。それらは、客観的な事実としては、おそらくセルフィが感覚で捉える情報よりも、遥かに正確で詳細だろう。だが、そこには決定的に欠けているものがあった。それは、対象との『対話』であり、『共感』だ。俺は、森を『分析』することはできても、セルフィのように、森と『語り合う』ことはできない。俺は、水の中に含まれる化学物質のリストを読み上げることはできても、彼女のように、そこに宿る水精霊のささやきを聴くことはできない。


 俺と彼女の知識体系は、同じ対象を見ていながら、その実、全く異なる次元に存在している。デジタルとアナログ。科学と信仰。分析と共感。どちらが優れているという話ではない。ただ、そのアプローチの仕方が、根本的に違うのだ。そして俺は、彼女が持つ、その温かく、生命感に満ちた世界の捉え方に、一種の憧れにも似た感情を抱いていることに、気づいていた。


 俺が、そんな内省に沈んでいると、不意に、セルフィが木から身体を離し、こちらを振り返った。その翠の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。


「…あなたもやってみて」


「…俺が?」


「…感じるはず。あなたなら。私とは、違うやり方で」


 試されている。俺は、そう直感した。彼女は、俺が月光草の群生地をいとも簡単に見つけ出したこと、そして、あの異常な性能を持つ調理器具を作り出したことの裏に、何か特別な『感知能力』があることを見抜いている。そして今、このマナが満ちる聖域のような場所で、その能力の正体を、彼女自身の目の前で、示せと、そう言っているのだ。


 俺は、一瞬、ためらった。この力は、隠し通すと決めたはずだ。その片鱗を見せれば見せるほど、俺の存在の異質さは、ますます際立ってしまう。だが、目の前にいるこのエルフの、純粋な探求の眼差しを前にして、嘘や誤魔化しが通用しないことも、俺は理解していた。彼女は、俺の力の危険性や、それがもたらすであろう厄介事などには、興味がない。ただ、その理を知りたい。魔法使いとして、探求者として、未知の現象の真理に触れたい。その、あまりにも真摯な欲求を、俺は、無下にはできなかった。


 それに、彼女ならば、あるいは。俺のこの力の異質さを、恐怖や拒絶ではなく、ただ一つの『現象』として、冷静に受け入れてくれるのではないか。そんな、淡い期待が、俺の胸の中に芽生えていた。


 俺は、小さく息を吐くと、覚悟を決めた。


「…分かった。少しだけ、試してみよう」


 俺は、セルフィが先ほどまでそうしていたように、巨大な古木の幹へと近づき、そのごつごつとした樹皮の上に、ゆっくりと右の手のひらを置いた。ざらりとした、硬い感触。だが、その奥にある、巨大な生命の脈動が、手のひらを通して、微かに伝わってくるようだった。


 俺は、意識を集中させ、『吸収』の能力を、これまでになく、深く、そして広く、解放した。


 俺の意識が、手のひらの一点から、まるで水面に広がる波紋のように、周囲の世界へと浸透していく。まず、この古木の全てを読み解く。樹齢、内部構造、根の張り巡らされた範囲、光合成の効率、そして、その幹に蓄えられた膨大なマナの量。次に、俺の意識は、木の根を伝って、大地そのものへと広がっていく。この広場の下を流れる、地下水脈の正確な位置と流速。土壌を構成する鉱物の種類と分布。そして、この一帯に満ちる、魔素の立体的な分布図。


 セルフィは、この場所のマナが『濃い』と、感覚的に表現した。だが、今の俺には、それが、どれだけ濃いのかを、具体的な数値として示すことができる。


 俺は、木に手を触れたまま、静かに口を開いた。


「…この場所の魔素密度は、森の平均値と比較して、約三・四倍。原因は、この木そのものが持つ集積能力と、地下七メートルの地点を流れる、三本の地下水脈が、この真下で合流していることによるものだ」


 俺の言葉に、セルフィの身体が、かすかに強張ったのが気配で分かった。俺は、構わず続けた。


「君が言った、水精霊。それは、おそらく、この合流点で発生する、特殊なマナの渦によって生じた、純粋なエネルギー生命体の一種だろう。極めて微弱だが、水の分子構造に干渉し、その純度を維持する能力を持っているようだ」


 俺は、そこで一度、言葉を切った。そして、ゆっくりと木から手を離し、隣に立つセルフィの方を振り返った。


 彼女は、絶句していた。


 いつもは感情の揺らぎを見せない、静かな湖面のような翠の瞳が、信じられないものを見たかのように、大きく見開かれている。その唇は、何かを言おうとして、わずかに開かれたまま、しかし、 言葉も紡ぎ出すことができずに、小さく震えていた。


