第17話 9月1日 夕方③
「……」
それは、見るからに人ならざる者だった。
全身真っ白で、四肢と頭部はあるものの、それぞれが異常なほどにねじれ、指のような部分は絡まり、頭部には孔というか、黒くぼやけた靄がかかっている。
「あれは――」
「見ないで」
詳しくその姿を確認しようとしたところで、牡丹に服ごと顔を引き寄せられた。
「あれは歪んだ霊魂、神霊に近い属性を与えられているから、見つめてそれが何か分かると持って行かれるわよ、特に貴方、桐谷とも嶋田とも縁があるんだから、格好の獲物よ」
「っ……!」
歪んだ神性と言われて、澄玲ちゃんに霊障を及ぼしている存在とのつながりが一瞬で結ばれる。しかし、どうして今現れたのか、それが分からなかった。
『■■■……』
頭に直接響くような不快な声だった。ナリが体の内側から話す時と似ていたが、それとは何かが決定的に違う。そしてその違いが、強烈な違和感となって神経を逆なでされるような感覚に襲われる。
「っ……どうすればいい?」
「気づかれていなければ、やり過ごす方法もあったけれど……何か方策はない? 稲荷様」
牡丹の声には緊張の色が滲んでいた。そうか、通常なら昨日持っていた刀を使って調伏したりもできたんだろうけど……
自分の身体を切りつけた。あの赤い軌跡を持つ刀は、彼女がいうには使い物にならないらしい。
人を斬るということは、当然血液が付着することだ。血によって穢された物をわざわざ神霊を調伏するためには使えない。おそらくはそういう理屈だろう。だが……本当にそうだとすれば、昨日の一件が本当に悔やまれる。
「鳥居の内側で気づかれたのが良かったのう。許可をしておらぬ祭神であれば、儂の社に近づくことはできぬ」
ナリはそう言いつつ、社の扉を開ける。そこには古ぼけた拵えの刀が納められていた。
「牡丹は剣祓を行えんじゃろ。ちょうど良い、儂のをよく――っ!?」
刀に触れようとしたナリだったが、その手が突如、閃光とともに弾かれたように見えた。彼女の指からは白煙が上がり、少し赤みを帯びていた。
「む……いかん。忘れておった」
「ナリ、大丈夫か?」
弾かれた手をさすっている彼女に声をかける。
「うむ、その、手はどうってこと無いのじゃが、ソーマと同化したことにより、儂の神格が落ちていることを忘れておっての」
「そんな!」
くかか、と乾いた声で笑うナリだったが、それに血相を変えて食いついたのは、牡丹だった。
「そんな……どうすれば……」
「え、落ちているとどうなるんだ?」
ナリはともかく、牡丹が深刻そうな顔をしていると、不安になる。ちらりと石段の下を見たが、歪んだ神性とやらは、ゆっくりと一段ずつ階段を上り始めている雰囲気があった。
「うむ、つまりはな、刀を握れぬ!」
「は――?」
一瞬、ナリが何を言っているのか分からなかった。
刀を持てない? え、じゃあ牡丹一人でこの状況をなんとかしなければならないのか?
