第9話
アパートでの新しい生活が始まって、数日が過ぎた。朝日が東の窓から差し込み、まだ何も置かれていない床板の上に、温かい光の四角形を描き出す。その光の中で舞う無数の埃の粒子を眺めながら、俺は深い呼吸を一つした。静かだ。街の喧騒から隔絶されたこの部屋は、俺が求めていた静寂に満ちている。思考を妨げるものは何もない。この場所は、紛れもなく俺だけの城であり、そして実験室だった。
日中はアリシアたちと共にギルドの依頼をこなし、夕暮れと共にこの部屋へ戻る。そんな生活のリズムにも、少しずつ慣れてきた。彼女たちは変わらず宿屋を拠点としているが、夕食時になると、どちらからともなくこのアパートに顔を出すのが、いつの間にか日課のようになっていた。アリシアは街で仕入れてきたエールの大瓶を片手に、その日の出来事を大声で語り、セルフィは森で摘んできたという珍しいハーブを、俺のささやかな調理台の隅にそっと置いていく。俺は、そんな二人を横目で見ながら、市場で手に入れた食材で簡単な食事を準備する。血の繋がりも、共に過ごした時間の長さもない。だが、俺たちの間には、家族の食卓にも似た、穏やかで温かい空気が確かに流れ始めていた。
その充足感は、偽りのないものだ。だが、俺という人間の根源には、常に探求者としての性分が深く根を張っている。そして、その探求者としての俺が、この新しい生活の中で、一つの看過できない問題に直面していた。
それは、調理道具の品質、という極めて実際的な問題だった。
アークライトの市場で手に入る食材は、驚くほど質が高い。大地のエッセンスを凝縮したかのように味の濃い野菜、森でのびのびと育った猪の力強い味わいを持つ肉。それらは、俺の創作意欲を強く刺激する、素晴らしい素材の宝庫だった。だが、その素材のポテンシャルを最大限に引き出すべき道具が、絶望的なまでにその役目を果たせていなかったのだ。
特に問題だったのは、刃物だ。アパートに備え付けられていた年代物の包丁は、もはや切るというよりも、食材を押し潰しているに近かった。刃はなまくらで、どれだけ砥石で研いでも、すぐに切れ味は鈍ってしまう。野菜を切れば、その繊維は無残に破壊され、瑞々しさは失われる。肉を切れば、断面はささくれ立ち、焼いた時にそこから貴重な肉汁が流れ出てしまう。素材が持つ本来の味と食感を、道具の質の低さが損なっている。その事実が、物事の本質を理解し、それをあるべき形にしたいと願う俺の根源的な欲求にとって、耐え難いほどの不協和音となっていた。
宿屋のスープを改良した時、俺は香辛料という『概念』を創造することで、味の世界を劇的に変えてみせた。だが、それはあくまで味付けという、料理の一側面に過ぎない。素材そのものが持つ力を引き出すためには、それを扱うための物理的な道具が、どうしても必要になる。もっと切れる刃物が欲しい。食材の細胞を壊さず、その生命力を保ったまま、意のままに切り分けることができる、理想の刃物が。
その欲求は、やがて一つの明確な結論へと俺を導いた。
無いのなら、作ればいい。
俺には、そのための力がある。万物の情報を読み解く『吸収』と、それらを組み合わせて新たな概念を創造する『融合』。この二つの権能は、料理だけでなく、あらゆる生産活動において規格外の結果をもたらす可能性を秘めている。ならば、俺自身の手で、この世界のいかなる名工の作をも凌駕する、究極の調理器具を作り出してやろうではないか。その決意は、俺の心に、久しく忘れていた種類の、純粋な創作への情熱の火を灯した。
◇
理想の調理器具を創造する。そう決意したのはいいが、問題はそのための具体的な方法と場所だった。通常の工程で刃物を作るのであれば、当然、鍛冶場が必要になる。炉で鉄を熱し、金床の上で槌を振るい、鋼を鍛え上げる。だが、その選択肢は、最初から俺の中にはなかった。
