第18話 9月1日 夕方④
私がやらなければならない。
その気持ちが頭の中を満たしていて、私の身体をこわばらせる。
寒くも無いのに身体が震え、昨日から飯が喉を通らないのに空腹を感じず、夕暮れの涼しさの中でも汗が止まらない。
思い返せば、もっと早く行うべきだった。
家族に挨拶しに来た時に、男衆に声をかければすぐに終わった。祝言の時に毒を混ぜていればもっと簡単だった。子供ができぬと相談されているうちに、去年の嵐でさらわれたことにすれば、誰にも迷惑がかかることは無かった。
結婚を喜ばなければ、父にとっての晴れ舞台の場を汚したくないと思わなければ、子供ができないなら、それはそれで血が絶えることになると安心しなければ、そのうちに殺すことができた。
血のような夕日が沈みかける中、私は草むらに身を隠して懺悔する。木立が私を覆うように立っている。上からも下からも、私の姿は見えない。
なぜ、身ごもってしまったのか、なぜ、婚約してしまったのか、なぜ、嶋田家の娘に好意を抱いてしまったのか。
喉が渇く。
暑いからじゃ無い。私の身体は冷え切っていた。
先ほど佐恵は石段を登っていった。あとは降りてくる時、自分が決心すれば何も問題は無い。
父は罪を被ると言った。桐谷様は当然のことだと言った。ならば、何も恐れる物は無い。そのはずだった。
登っていってから、どれくらいの時間が流れたのか、私には見当もつかなかったが、一秒が非常に長く、そして残された時間が非常に短く感じる。
――桐谷の筋に生まれておきながら、嶋田の娘に恋をするとは。
はじめに、桐谷様からいただいた言葉はそれだった。そして、それを雪ぐには、相手――佐恵を殺すしか無いと。
嶋田家には娘が一人しかおらず、殺害が成功すれば、婚姻によって桐谷家と嶋田がつながることは、絶対になくなる。
何度も逃げようとした。佐恵だけでも逃がそうとした。それでも、桐谷の手のものが、四六時中私たちを見張っていた。逃げ出すのは不可能で、桐谷様は私に「責任」をとらせるつもりなのだということが、よく分かった。
ぱたぱたと、愛らしい足音が上から聞こえてくる。こんな逢魔が時だ、何か怖い物を見たのだろう。心底怖がりな彼女と、そんな彼女を殺さなければならない状況に、頭がおかしくなりそうで、臓腑が絞り出されるような感触があった。
息を切らして、佐恵が私の隣を駆け下りていく。その姿を見て、私は懐に忍ばせていた小刀を握りしめ後を追う。
一段、二段……息を荒げて下っていく。小刀を背中に突き立ててしまえばそれで終わりだ。だというのに、私の身体は凶器を振り上げる姿勢にはどうしてもならなかった。
そうだ、佐恵が急いでいるのだから、私は追いつけなかった。そう言い訳してお目こぼしをまた貰おう。そうすればまた先延ばしにできる。そうすれば、佐恵を殺さなくて済む未来がいつかはくる。
だが、私の希望は佐恵の足が止まったことで打ち砕かれてしまう。
逃げてくれ、足を止めるな。いくらそう考えても、佐恵に伝わるはずがない。私はもうあと少しのところまで来て、ついに小刀を振り上げ――そして、それを草むらの方へ投げた。
幸いなことにまだ彼女は私に気づいていない。ならば、私はこのまま逃げて、桐谷様に殺されよう。そうすれば、少なくとも私が目の前で息を切らし、白く細いうなじを見せる彼女の命を奪うなんてことには――
そう考えた瞬間、強い風が私の背中を押した。
強い風は周囲の木々も揺らさず、風の音も立てず、ただ私の身体だけを強く押し、思わず手を伸ばした私は、目の前に居た佐恵の背中を押していた。
その瞬間の感触と、振り返った時の驚いた顔は、生涯私の脳裏にこびりついて離れないだろう。
恨んでくれ、憎んでくれ、私をどうか許さないでくれ。
すべての動きが緩慢に流れる時の中、私は自分がしてしまった事実を受け入れられず、ただ佐恵に懺悔していた。
私に押され、石段を転げ落ちようとする彼女は、驚愕の表情で私に向き直り、消えない傷を私に残していった。
数日後、佐恵の葬儀も終わろうかという時、それは起きた。
父は私によくやったと言い。折を見て自分が罪を被ると話す。桐谷様は私によくやったとお褒めの言葉をくださった。
「今回は、お悔やみ申し上げます」
「いえ……」
佐恵の母にそんなことを言われて、私はまた臓腑が焼かれるような思いだった。
貴女は佐恵の母親なのだ。私を口汚く罵っても、それをするだけの権利がある。いや、むしろ私を罵ってくれた方が、どれだけ楽か。
しかし――私はもう、これで桐谷様からのお叱りがなくなると思えば、ある種の安心を感じていた。そんな自分を心底軽蔑する。心に落ちた昏い影は、いつしか自分を飲み込んでしまうのでは、という予感があった。
私の頭にそんな思考が渦巻く中、彼女が口にした言葉が、私の「桐谷様の役に立った」という最後の尊厳を打ち砕いた。
「……でも、安心なさってください。来週には妹が参ります」
「――は」