そう思っていると、牡丹は俺を押しのけて無言で刀に手を触れて、離す。
「……駄目ね、さすがは霊刀……手を触れるだけで焼き付きそう」
「当然じゃ、並の霊能者なら、近づくだけでも危険な代物じゃぞ」
「ってことは、それじゃあこのまんまアレが諦めるまでここにいれば良いんじゃ無いか?」
二人がご神体の刀を前にいろいろと話しているのを聞きつつ、俺は思ったことを素直に言う。大体こういうのは、意外と素人の意見が的を射ていたりするものだ。
「それは無理ね、こちら側に認識されたということは、どこまでも追ってくるわ。そして捕まったら……」
「つ、捕まったら?」
「まあ肉体が死ぬことは無いじゃろうが、特大の霊障に当てられて正気を保てなくなる。といったところかのう」
牡丹はスマホを取り出すが、当然のように電波が通じていない状況らしい。つまり、助けを呼ぶこともできない。
「――」
ナリは刀を触れないし、代わりに牡丹が戦おうにも、彼女も刀を握れない。相手が諦めるのを待つのは不可能で、助けを呼ぶことも絶望的。その事実が意味するものは結局のところ、絶望的な一つの結論だった。
「五体満足で生きて帰るには、あの神霊を調伏しないといけないようね」
そう話して、牡丹は自分の鞄をごそごそと漁り、何かが書かれた紙片を五枚ほど、そして白木でできた四つつながった指輪――メリケンサックを取り出した。
「えっ、なにその……武器は」
「緊急時に持ってきた使い捨ての調伏道具よ」
恐る恐る聞いてみたが、牡丹はそれが当然とでも言うように平坦な声で言葉を続けた。
「安心しなさい。天津鉾鉄の刀が使えない場合の対処も、鎮守特務庁では想定されているわ」
木製のメリケンサックを右手に握ると、紙片を一枚一枚貼り合わせていく。すると、かなり攻撃的な見た目の拳ができあがった。
「さて、これに……」
鞄を地面に置いて、その中から長い数珠を取り出すと、紙片が張り付いている拳に巻き付けて、完成らしい。ゴツい、というよりもある種の禍々しさすら感じる見た目だが、あの歪んだ神性と見比べた時、確かに効果はありそうだという感じはした。
「ほう、七十七番、赫焔砕(かくえんさい)か」
「ええ、八十四ある調伏術のうち、私が扱える最大火力――」
そこまで話した瞬間、みしりという木が軋むような音がして、俺たちはその方向を見た。
……いや、見てしまった。
覆い被さるようにして鳥居をへし折ろうとする異形の霊体。
その霊体には表情は無く、ただ暗澹とした靄があるだけ――そう思っていたが、その先には人の顔が確かにあった。
「――!!!」
その表情は悔恨、憤怒、憐憫、畏怖、怨嗟……あらゆる負の感情が込められている顔だった。だが――その顔には覚えがあった。
「……親父?」
そう、年齢はより老けているように見えたが、俺の記憶に残る。家の神棚にある遺影の人物と瓜二つだった。あの目元、口の形、鼻――それらすべてに見覚えがあった。
男の顔が一度視認できると、段々と手足もそのように見えてくる。あれは、和服を着た――
「っ!! いかん!」
視界があの表情だけで埋まる寸前。ナリの言葉とともに俺は現実に引き戻された。
「っ!! うわぁっ!?」
それと同時に、太い木が押しつぶされるような音とともに、巨大な神霊が鳥居をへし折って迫ってきていた。
「たかまのはらにかんづまりまします――」
牡丹が呪文のような何かを唱え始めると、右手に巻いている数珠や紙片が赤く輝き始め、それは徐々に炎となって右手を覆っていく。
「ひをうみたまひてみほとをやかえましき――」
その間も神霊は俺たちめがけて進んでくる。俺はすぐにでも逃げ出したかったが、それ以上に輝く牡丹の右手から目が離せなかった。
どんな威力か分からない。だが、間違いなく尋常では無いことが起こるのだろうという確信があった。それこそ、目の前に迫る神霊をどうにかできるのでは無いかと思わせるほどの――
「――たたへごとをへまつらくとまをす」