 無理もないだろう。彼女が、長年の修行と、森との対話によって、ようやく感覚的に、そして断片的にしか捉えることのできなかった世界の真理。それを、ほんの数十秒、木に手を触れただけで、あまりにも具体的で、あまりにも正確な『データ』として、言語化してしまったのだ。それは、彼女のこれまでの常識、そして、彼女が拠り所としてきた魔法という体系そのものを、根底から覆しかねないほどの、衝撃的な事実だったに違いない。


「…なぜ」


 ようやく、彼女の唇から、絞り出すような声が漏れた。


「なぜ、そこまで…分かる?それは、どんな魔法?どんな、精霊術?」


 その声には、もはや俺を試すような響きはなかった。ただ、純粋な、そしてほとんど畏怖に近い響きを帯びた、問いかけだけがあった。


 俺は、彼女のその問いに、どう答えるべきか、一瞬迷った。だが、ここまで見せた以上、中途半端な嘘は、もはや意味をなさないだろう。


「…魔法じゃない。精霊術でもない。俺にも、これが何なのか、正確には説明できない。ただ、俺は、物事の『情報』を直接読み解くことができる。それだけだ」


 それが、俺が彼女に示せる、最大限の誠意だった。


 俺の答えを聞いたセルフィは、しばらくの間、何も言わずに、ただじっと俺の顔を見つめていた。その瞳の中では、おそらく、激しい思考の嵐が吹き荒れていたことだろう。驚愕、困惑、そして、自らの理解を超えた存在に対する、魔法使いとしての探求心。


 やがて、彼女は、ゆっくりと、天を仰いだ。そして、木々の隙間から見える、青い空を見つめながら、ぽつりと、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、呟いた。


「…世界の理は、一つじゃない…」


 その一言は、彼女が、俺という存在を、どうにかして自分の中で理解しようと、もがき苦しんだ末にたどり着いた、一つの結論のようだった。彼女は、俺を、自分たちの世界の理から逸脱した『異物』として拒絶するのではなく、自分たちの知らない、別の理に基づいて存在する『何か』として、受け入れようとしている。


 その事実に、俺は、胸の奥深くを、静かな感動のようなものが突き抜けていくのを感じた。


 セルフィは、再び俺に視線を戻した。その翠の瞳には、先ほどまでの激しい動揺の色は、もうなかった。代わりに宿っていたのは、まるで古代の賢者を前にしたかのような、あるいは、初めて見る神聖な遺物を目にしたかのような、静かで、そして深い、畏敬の念だった。


「…あなた。すごい」


 彼女の唇から、飾りのない、心の底からの言葉が、静かに紡ぎ出された。


 その瞬間、俺と彼女の間にあった、目には見えない壁が、音もなく崩れ落ちていくのを、俺は確かに感じた。探求者と、その対象。監視する者と、される者。そんな、ぎこちない関係は、もはやどこにもなかった。ただ、異なる理を持つ者同士が、互いの存在を認め合い、そして、静かな敬意を払い合う、そんな新しい関係が、このマナの満ちる森の広場で、確かに産声を上げたのだ。



 森からの帰り道、俺たちの間には、行きとは全く違う質の、穏やかで満ち足りた沈黙が流れていた。会話は、ほとんどなかった。だが、言葉は必要なかった。俺たちは、互いの存在の根源的な部分で、深く理解し合ったのだという、確かな実感があった。


 セルフィは、時折、道端に咲く小さな花や、木の幹に生えた珍しい苔を指さしては、その名前と、エルフの伝承における役割を、ぽつり、ぽつりと俺に教えてくれた。それは、もはや俺を試すためのものではなく、ただ、自分の知っている美しいものを、新しくできた友人と分かち合いたい、という、純粋な好意から来る行動のように感じられた。俺もまた、彼女の話に静かに耳を傾け、時には、その植物が持つ薬効成分について、『吸収』によって得た知識を、あくまで俺自身の推測であるかのように装いながら、付け加えた。そんな、穏やかな知の交換が、俺たちの新しい関係を、より一層心地よいものにしていた。


 アパートの前に着いた頃には、太陽は西の空に大きく傾き、街全体が、温かいオレンジ色の光に染まっていた。


「…ありがとう」


 別れ際に、セルフィが、そう、ぽつりと言った。


「今日は楽しかった」


 そして、いつもは感情を映さない彼女の顔には、ほんのわずか、本当にごくわずかだけ、柔らかな、微笑みにも似た表情があった。


 俺は、何も言わずに、ただ静かに頷き返した。

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