第7話 結託
翌朝、朝焼けが赤い岩の谷を染める頃、一行は再び荷車を動かし始めた。
残った従者たちの口数は少ない。
クロト兄弟の死の衝撃とザインの不吉な存在感に怯えているようだった。
ラクダの嘶きと荷車の軋む音だけが、静かな谷に響く。
バルクはターバンを締め直し、腰の革袋に手をやった。
交易証書とラザールの書簡はまだそこにある。
だが、その重さは銀貨のそれとは比べ物にならないほど心にのしかかっていた。
ザインは先頭を歩き、長柄鎌を肩に担いでいる。
額の赤い刺繍が朝陽に映え、蛇の模様が不気味に揺らめく。
バルクは彼の背中を見つめながら、昨夜の会話を思い出す。
『復讐』『ラザールの野望』『ウィペラ神教の闇』。
ザインが語った言葉は、どれもが自分の知る世界の枠を超えている。
これから進む道の先にあるのは希望か絶望か。
やがて赤い岩の谷は終わりを迎え、広大な砂の海が広がる。
地平線まで続く金色の砂丘は、まるで果てしない波のようにうねっていた。
砂丘の風が徐々に強まり、砂塵が荷車の布を叩き始める。
バルクは目を細め、ザインに声をかけた。
「砂嵐が来るかもしれない。ザルカドまではあと二日の予定だが、身を隠せる場所があれば早めに見つけたいな。土地勘はあるか?」
ザインは振り返らず、淡々と話す。
「…この先、半日も進めば古い巡礼路の岩窟がある。そこで凌ぐしかないな」
彼の声は落ち着いている。
「そうか。ではそこを目指そう」
太陽は容赦なく照りつける。ザインの先導で一行は砂丘の間を縫うように進んでいった。
その日の夕刻、バルクの予感は現実となった。
空が急に暗くなり、遠くで砂の壁が地平を飲み込むように迫ってくる。
風の唸りが死神の咆哮のように響く。従者たちは慌てて荷車の装備を固め始める。
「そこだ。急げ!」
ザインが指差す方向に、岩壁に穿たれた浅い洞窟が見えた。
彼の声に、従者たちは荷車を押し、ラクダを急かす。
洞窟は狭く、荷車と一行全員を収めるのは難しかったが、なんとか入り口近くに荷車を寄せ、布で覆って砂の侵入を防いだ。
洞窟の奥は暗く、湿った空気が漂っている。
バルクは松明を手に持ち、周知を伺う。
壁に刻まれた古い紋章を見つけた。
レイエスタールの部族のものと似ているが、どこか異質だ。
「この洞窟…古いな。この場所を知っていたのか?」
バルクが呟くと、ザインが松明の光に照らされた顔で答える。
「この洞窟はウィペラの古い巡礼路の名残だ。レイエスタールが交易都市になる前、砂漠の民が神に祈りを捧げた場所だ」
彼の声にはどこか遠い記憶を辿るような響きがあった。
バルクはザインの言葉に耳を傾けながら、洞窟の壁に刻まれた紋章をじっと見つめる。
「ウィペラ神教…ラザールが書簡で繋がっている相手は、本当に司祭なのか?」
バルクの声には疑念が滲む。
ザインは長柄鎌を岩に立てかけ、ゆっくりと答える。
「十中八九な。だが、ウィペラも一枚岩じゃない。ラザールについているのは最も力を持つ一派だ。書簡の中身は交易路をウィペラ神教の手で牛耳る計画…俺はそう読んでいる」
ザインの言葉にバルクは思わず言葉が詰まった。
交易路をウィペラ神教の手に渡す――ラザールの野望が、バルクの知るレイエスタールの秩序を根底から覆すものだとすれば、彼が運んでいる書簡は単なる紙切れではない。
ソキエタスを裏切り、砂漠の交易を支配せしめんとする鍵だ。
バルクは革袋を握り、蝋印の蛇の模様を指でなぞる。
「そんなものを、なぜ俺なんかに…」
ザインは熾した焚き火のそばに座る。
炎の光が彼の顔に影を落とした。
「お前がシングラというのはひとつあるだろうな。ソキエタスの大商人なら動きが目立つ。だがお前なら誰も気にしないし、仮に野盗に襲われても書簡自体は暗号化されている。ごろつき共に解読出来る訳がないからな」
バルクの唇が歪む。
ザインの言葉は商人としての自分の立場を冷たく突きつける。
確かに、シングラの自分は市場の外縁で埃をかぶる存在だ。
「だが、昨日も話したとおり奴がお前を選んだ理由はそれだけじゃないように思えるがな。まあ今は考えてみてもわからない。もし何か思い浮かんだことがあったら話してくれ」
ザインが水を飲みながら言った。
ラザールが自分を選んだ意図、そしてソリアの件も気掛かりだ。
あの女が俺の動きをザインに教えたのは、単なる情報屋の仕事からだけなのか。
「ところでザイン、お前はウィペラ神教のことをよく知ってるな。額の刺繍もそうだ。…お前とウィペラ神教の関係はなんだ?」
ザインは一瞬、焚き火の光から目を逸らし、洞窟の奥を見つめた。
「ウィペラも一枚岩じゃない。それが答えだよ。この刺繍は、俺の村のしきたりとでも言おうか」
火がパチパチと爆ぜる。
額の赤い刺繍、蛇の模様が揺らめくその印は、単なる村のしきたり以上の意味を持つようにバルクには思えた。
商人は時として、人の言葉の裏を読む。