牡丹が呪文のような何かを言い終わると同時に、右手を振りかぶる。拳にまとう炎は身長の数倍に燃え上がっており、神霊の巨体へ向けてそれを振り抜くと、その炎は巨大な矢となって、神霊の身体を貫いた。
「■■■■!!」
身体を灼熱の炎に焼かれて、神霊は怒りなのか苦悶なのか分からないような叫びを上げる。よし、これなら追い払うことは――
「っ、そんな――」
俺の楽観的な考えは、牡丹の声で打ち砕かれる。
神霊は燃え上がり、苦しんでいるが、消える気配は無く、そして焼け焦げながらも、その炎を飲み込もうとしていた。
「っ……!」
牡丹の右手は、すでに炭化して崩れ去った数珠と紙片がいくつか張り付いているだけ、もう一度あの強力な攻撃を打つことはできないようだ。
どうする、どうする……
必死に知恵を絞り、炎を制しつつある神霊を見る。
今はまだ動き始めていないが、炎から回復すれば俺たちに襲いかかってくるだろう。その前に、何かをしなければ。
だがナリは刀を触れない。牡丹はもう戦う手段がない。そして、俺は――
「ナリ! あの刀って霊感があったら触れないんだよな!?」
「うん? それはそうじゃが……お主一体何を考えて――」
「わかった!」
彼女の言葉を聞いて俺は社の中にあるご神体の柄を握った。
「っ――!」
「ば、馬鹿者!?」
思った通り、俺には何も感じない。せいぜい少しめまいを感じる程度だ。勢いに任せて鞘を払うように抜き去り、蒼い光をたたえた刀身を露出させる。
「あああああっ!!」
自分を鼓舞するため、絶叫とともに神霊へと足を踏み出す。刃渡りがかなりある刀だったが、神霊の巨体に比べると、果物を切るナイフ程度の大きさしか無かった。
「貴方――」
牡丹が驚きの声を漏らして、俺を見た。それを横目に俺は刀を振り上げる。剣術なんて知らないし、刀なんて木刀くらいしか握ったことは無い。見様見真似の張りぼてだ。それでも現在この状況をなんとかできるのは、俺しかいない。その事実が俺を前に押し出していた。
巨大な霊体のどこを切りつければ良いのかも分からない。刀が届く範囲はせいぜい腹部あたりだろうか、炎で動きが止まっている今しか、そこを狙うことはできない。首を狙ったりしても、切れるかどうかは分からないのだ。
「――はああっ!!」
全力で刀を振りあげる。刃を立てるとか、切った後どうするとか、そういうことは一切考える余裕はなかった。折れるとか、転けて怪我をするとか、そういうのはこの神霊をどうにか調伏して切り抜けた後だ。
もうすでに切っ先が当たるところまで近づいている。俺は恐怖から思わず目を閉じて、力いっぱい刀を振り抜いた。
「■■!!!」
手応えは無く、空を切ったような感触だけがあった。
失敗か!? そう思って目を開けると、傷口から白い炎のような物を吹き出しながら、焦げ付く身体をくねらせる神霊の姿があった。
「当たった……でも――」
浅い。素人の俺から見ても致命傷にはなり得ない攻撃だというのが分かる。もう一度――いや、もっと頭や心臓(あるのか分からないが)を狙わなければ、こいつを倒しきることができない。
俺は更に覚悟を決めて、数歩神霊に近づいて今度こそ致命傷を与えられる場所――頭部まで刀が届く位置まで移動して、再び刀を振りかぶる。
「■■■■■」
刀を突き立てる瞬間、頭部にある顔が俺の方を見た。
親父とよく似ているが、それとは違う顔――霊体の身体に身につけている服装からして、俺はこの神霊の正体を直感的に理解した。
――志藤宗一。
彼は桐谷家と嶋田家の権力闘争で、桐谷家の力を維持するために嶋田佐恵さんをここで殺した。それによってどういう効果を狙ったのかは分からない。纏まりそうだった縁談をぶち壊して、嶋田家に桐谷の威光が流れることを避けたかったのかもしれないし、単純に嶋田家の人間を殺せたらそれで良かったのかもしれない。
だが、どんな理由があろうと、こいつは先祖であると同時に、親父の敵だ。
――だから、貴方のお父さんが死ぬのは、霊障のせいよ。
あのとき言われた言葉が事実だとすれば、俺はこいつに同情や慈悲の感情を向けることは――