俺の『融合』の力は、この世界の常識的な製造工程を、完全に無視することができる。炉の熱も、鍛冶師の槌音も必要としない。俺が為すのは、物質を原子レベルで分解し、俺のイメージ通りに再構築するという、まさに理の外の所業だ。そんな光景を、誰か一人でも目撃してしまえばどうなるか。それは、俺が『普通』ではないことを、何よりも雄弁に証明してしまうことになるだろう。俺の力の秘密は、俺の平穏な日常を守るための、最後の砦だ。それを、不用意に危険に晒すわけにはいかなかった。
ならば、作業を行う場所は、必然的に一つに絞られる。このアパートの、俺の部屋。誰の目にも触れることのない、俺だけの閉ざされた空間。そこで、静かに、そして密やかに、俺だけの創造の儀式を執り行うのだ。
次に必要なのは、素材の調達だった。俺は、翌日の午前、アリシアとセルフィには「少し、街で調べ物をしてくる」とだけ告げて、一人で市場へと向かった。目指すは、職人街の片隅にある、金属を扱う商人たちが集まる一角だ。活気のある大通りから外れ、細い路地へと足を踏み入れると、空気に混じる匂いが変わる。焼きたてのパンの香ばしい匂いは後退し、代わりに、石炭の燃える匂いや、金属が擦れる独特の匂いが鼻腔をくすぐり始めた。
俺は、立派な武具を並べる店や、磨き上げられた銅製品を売る店には目もくれず、さらに奥まった、ほとんど日の当たらない場所へと歩を進めた。そこには、およそ売り物とは思えないような品々が、無造作に山と積まれている。壊れた農具の残骸、用途の分からなくなった機械の部品、そして、俺が探し求めていたもの。赤黒い錆に覆われた、クズ鉄の山。かつては剣であったもの、鎧の一部であったもの、あるいはただの鉄の塊であったもの。それらが、もはや元の形を留めることもなく、打ち捨てられ、雨風に晒され、ゆっくりと土に還るのを待っているかのようだった。
店の主らしき、背の曲がった老人が、日向でうたた寝をしていた。俺が鉄の山を物色する音で目を覚ました彼は、片目だけを薄く開け、値踏みするような視線をこちらに向けた。
「…何か、ご入り用かね、冒険者さんよ」
「ああ。この中から、いくつか見繕って欲しいんだが」
「ほう。こんなガラクタの中から、何か掘り出し物でも探そうってのかい? やめときな。ここにあるのは、ドワーフの鍛冶師でも、もう一度打ち直すのを諦めたような代物ばかりだぜ」
老人は、面倒そうにそう吐き捨てた。彼の目には、この鉄の山は、文字通り何の価値もないゴミの塊としか映っていないのだろう。だが、俺にとっては、この山こそが宝の山だった。なぜなら、『吸収』の力を使えば、これらの鉄塊が秘めている本来のポテンシャルを、俺は正確に読み解くことができるからだ。
俺は、老人に断りを入れると、鉄の山に近づき、その中の一つに、何気ない動作を装って指先でそっと触れた。
瞬間、脳内に情報が流れ込む。
『鉄製の長剣の残骸』。炭素含有率、低。不純物として硫黄、リンを多く含む。鍛え方が甘く、結晶構造にムラが多い。素材としての価値、極めて低い。
やはり、見た目通りの代物だ。俺は、次々と鉄塊に触れていく。壊れた兜、歪んだ盾、そして、ただの錆びた塊。そのどれもが、似たような、絶望的な情報しかもたらしてくれない。だが、俺は焦らなかった。探求とは、根気のいる作業なのだ。膨大なガラクタの中から、僅かな可能性の光を見つけ出す。そのプロセスこそが、俺の性分に合っている。
そして、数十個目の鉄塊に触れた時、俺の指先に、これまでとは明らかに質の違う情報が流れ込んできた。
『隕鉄の欠片』。主成分、鉄。ニッケルを約八パーセント含有。その他、コバルト、ガリウム、ゲルマニウム等の希少金属を微量に含む。極めて高硬度かつ強靭。素材としての価値、計り知れない。
これだ。
俺は、内心の興奮を表情に出さないように細心の注意を払いながら、その赤錆に覆われた、何の変哲もない拳大の石のような塊を、慎重に拾い上げた。ずしりとした、心地よい重みが腕に伝わる。この世界の人間にとっては、ただの錆びた鉄塊にしか見えないだろう。だが、俺には分かる。この内部には、この星の法則を超えた、宇宙の記憶が眠っている。これを核とすれば、俺が思い描く理想の刃物を、創造することができるに違いない。