しかしザインの声には、語られなかった過去の傷が滲んでいた。
「しきたり、か。…なぁ、正直に話せよ。俺はもうお前の復讐に巻き込まれている。なら知る権利だってあるんじゃないか」
ザインは少し考えて自らに言い聞かせるように言った。
「…そうだな、お前には知る権利がある。だが聞くからには相応の覚悟があるんだろうな?これを聞いた後の裏切りは…死だ」
ザインの瞳がバルクを穿つ。
バルクに揺らぎは無かった。
「ここまで来たら一蓮托生だ。俺はお前に賭けたんだ」
バルクは即答した。
数々の取引で人の本性を読み、裏切りと信頼の狭間を生き抜いてきた。
ザインの覚悟が本物なら、バルクもまた命を賭ける価値があると決めた。
「一蓮托生、か…」
ザインは小さく笑い、鎌を手に持つ。
その刃が焚き火の光を反射し、洞窟の壁に不気味な影を投じる。
「いいだろう。お前がそこまで言うなら、話す。だが、この話は俺とお前の間にだけで留めろ。誰にも漏らすな」
バルクは頷き、書簡を握り締めた。
「約束する。教えてくれ、ザイン。お前は何を抱えている?」
ザインは深い息を吐き、話し始めた。
「俺の村は、ザルカドから東に位置する小さい村だった。砂漠の民として昔から交易路を守ってきた。額の刺繍は、村の戦士の証だ。だが、ある時からウィペラ神教の真解者を名乗る連中が台頭する。それは古くからのウィペラの教えを歪曲にとらえ、過激思想に囚われた連中だった。奴らの力は日に日に増し、そのうち村は奴らの支配下に組み込まれた。そして村の者を神の名の下に『浄化』すると称して、従わない者を殺した。俺の父は抵抗し、斬られた。母も…。そして姉は奴らの狂った儀式とやらのために連れ去られた。生贄と称してな」
ザインの声に、抑えきれぬ怒りと哀しみが滲む。
バルクは黙って聞く。
商人として人の痛みを利用する術を知っているが、ザインの言葉には嘘がない。
洞窟の湿った空気が、まるでその過去の重さを閉じ込めているようだった。
「ラザールは、その時すでに過激派と繋がっていた。ソキエタスの商人として、表では交易を司り、裏では汚い仕事を請け負っていた。村の襲撃にラザールも関わっている。奴は過激派の力を借りて、砂漠の交易を完全に支配するつもりだ。俺が生き残ったのは、ただの偶然…いや、呪いだ。この刺繍は、俺が復讐を果たすまで消えない傷になった」
ザインの復讐は、個人的な恨みを超えている。
ウィペラ神教とラザールの陰謀に立ち向かう戦いだ。
だが、同時に、バルク自身がその渦に巻き込まれている。
バルクは書簡を握る手に力を込め、続けた。
「俺たちがその計画を潰すには、具体的に何が必要だ? 情報か? 武器か? それとも…仲間か?」
ザインはバルクの言葉に一瞬目を細め、まるでその本心を探るように見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「お前、ほんとに腹を括ったんだな。…いいだろう。ラザールの動きを止めるには、まず奴の交易網を深く探る必要がある。ザルカドの交易所、そこが奴の金と情報の流れの元になっていることは間違いない。だが、奴は用心深く、隙を見せない」
バルクは頷きながら、頭の中で情報を整理した。
ザルカドの交易所は、砂漠の交易路の中でも最大級の拠点だ。
そこを攻めるとなれば、単なる力押しでは足りない。策が必要だ。
「まず内部の情報を得るのが必須だな。俺にも多少ツテがある。情報屋や傭兵たちにも話を聞くことは出来るだろう。だが、お前の復讐は個人的なものだけじゃない。その過激派とやらを潰すとなると、きっともっと大きな力が動く。俺たちが動けば、奴らも本気になるのは目に見えている。…それでもやるのか?」
ザインは鎌を握る手に力を込め、焚き火の光に照らされた顔に決然とした表情を浮かべた。
「やる。奴らが俺から奪ったものは、家族だけじゃない。村の誇り、仲間の絆、全部だ。ラザールと過激派を野放しにすれば、いつか砂漠の民は誰もが同じ目に遭う。そしてレイエスタール自体が飲み込まれる。奴の野望にな。お前が俺に賭けたって言うなら、俺もお前に賭ける。一蓮托生だろ?」
バルクは小さく笑い、書簡を懐にしまった。
「よし、話は決まった。ただ俺のツテなんてものがどこまであてになるか…。お前は俺を襲った段階である程度予想していたんだろう?どんな絵を描くつもりだったんだ?」
洞窟の外では、砂嵐の唸りがまだ続いている。
風が岩壁を叩き、時折砂粒が洞窟の入り口に吹き込んできた。
従者たちは荷車の布を固く縛り、ラクダを落ち着かせるのに追われている。
「改竄(かいざん)だよ」
ザインが答える。
「改竄?どうゆう意味だ?」
バルクは話が読めないといった表情で尋ねた。
「書簡を書き換えるんだ」
砂よ悪魔の血を啜れ 落葉れざがど @osakelove
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