「っ!!?」
呼吸が止まり、自分の意識が途切れていたことを自覚する。牡丹の言う「持って行かれる」というのが、これなのだと理解して、刀を握り直そうとする。
「■■」
しかし、そんな隙を許してくれる神霊――宗一では無かった。俺が構え直すよりも早く、白く細長い指先が無数に俺の方へ伸びてくるのを視界に捉えた。
「くっ!」
その白い指から逃れようとするが、武道も何も学んだことが無い身体では、両手で上半身を覆う以外のことはろくにできなかった。
防御したところで意味は無い。触れるのがまずいのだから、指先が腕に少しでも当たれば俺は無事では済まないだろう。だから、俺が今した動きは完全に無駄で、死ぬまでの時間を延ばすことすらできないものだった。
「宗真!!」
牡丹の声が聞こえる。そして、宗一の指先が触れる瞬間、俺の身体が何者かに操られているかのように、ひとりでに動いた。
「■■■■■」
これが霊障という物なのだろうか。俺はぼんやりとそんなことを思った。だが、その考えは誤りであると、すぐに分かる。
『全く、霊刀を自分から掴みに行くなど、無茶をしおって』
「ナリ!?」
突然身体の内側からナリの声が聞こえて、俺は思わず声を上げていた。
『神祓(かんばらい)の最中じゃ、心を乱すでない』
意識をしっかりと持ち、周囲の光景に意識を向けると、指先をすべて切り落とされた宗一が、切り口から白い炎を吹き上げていた。
「どうなってんだよ、これ!? それに神祓って――」
『儂がソーマに代わってお主の身体を動かしておるのじゃ、全く……訓練も無しに生身の人間が霊刀を握ってどうなることやら……』
ヤバいのか? と口に出すよりも早く、俺の身体は勝手に右足で地面を蹴って、宗一の身体に無数の斬撃を与えていく。
俺はこの剣技に見覚えがあった。昨日の夜、牡丹と戦っていたナリがつかっていた剣術だ。
『神祓とは神を祓う神事じゃな』
「■■■■■」
斬撃と踏み込みの合間、ナリが俺の内側で話を始める。
『儂の剣技とこの刀――常世火安綱(とこよびやすつな)によって、多くの荒魂を調伏してきた。その一端をソーマの肉体で再現しておると言うわけじゃ』
ナリはそこまで話すと、俺の身体で神霊の巨体を両断するかのような一撃を繰り出して、先祖――宗一の顔を半分に割った。
「■■■■■、■■■■■■■■■■、■■■■■」
「――!!」
人間には理解できない。幾重にも重なったような声が割れて炎の噴き出す顔から聞こえてくる。何を言っているのか分からなかったが、俺には何を言いたいのかが分かってしまった。
そうか、彼は宗一の方では無く――。
神霊となって、ゆがみ、人でなくなった先祖の魂は、炎が噴き出すほどにしぼんでゆき、あかね色に染まる空へ消えていく。後には折れた鳥居だけが残っており、牡丹が放ったあの特大火球の痕跡も何も残っていなかった。
「……」
「うむ、なかなか悪くなかったぞ」
ナリが俺の身体から抜け出した瞬間、俺は身体の平衡感覚がなくなって、バランスを崩す。なんだろう、身体に力が入らない。力を入れる方法が分からなくなったように、地面に刀を取り落としてしまう。
「宗真!」
「牡丹……?」
動く気力すらわかない俺を抱き留めて、牡丹が俺の名を呼んでくれる。
「本当に、無理をするんだから……」
「でも、なんとかするにはこうするしか無かっただろ?」
「はぁ……本当に、貴方は信じられないことをするわね」
一応その言葉は褒め言葉として受け取ることにして、俺は目を閉じる。あんな動きをしたのだから当然と言えば当然だが、急激に眠気が襲ってきたのだ。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫なの!?」
「む、安心せい。ただの疲労と常世火安綱を握った反動じゃろうて」
二人の慌ただしい会話を聞きつつ、俺は思考と意識を手放した。
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