俺は、その隕鉄の欠片と、その他いくつかの、比較的質の良い鉄鉱石を選び出すと、それらを麻袋に詰め、眠そうな老人の方へ持っていった。
「これらを、全部まとめて譲ってほしい」
「…ほう。そんなものを集めて、一体どうするんだい?」
「ちょっとした、趣味の細工に使うだけだ」
老人は、奇妙なものを見るような目で俺を見ていたが、商売は商売だ。彼は、鉄の塊の重さを手で適当に測ると、破格と言っていいほどの安い値段を口にした。
「…ふん。まあ、ゴミが片付くだけでも儲けもんか。全部まとめて、銅貨五枚でいいや。持っていきな」
俺は、銀貨一枚を差し出し、「釣りは取っておいてくれ」とだけ告げた。老人の目が、少しだけ見開かれた。俺は、彼が何かを言い出す前に、ずしりと重い麻袋を肩に担ぎ、その場を足早に立ち去った。
アパートへの帰り道、俺の心は、静かな興奮と、これから始まる創造行為への期待感で満たされていた。誰にも理解されない、孤独な作業。だが、それこそが、俺という人間が、最も自分らしくいられる時間なのだ。
◇
その夜、アパートの部屋の窓には厚い布を掛け、外に光が漏れないように細心の注意を払った。アリシアとセルフィは、今夜はギルドの仲間との付き合いがあるとかで、ここには来ない。好都合だった。今夜は、誰にも邪魔されることなく、俺の儀式に集中することができる。
部屋の中央、硬い木の床の上に、市場で手に入れたクズ鉄の山を広げる。赤黒い錆の塊が、ランプの頼りない灯りに照らされて、不気味な影を床に落としていた。俺は、その前にあぐらをかいて座り、ゆっくりと呼吸を整える。これから行うのは、単なる物作りではない。世界の理を書き換える、禁忌の行為だ。精神を研ぎ澄まし、全神経をこれから扱う力へと集中させる必要がある。
俺はまず、あの『隕鉄の欠片』を両手で包み込むようにして、持ち上げた。ひんやりとした、ざらついた感触が、手のひらに伝わってくる。
第一段階、『吸収』による、完全なる分析。
俺は、目を閉じ、意識をその鉄塊の内部へと沈めていく。俺の精神が、物質の表層を通り抜け、その根源的な構造へとアクセスしていくような感覚。脳内に、再びあの情報の奔流が流れ込み始めた。だが、今度のそれは、これまで経験したものとは比較にならないほど、高密度で、そして複雑なものだった。
鉄原子とニッケル原子が織りなす、緻密で美しい結晶構造。ウィドマンシュテッテン構造、と呼ばれる、隕鉄特有の幾何学模様が、原子レベルの解像度で俺の意識の中に描き出されていく。その隙間に、まるで星屑のように点在する、希少金属の原子たち。そして、この鉄塊が経験してきた、想像を絶するほどの長い時間。遥か昔、太陽系がまだ若かった頃、どこかの惑星の核として生まれ、やがて星の死と共に宇宙空間へと放り出され、何億年もの間、絶対零度の闇の中を旅し続けた記憶。大気圏に突入した際の、灼熱の痛み。そして、このアースガルドの大地に突き刺さり、静かに錆びついていくまでの、孤独な時間。それら全てが、物質に刻まれた情報として、俺の中に流れ込んでくる。俺は、この鉄塊の、魂とでも言うべきものに触れていた。
分析は、完了した。次に移行するのは、第二段階。『融合』による、創造的再構築。
俺の脳内には、すでに明確な完成図が描かれている。それは、単なる包丁の設計図ではない。理想的な切れ味と、耐久性と、そして使いやすさを実現するための、完璧な原子配列の設計図だ。
