二千年を架けた橋の独白
ずみ
二千年のあいだ、人々を渡し続けた石橋があった。 笑い声も、泣き声も、血の匂いも、祈りの言葉も──すべてを黙って抱きしめてきた。
私は生まれた。
大河を跨ぐように、石を削られ、積まれ、組まれて。
幾人もの手が私の背を撫で、槌の音が私を形づくった。
まだ名もなき石だった私は、その日から「橋」と呼ばれた。
最初に私を渡った者は、粗末な衣をまとった旅人だった。
彼は足を止め、胸の前で手を合わせ、小さな声で祈った。
「どうかこの橋が平和を繋ぎますように」
私は言葉を持たなかったが、その響きを確かに刻んだ。
それが、私の最初の記憶である。
⸻
百年が過ぎた。
私の背を、子どもたちが駆け抜けていく。
裸足の音は軽く、弾むようで、まるで水鳥の羽ばたきのようだった。
若者たちはそこで愛を語り、老人は腰を下ろして川を眺めた。
市場へ向かう商人は荷を引き、歌を口ずさみながら足音を重ねた。
私は笑い声を覚えた。
石の胸に、その響きは甘やかな痛みを残した。
⸻
三百年が経った。
帝国は栄え、祭の日には踊り子の鈴が川風に鳴った。
私は踊りの輪を抱え、花びらを受け止め、夜になれば篝火の赤を映した。
ある年、私は花嫁を渡した。
城下の小さな家から出てきた純白の娘は、花冠をずらして笑い、父の腕に手を絡めた。
娘は私の真ん中で立ち止まり、川のほうを見た。
川風が彼女の頬を撫で、花びらが舞った。
彼女は小さく囁いた。
「どうか、うまくいきますように」。
私はその言葉に、最初の旅人の祈りを重ねた。平和を繋ぐこと。
――私は、そのためにここにいる。
⸻
五百年が経った。
甲冑の轟音と血の匂いが私を覆った。
戦乱のとき、私の背を甲冑の軍勢が駆け抜けた。
馬蹄の轟音、剣戟の叫び。
やがて血が流れ、石畳を赤く染めた。
一人の若い兵が、剣を落として座り込んだ。
「絶対に生きて帰って、彼女に会いに」
矢が飛び、想いは音を持たない影になった。
火薬が仕掛けられ、私は裂けかけた。
だが崩れなかった。
逃げ惑う民の一人が、私を振り返り、声を震わせて言ったからだ。
「きみのおかげだ」
私はその言葉を支えに、残り続けた。
⸻
八百年が経った。
戦は収まり、代わりに祈りが満ちた。
巡礼者たちが私を渡り、僧侶が唄を響かせる。
彼らは石に触れ、願いを囁いた。
「家族が無事でありますように」
「病が癒えますように」
「次の収穫が豊かでありますように」
祈りの言葉は私に吸い込まれ、私は目を覚ました。
私はもうただの道ではない。
願いを抱く器になったのだ。
⸻
千年を超えたころ、葬列が幾度も私を渡った。
鈴は鳴らず、笛は鳴らず、ただ布が擦れる音だけが川に落ちた。
人は泣き、やがて泣かなくなった。
私の上を通るのは棺と沈黙する人々だけだった。
川の流れよりも、沈黙の方が重かった。
けれど、ある母が子の亡骸を抱き、私に語りかけた。
「次の世代はきっと生きる」
その声は細く、途切れそうだった。
だが私は確かに刻んだ。
祈りは血よりも深く、石に染み込むのだ。
⸻
千五百年。
王が代わり、旗が変わり、靴音が変わった。
「昔の方が良かった」と嘆く声も、「これからは変わる」と笑う声もどちらも同じ重さで私を渡った。
人の重さは同じだった。
私は誰をも拒まなかった。
誰であれ、どこへであれ。新しい税を運ぶ車輪も、古い歌を運ぶ足も、等しく私の上を過ぎた。
渡る者があれば、その背を支える。
それが私の存在する理由だった。
⸻
千八百年。
人々は新しい道を選んだ。
鉄で編まれた巨大な橋が川を跨ぎ、車輪は轟音を響かせ箱が風のように渡っていった。
私は「古いだけの遺物」と呼ばれた。
渡る者は減り、犬の散歩と、老人の杖くらいのものになった。私の石に苔が広がった。
だが、たまに子どもが遊びに来ては、私の欄干を撫でて言った。
「ここ、好きだな」
私はまだ、祈りを覚えることができた。
⸻
千九百二年。
訪れるものも無くなって久しい私の元に、老人が荷車を押してやってきた。
荷車には壊れた椅子や鍋、古びた書物が積まれていた。
老人は私の端で荷を下ろし、川に向かって一礼した。
「長いあいだ、世話になった。ありがとう」
彼は荷を少しずつ川に投げ入れ、最後に古い書物に触れた。
手が震え、彼はためらい、やがて荷車を引き返した。
書物は私の欄干の上に置かれたままだった。
通りかかった娘がそれを拾い上げ、抱えて渡っていった。
ものは人の手から手へ渡る。
橋はそれを知っている。渡らないものはない。
二千年目。
嵐が来て、川が牙をむいた。
濁流が私を削り、轟音が私を裂いた。
私は軋み、震え、ついに砕け、流された。
私はもう橋ではない。
私はもう誰も渡らない。
ただの石となり、流れに埋もれた。
⸻
朝陽がさす水の中、私はいる。
魚が私の影に集い、苔が私を覆い、水は絶えず歌を運んでくる。
光が差し込むと、魚の鱗が一瞬だけ私を飾った。
人は去った。
だが命は絶えない。
私は覚えている。
最初の旅人の祈り。
子どもの笑い。
花嫁の願い。
兵の息吹。
村人の感謝。
巡礼者の囁き。
母の声。
旗のざわめき。
少年の足音。
そして、最後の「ありがとう」。
私はかつて橋であった。
人の祈りを受け、涙を受け、足音を渡した。
今はただの石。
私はここで、変わらず世界を抱きしめている。
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彼には何の能力もありません。
神でもありません。
ただそこにあるだけです。
それでも全てを見てきました。
これは私たちの日常のすぐ隣に溢れているお話です
(別に異世界じゃなくても成立する話でしたね…
こういう無機物視点のお話が大好きなんですが、
この世には少ないので自分で書いてみました。
ちなみにギリシャに二千年前に作られた橋が残存しています。
アルカディコ橋と言って今でも住民が使っているようです。
いつか渡りに行ってみたいものです。
二千年を架けた橋の独白 ずみ @zumyX
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