第6話 利害
復讐。
その言葉は夜の尖った冷気の中でさらに冷たく、バルクの背筋を震わせた。
「ラザールがここレイエスタールで何を企んでるか、俺は知ってる。お前が運んでる書簡は、ただの手紙なんかじゃない。そこにはウィペラ神教の闇が書かれている」
バルクの喉がゴクリと鳴った。
「闇だと?何を言ってるんだ?確かに荷物の中には違法のものもある。今回だって貴族の馬鹿どもがお気に入りの麻薬香料を運んできてるさ。ただそれはラザールに限らずソキエタスの商人の中じゃ当たり前のことだ。必要悪ってやつだよ。役人に捕まる様な奴はマヌケだが、まさかそれがウィペラ神教の闇という程でもあるまい?それに書簡自体は暗号書簡とはいえウィペラ神教の信者と隠して友人に届けるために――」「友人?」
ザインが再び笑った。
今度は乾いた笑いではなく、どこか苦々しい響きがあった。
「お前、案外お人好しなんだな。ザルカドが目的地ならおそらくラザールの『友人』は、ウィペラ神教の司祭だ。書簡の中身が、久しぶり元気してるか、なんて世間話だと思うか?奴はそんな人間じゃない」
ラザールの滑らかな声、陰影のある微笑み、冷たい手の感触。
確かに危険の匂いは感じていた。
しかし全てが今、別の意味を持って迫ってくる。
「まぁ座れよバルク。ラザールは自分の手を汚さず、他人を利用する。お前も結局はただの駒だ。だがな、俺はお前をただの駒だとは思ってない」
力が入り硬直していた体がふと軽くなる。バルクはその場に座り直して尋ねる。
「どういう意味だ?」
ザインはゆっくりと身を乗り出して続ける。
「俺はラザールに近づきたい。そのためには、お前が必要だ。お前はザルカドまで書簡を届けろ。俺がお前を助けてやる」
ザインの言葉にどこか不自然な柔らかさが混じっていることにバルクは気づいた。
それと同時にバルクの頭に強烈な違和感が生まれる。
一体…。なんだ、この違和感は。俺は今、何を感じたんだ?
このわずかな揺らぎを掬い取れる鋭利な感覚が正に、シングラでありながらバルクが商人として生き抜き、ソキエタスに見込まれるまで至った所以である。
そしてバルクはその違和感の答えにたどり着いた。
まぁ座れよバルク…。
バルクと言ったのか?
なぜ俺の名前を知っている?先ほどラザールの名前を知っていた時とは根本的に話が違う。
どういうことだ?ここまでラザールに仕組まれている?
ラザールが俺の忠誠心を試そうとしているのか。
いや考えすぎか?わざわざ野盗に襲わせてまでなんて手が込みすぎている。
ならなぜザインは俺の名前を知っている?
やはりラザールが嚙んでいるのか?
頭の中で瞬時に色々な考えが激しく駆け巡る。
幾つもの疑問が生まれては派生していく。
夜の風が、二人の周りを撫でるように通り過ぎた。
バルクはザインの顔をしっかりと見据える。
ザインの目は、闇の中で静かに輝いていた。鋭い光。
バルクは深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「お前…俺の名前をどうやって知った? さっきのラザールの件は別として、俺はただのシングラだ。市場の端で埃まみれになりながら香辛料を売ってる男だぞ。誰かに聞かされたのか? それとも…」
ザインの唇がわずかに曲がる。笑いか、それとも嘲りか。
「驚いた。思ったより賢いな。市場の外縁で細々と生きるには惜しい男だ。そうだ、俺はお前がこの交易路を抜けることを知っていたんだよ」
ザインの言葉が、流砂のように重く流れ込む。
「どうゆうことだ?なんだかんだとそれらしい嘘をついて結局俺をだまそうとしていたのか!一体何が目的なんだ?」バルクは矢継ぎ早に責め立てる。
ザインはゆっくりと手を挙げ、バルクの言葉を遮った。
「落ち着けよ、バルク。言っただろ?俺の目的は復讐だ。俺の標的はラザールなんだ。お前じゃない」
ザインは全く動揺することなく答える。
「じゃあお前は誰から俺のことを聞いた?」
落ち着けと言われて落ち着ける状況ではない。バルクは再度ザインを詰める。
返ってきたのは意外な言葉だった。
「ソリアだよ」ザインは事もなげに答える。
酒場の女の姿が、バルクの頭に浮かぶ。