まず、不純物の完全なる排除。俺は、隕鉄の表面を覆う酸化鉄、すなわち錆の分子構造に意識を集中させた。そして、『融合』の権能を行使し、鉄原子と酸素原子の結合を、原子レベルで強制的に解き放つ。すると、俺の手の中にある鉄塊から、まるで意思を持っているかのように、赤黒い微細な粒子がふわりと剥がれ落ち始めた。それは、音もなく床に積もり、やがてただの赤い塵の山となる。次に、鉄塊の内部に僅かに含まれていた硫黄やリンといった、脆さの原因となる不純物原子を、一つ一つ正確に識別し、同じように外部へと排出していく。
浄化のプロセスが終わった時、俺の手の中にあったのは、先ほどまでの錆びた塊が嘘のような、鈍い銀色の輝きを放つ、高純度の金属塊だった。
次に、鋼の生成。隕鉄は、それ自体が極めて強靭な素材だが、俺が目指すのは、それをさらに超えた領域だ。俺は、純粋な鉄とニッケルの合金に、ごく微量の炭素を、完璧な比率で結合させることをイメージした。その炭素は、どこから調達するか。答えは、すぐそこにあった。俺は片手を、部屋の隅に置いてあった薪の木片へと伸ばす。そして、『吸収』と『融合』を同時に行使し、木材を構成するセルロースの中から、炭素原子だけを抽出し、それを目に見えないエネルギーの流れに乗せて、手の中の金属塊へと送り込んだ。
その瞬間、金属塊が、内側から淡い、青白い光を放ち始めた。炉の熱もないのに、まるで自らが恒星であるかのように、静かな光と熱を発している。炭素原子が、鉄とニッケルの結晶格子の中に、俺が設計した通りの最適な位置へと、吸い込まれるように収まっていく。それは、神話の中で語られる、神々が星々を創造する光景にも似ていたかもしれない。静かで、厳かで、そして、この世界のいかなる法則からも逸脱した、奇跡の瞬間。
やがて、光は収まり、熱も冷めていく。俺の手の中に残されたのは、先ほどの金属塊よりも、わずかに黒みを帯びた、吸い込まれるような深みのある色合いを持つ、未知の合金の塊だった。これが、俺が創造した、究極の『鋼』だ。
そして、最後の段階へと移行する。成形。
俺は、その鋼の塊を、床の上に静かに置いた。そして、その上に、再び両手をかざす。俺の脳裏には、理想の『万能包丁』の形状が、寸分の狂いもなく描き出されている。刃の長さ、厚み、峰から刃先へと至る緩やかな曲線。そして、手に最も馴染むように設計された、柄の形状。
『融合』、最終行使。
熱して、叩いて、延ばす。そんな、この世界の鍛冶師たちが何千年もの間、受け継いできた工程を、俺は完全に無視した。俺が為すのは、より直接的で、そして根源的な操作だ。鋼の塊を構成する無数の原子たちに、直接、移動を命じる。
それは、常識では考えられない光景だったに違いない。硬質なはずの鋼の塊が、まるで高密度の粘土であるかのように、音もなく、その形をゆっくりと変え始めたのだ。それは、溶けているのではない。蒸発しているのでもない。物質としての状態を保ったまま、その外形だけが、俺の意思を忠実に反映して、変質していく。
塊の一部が、すうっと薄く伸びていき、鋭利な刃を形成する。別の一部は、厚みを増し、頑丈な峰となる。そして、残りの部分が、滑らかな曲線を描きながら、握りやすい柄の形へと収束していく。全てが、一体だ。刃と柄の間に、継ぎ目は一切存在しない。一本の鋼の塊から、削り出すでもなく、付け加えるでもなく、ただ、その原子の配置を組み替えることによってのみ、一本の包丁が、この世に生まれようとしていた。
やがて、変化は止まった。
床の上には、静かに、一本の包丁が横たわっていた。
それは、俺が思い描いた通りの、いや、それ以上の存在だった。刃は、鈍い銀色の光を放ち、その表面は、光を吸い込むかのように滑らかだ。柄の部分は、金属でありながら、まるで手に吸い付くかのような、不思議な質感を備えている。俺は、恐る恐る、という表現が最も近い仕草で、それを手に取った。ずしりとした重み。だが、その重心は完璧に計算されており、まるで自分の腕の一部であるかのように、しっくりと手の中に収まった。
俺は、試し切りのために用意しておいた、市場で最も硬いと言われたカボチャを、まな板代わりの厚い木の板の上に置いた。そして、完成したばかりの包丁の刃先を、その硬い皮の上に、そっと乗せる。