その言葉は、至極当然という風に発せられ、そして私の思考をすべて白紙にするほどの衝撃をもたらした。
「そんな、ことは……佐恵は何も……」
「はい、あの子も幼い頃に別れたので。こんなときに話すのも心苦しいですが、安心してください。未婚で、今回の縁談にも前向きです」
私の顔色を見て、何を勘違いしたのか、佐恵の母はそんなことを私に告げた。
だとすれば、私は――
「っ……」
涙が流れる。全くの無意味だった。ただ私が自らの手で愛する妻と、生まれてくる我が子を殺しただけ、桐谷様の意向も遂げることはできず、自分の幸せをつかむことすらできなかった。
「ごめんなさいね、佐恵が死んで、貴女も苦しいでしょうに……」
佐恵の母には、このことが露見することは無かった。この罪を私はどうやって償えば良いのか、もう、死ぬ以外の選択肢は残っていないような気がした。
――
――だが、私は死ぬことすら恐怖で足が竦み、絆されて子を為し、父に罪を着せ、そして「桐谷の呪い」により命を終わらされた。許されるはずも無い。調伏、感謝する。
「……ん」
その言葉を最後に、俺の意識は深い眠りの底から浮き上がってきた。
なんだろう。地面に倒れている訳ではなく、何か柔らかい物に寄りかかっているような……
「おっ、意識を取り戻したか」
ナリの声が聞こえて、目を開ける。視界にはすでに日が沈んでからしばらく経ったような景色が広がっており、徐々に意識がはっきりしてくると、あの社に続く道だと気づく。
「ふぅ、じゃあ自分で歩いて貰って良いかしら」
俺のすぐそばで牡丹の声が聞こえて、俺は一気に思考が覚醒する。俺は彼女に背負われて、この道を歩いていたのだ。
「うわっ!? ご、ごめん!」
「ちょ、ちょっと、急に――」
慌てて降りようとして、バランスを崩す。刀で戦ったりあんな超能力を使ったりしていても、相手は女の子だ。俺の身体を支えるには力不足である。
「っ……てぇ……」
牡丹の背中からずり落ちた俺は、変な姿勢で落ちることだけは避けられた。
「もう、急に動かないでよね。別に宗真と私、遠慮する中でも無いでしょう?」
「ああ、ありがとう」
牡丹が手を差し伸べてくれたので、それをつかんで立ち上がる。身体仁摩だうまく力が入らないようで、ふらつきながらも立ち上がった。
「えーと、俺、どんくらい寝てた?」
「二時間くらいかしらね」
牡丹がスマホで時計を確認しながら話す。二時間か……ということは今は十九時くらいか、昨日に引き続き、国道沿い以外は人気が無くなる時間帯だな。
「まあ、いきなり神祓をして、二時間で目が覚めるなら丈夫な方ね」
「そうだ、神祓って何だよ」
「神祓とはのう!」
俺が素直な質問をすると、ナリが自信満々に声を上げた。
「牡丹をはじめ、こやつらが使う対神霊剣術「剣祓」の基となった技術じゃ」
妙に浮ついた調子で自慢げに話すナリに、ちょっと引きつつ耳を傾ける。
「あれは京の都で鬼を退治した後じゃったかのう、討伐が終わった後、役人どもに泣いて請われてのう、そのとき儂のご神体として渡されたのが、その常世火安綱じゃ」
そう言って、ナリは俺の方を指さす。改めて意識すると、背中に先ほど使った刀が袋に入れられて差してあった。
「えっ、これ、持ってきても良いのか!?」
「ナリ本人が持って行こうって言い出したのよ」
驚いて背中から抜いたところで、牡丹がフォローしてくれる。
「通常、ご神体は安置しておくべきなのだけど、持って扱える人間が貴方しかいないから、持って行くことにしたの。祟りの類いも祭神本人が許可しているから大丈夫」
いや、そんなこと言われても、職質とか受けたら終わっちゃう――あれ、でも牡丹は袋に入れつつも大っぴらに持ち歩いてたな。じゃあ良いのか?
「その袋に書かれている印――祓戸の印は公務員からは『そういうもの』と認識されているから、変に意識する必要は無いわ」
「あ、はい……」
心を読めるのか。そう言いたくなったが、マジで心が読めていた場合怖すぎるので黙っておいた。
しかし、常世火安綱……だっけ? 安綱って天下五剣の筆頭童子切安綱を鍛えた刀匠だよな? そんな大層な刀なら、文化財として保護していそうな物だけど……
いや、手入れもなく安置され続けた刀が、あんなに振り回しても無事という時点で何かすごい存在だというのは分かるんだが、実感というか、そういう物が……
「まあ、なんにせよ、めったなことが無い限りは抜かないことじゃな、神霊でない者が握って、どんな反動が起きるか分からぬ」
そんな戸惑いをよそに、ナリはそんなことを言いつつ俺の身体に入り込む。すると身体を覆っていた倦怠感のような物が一気に薄れた。
『やはりな、見た目は無事でも内側はひどいものじゃ、どれ、直しておいてやるから感謝するのじゃぞ』
ナリはそんなことを言う。確かに神祓という物はすごい動きをしていたが、そこまで身体に負担がかかるのだろうか。
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