ソリアがザインに情報を流していた?確かに情報屋としても優秀な女だ。
謀略と混沌が渦巻く酒場で、様々な噂を集め、ならず者の動向に目を光らせる。
彼女がただの看板娘ではないことをバルクは知っていた。
くそ…あの女、俺をはめたのか…。
バルクの胸に、冷たい感情が湧く。
「ソリアが俺の情報を?あの女とどういう関係だ?」…戻ったら覚えておけ。
「あいつは俺の…まあ、昔からの知り合いだ。あいつは情報を売る。見返りは金か、力か、あるいはもっと違うなにかか…。だが、この話は俺があいつに頼んでいたことだ。あいつからお前がザルカドに向かうって話を聞いた」
バルクが眉間に皺を寄せる。
「それで? ソリアが俺を売った理由は? あの女はラザールとも繋がっているのか?」
ザインは肩をすくめ、まるでその質問があまりに単純だとでも言うかのように首を振った。
「ラザールと? かもな。あいつならあり得る。ただあいつは誰とも完全には組まないよ。情報屋ってのはな、どの勢力にもつかず、ただ自分の利益のために動く。俺が彼女に金を払って、お前の動きを教えてもらった。それだけだ」
「それだけ?」 バルクの胸の中で疑念が渦を巻く。
ザインの言葉は一見筋が通っているように聞こえるが、その裏に隠された何かを感じずにはいられなかった。
「ソリアはクロト兄弟たちに暗にお前の存在を話していた。そんな話をして、もしクロト兄弟が俺の誘いを断ったらそもそも俺がこの仕事を諦めたかもしれない。そしたらお前の考えは元の木阿弥だ。辻褄が合わないんだよ」
緊張がさらに張り詰める。
ザインはゆっくりと息を吐き、まるでバルクの疑念を解きほぐすかのように話す。
「辻褄が合わない、か。確かに、いかにも損得勘定が得意な奴が考えそうなことだ」
諭すように続ける。
「だが、俺はソリアが俺のことをクロト兄弟に話していたなんて知らない。当然だろ?俺はガラドのねぐらにいたんだ、分かるはずもない。あいつは情報を売る時、いつも複数の手を打つのさ。クロト兄弟ってのは血気盛んな奴らだったのか?俺という存在をほのめかして彼らを乗り気にさせたんだ。あいつがやりそうなことさ。それともそんな話を聞いて交渉を急いだ奴でもいたんじゃないか?」
図星だった。
「そうして誰かが動けばそこからさらに情報を得る。お得意の手口だよ。俺がソリアに金を払ったのは、お前の動きを知るためだけだ。クロト兄弟の件は、結果的にはあいつの余計な一手だったな」
バルクはザインの言葉を頭の中で反芻した。
ソリアの二重三重の策略は、確かにあの女らしい。
酒場で微笑みながら客の懐を探り、情報を操るあの女の姿が脳裏に浮かぶ。
「なら尚更クロト兄弟を殺す必要なんか無かったじゃないか。そもそも何でお前はガラドと行動を共にしていたんだ?」
ザインは答える。
「だから殺す必要なんて別に無かった。殺したことに意味なんてないさ。ただそうなっただけだ。奴らがラザールの手下ってことも無いわけじゃない」
バルクは黙って聞くほか出来なかった。
ザインは更に淡々と告げた。
「俺がガラドのねぐらにいたのは、ラザールの動きを追うためにガラドみたいな連中を利用したかっただけだ。街の中で奴の動向を探るのは俺にとってもリスクが高い。簡単に気づかれたくはないんでね。ガラドは交易路を荒らす野盗だが、情報にはなかなか敏感だ。俺がガラドに話を持って行った。その代わり仲間にしろとね。お前には手を出すなと言っておいたんだがな」
クソ野郎が…。バルクの内心は穏やかではない。
しかし、それでも腑に落ちない点があった。
「じゃあ、なぜ俺なんだ? ラザールの書簡を運ぶ奴なんていくらでもいる。なんでわざわざ俺を狙った? ソリアがお前に俺の名前を教えたってことは、俺が何か特別だったってことか?」ザインは一瞬黙り夜空を見上げる。
「そこが俺にも疑問なんだ。何でラザールはお前みたいなシングラにその書簡を預けたんだ?今までの会話でお前がなかなか優秀だというのは伝わる。ただそれだけで奴がお前を選ぶとは考えづらい。心当たりはないのか?」
バルクの心臓が強く脈打つ。
ザインの言葉は鋭く、頭の中で新たな疑問の渦を巻き起こす。
ラザールがなぜ自分を選んだのか?