力を、入れるまでもなかった。
包丁は、ただ、その自重だけで、何の抵抗もなく、カボチャの中へと沈み込んでいった。サク、というよりも、スッ、という、ほとんど音のしない音。まるで、温かいナイフでバターを切るかのように、刃は硬い皮と分厚い果肉を分け、まな板に達した。断面は、磨かれた鏡のように滑らかで、細胞の一つ一つが破壊されることなく、完璧な形で切断されているのが見て取れた。
次に、熟したトマトを試す。これまで使っていたなまくらな包丁では、皮に刃が滑り、中身を潰してしまうのが常だった。だが、この包丁は違った。刃が、薄い皮に触れたか触れないかの瞬間に、トマトは、自重で両断されていた。断面からは、一滴の汁もこぼれ落ちていない。
これが、俺の力。これが、俺が創造した、理の外の道具。
俺は、その異常なまでの切れ味に、満足感と同時に、ある種の畏怖を覚えていた。こんなものが、この世界の常識で受け入れられるはずがない。これは、もはや道具ではない。人の手が生み出すことを許されない、禁忌の産物だ。
その夜、俺は同じ方法で、フライパンと、いくつかの小さな調理器具を創造した。どれもが、この世界の常識を遥かに超えた、完璧な性能を秘めていた。
◇
翌日の夕食時、アリシアとセルフィは、いつものように俺のアパートを訪れた。俺は、何も言わず、新しく作った調理器具を使って、簡単な野菜炒めと、鳥肉のスープを準備した。
変化に最初に気づいたのは、アリシアだった。
「ん? なんだい、ケント。その包丁、新しいのか? ずいぶんと、良い音で切れるじゃないか」
俺が野菜を刻む、トントントン、という軽快な音。それは、これまで使っていたなまくらな包丁の、ゴツゴツとした鈍い音とは、明らかに違っていた。
「ああ。少し、良いものを手に入れたんでな」
俺は、曖昧にそう答えることしかできなかった。
食事がテーブルに並ぶ。見た目は、いつもと変わらない、素朴な料理だ。だが、一口食べた瞬間、アリシアの目が、驚きに見開かれた。
「うまっ! なんだこれ! いつもの野菜炒めなのに、野菜の味が全然違う! シャキシャキしてて、味が濃い!」
それは、当然の結果だった。切れ味の良い包丁で、細胞を壊さずに切られた野菜は、その本来の味と食感を、全く損なうことなく調理される。ただ、道具を変えた。それだけで、料理の質は、劇的に向上するのだ。
食後、アリシアは、興味津々といった様子で、俺が使っていた包丁を手に取った。そして、試しに、残っていた人参を一本、切ってみようとした。
彼女が、刃を人参に当て、ほんの少し、力を込めた、その瞬間だった。
彼女の動きが、完全に止まった。
人参は、音もなく、まな板の上で真っ二つに分かれている。アリシアは、信じられないというように、手の中の包丁と、切れた人参の滑らかな断面を、何度も見比べている。
「な…なんだ、こりゃあ…。切れすぎるにも、程があるだろ…。こんな剣、王宮の鍛冶師だって、作り出すことはできねえぜ…。どこの名工が作った業物なんだい、これは…」
彼女は、絶句したまま、そう呟いた。その声には、賞賛よりも、むしろ理解を超えたものに対する、戸惑いの色の方が濃く浮かんでいた。
その隣で、セルフィは、食事の時に使った、俺が作ったフライパンを、静かに手に取っていた。彼女は、多くを語らない。ただ、そのどこまでも滑らかで、継ぎ目がなく、そして、いかなる魔術的な加工の痕跡も見られないのに、完璧な熱伝導率を持つその調理器具の表面を、白く細い指先で、何度も、確かめるように、なぞっていた。
そして、やがて、その深い森の湖面を思わせる翠の瞳を、ゆっくりと俺の方へ向けた。
その視線が、俺に何を問いかけているのか。俺には、痛いほど分かっていた。
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