もちろんここまでソキエタスに入るために文字通り命を賭けてきたのは事実だ。
ただそれが明確な答えには繋がらない。
「心当たり…」バルクは呟き、考え込む。
「これといって思いつくようなものはない。ラザールとは今回初めて会った。俺が特別なわけじゃない」
ザインは静かに頷き、夜空から視線を戻してバルクに目をやった。
その目はバルクを射抜いていたが、どこか遠くを見ているような曖昧さも帯びていた。
「ラザールは計算高い男だ。無駄なことはしない。お前を選んだのにはきっと理由がある。それも突き止めなければいけない」
「お前がラザールに近づきたいってのは分かった。だが、俺をどう使うつもりだ? 書簡をザルカドに届ける。それで終わりか? それとも、俺を囮にしてラザールを誘い出すつもりか?」
ザインは一瞬間を置いて話す。
「それも言ったはずだ。俺はお前を囮にするつもりはない。駒にするつもりもな。お前が書簡を届ける。その過程で、連中の動きを俺に教えてくれればいい。誰に渡すのか、どこで渡すのか、どんな状況で渡すのか」
即座にバルクが返す。
「簡単に言うじゃないか。ラザールが俺を試してる可能性だってある。書簡を届ける前に、俺が誰かと接触してるってバレたら…俺が危ない」
ザインは肩をすくめ答える。
「だからこそ、俺がお前を助けるって言ってるだろ。ラザールにバレないように動く。俺にはそれなりの手段がある。ガラドみたいな野盗を利用したのもその一つだ。お前がザルカドに着くまで、俺が目を光らせておく。ラザールの目をかいくぐる方法は心得てる」
バルクはザインの言葉をじっくりと吟味した。
その口調には自信があったが、どこか胡散臭さも感じる。
ザインの言う『手段』とは何か? 彼がラザールに復讐を誓う理由は何か?
そして、なぜソリアがこの男に情報を流したのか? 全てのピースがまだ繋がらない。
バルクの商人としての勘が、ザインの言葉の裏に隠された何かを見逃すなと警告していた。
「一つだけ聞かせろ」バルクは再びザインの目を見つめる。
「お前の復讐ってのは、具体的に何だ? ラザールを殺すことか? それともソキエタスを潰すのか? 巻き込まれるなら、せめてそのくらいは知っておきたい」
ザインの顔から感情が消えた。彼の目は一瞬、闇の中でさらに深く輝いた。
まるで過去の傷がその瞳に映し出されているかのようだった。
「ラザールを殺す? そうだな、奴のやった事は万死に値する。だが俺の目的は奴が築いたものを全て壊すことだ。ラザールは俺から大切なものを奪った。その代償を必ず払わせる」
ザインの声には、抑えきれない憎しみが滲んでいた。
先程背筋を震わせた感情が恐怖なのだと感じる。
この男が抱えるものは、単なる個人的な恨みを超えている。
だが、同時に、ザインが語らない何かがあることも感じ取った。
彼の過去、動機、そしてラザールとの関係。
全てがまだ霧の向こうに隠れている。
「大切なものって…何だ?」バルクは思わず尋ねていた。
だが、ザインは答えなかった。そしてまた夜空を見上げる。
「今お前に話すつもりはない」
ザインには確固たる信念があった。
「バルク、俺を信じろとは言わない。だが、少なくとも今は俺とお前の利害が一致してるはずだ。ラザールからのお前への任務は問題なく継続される。…それでいいな?」
バルクは意を決し頷いた。
頭の中ではまだ疑問が渦巻いていたが、今はこの男と事を進める以外に道はないように思えた。
ザインの目的が本当なら、ラザールの陰謀を暴く手助けになるかもしれない。
それを利用することが出来れば…あるいは…。
だが、もしザインが嘘をついているなら…。
バルクは自分の勘を信じ、慎重に動く必要があった。
「分かった。ザルカドまで書簡を届けよう。だが、俺を裏切ったら…」バルクは言葉を切り、ザインを睨みつけた。
「お前もただじゃすまない」
ザインは小さく笑った。
「その意気だ、バルク。夜は長いが朝は早い。今日はもう寝よう。ザルカドへの道は、そう簡単じゃない」
夜の風が再び二人の間を吹き抜けた。
ソリアの裏での動き、ラザールの野望、そしてザインの復讐。
心の中でそれらが複雑に絡み合い、まるで暗い迷路のようだった。
だが、バルクは知っていた。
この迷路を抜けるには、己の勘と知恵を頼りに進むしかない。
その答えはザルカドで待っている。
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