第2話 バルクとクロト兄弟

カウンターでバルクはエールの苦味を飲み込みながら考える。

ソキエタスへ入るまであと一歩。

この仕事が成功すれば、市場の外縁から這い上がり、絹の天幕の下で交易を仕切れる。

だが、南の交易路の影が胸に重くのしかかる。

旅芸人の骨笛が、哀しげな旋律に変わる。

サイコロ賭博の傭兵が「次はお前が払え!」と叫び、テーブルを叩く。

端の目立たないテーブルではいかにも悪巧みをしているといった顔を揃えている連中もいる。

酒場の空気は、酒と煙草の匂いに、裏切りと陰謀の匂いが混じる。

ソリアは酔った客に笑いかけ、油灯の光が彼女の赤茶色の髪を照らす。

レイエスタールの裏側は、砂嵐のように不確かで、危険に満ちていた。



カランカラン!

ドアベルが再び鳴り、酒場のざわめきが一瞬静まる。

重い足音が石の床を叩き、三人の男が堂々と入ってきた。

一際背の高い男は、いかにも年季の入ったという長剣を腰に下げ、鋭い目で酒場を見渡した。

革鎧には砂漠の風に磨かれた光沢があり、肩には部族の古い紋章が刻まれている。

となりには頑丈な盾を背に担ぎ、がっしりした体躯の男。

少し遅れて入ってきた男は槍を手に軽やかに歩き、若々しい顔に無鉄砲な笑みを浮かべていた。

酒場の客たちが一斉に視線を向け、囁き合う。「クロト兄弟だ」

「あの三人、十人相手に渡り合ったって話だぜ」

「そろそろソキエタスから直々に依頼がきたって不思議じゃねぇ」

ソリアは三人に手を振る。

「おーい、クロト兄弟! 遅かったじゃない! いつもの席、開いてるよ!」

長兄らしい男が軽く頷き、カウンターに近づく。

残りのふたりは近くのテーブルに腰を下ろし、客たちの視線を浴びながらエールを注文する。

バルクの心臓が早鐘を打つ。クロト兄弟。噂通りの頼もしさだ。

だが、彼らの革鎧に刻まれた傷や、剣と盾の重厚な作りを見ると、ならず者どもの縄張りを越えるという危険がより現実味を帯びてくる。

バルクはエールの杯を一気にあおり、カウンターから立ち上がった。

男に近づく。「クロト兄弟の長兄か。俺はバルク。シングラの香辛料商だ。仕事の話がある」

男はバルクを一瞥し、冷たく見据える。「仕事か。どんな内容だ?」

その声は低く、酒場の喧騒を切り裂くようだ。

バルクは懐の銀貨の袋を握り、言葉を選ぶように発した。

「荷車を運ぶ。マグヌスで3台。従者は5人、俺も入れて全部で6人だ。南の交易路を抜けたいが、途中ならず者どもの縄張りを抜けなきゃいけない。報酬は前払いで半分、銀貨50枚、荷車が無事に通過すればもう50枚だ」

男は無言でバルクを見据え、剣の柄に手を置く。盾男が奥から笑う。

「南の交易路のへんってことはガラドじゃねえか。厄介な野郎だな。どっかの武器商人と手を組んでるって噂だぜ」

「いやいやその程度俺たちで十分だろ! なぁやろうぜ!ジン兄さん!!」

槍をテーブルに立て、軽快に言ったのはおそらく末っ子だろう。屈託なく笑っている。

「ま、違いねえ。ロッツの言う通りだ。こんぐらい受けてなんぼだわな」

「ほら、デアロ兄さんもそう言ってるよ!!」ふたりは口々に続けた。

「どうだ、受けてくれるか?」バルクはジンと呼ばれた男に尋ねる。

ジンは軽く笑って「帰りも必要なんじゃないか?」と尋ねた。

バルクの喉が鳴った。



確かに、遠方の都市への往復を考えれば、帰路も護衛が必要だ。

銀貨の袋が、さらに重く感じられる。

「その通りだ。往復で護衛してほしい。報酬は…往復で銀貨130枚。前払いで70枚、成功したら残り60枚でどうだ」

ジンは剣の柄を軽く叩き、目を細める。

「ガラドの縄張りは赤い岩の谷だ。砂嵐が来れば荷車ごと埋もれる。やつらの装備は、ソキエタスの武器商から流れてるって話だしな。130枚じゃ安すぎる。…170枚、前払いで80枚だ」。

バルクの胸に、冷たい汗が滲む。ソキエタスへの金が、目の前で削られる感覚だ。

だが、ジンの目に宿る自信と、革鎧の傷が物語る戦歴が、バルクの不安を押さえつける。

酒場の奥で、ロッツが槍を振り回し、客が笑い声を上げる。

デアロが飲み干した杯をテーブルに置き、「ジン、さっさと決めちまえ。こんな仕事、俺たちには朝メシ前だ」と笑う。

いつの間にかカウンターに戻ってきていたソリアが身を乗り出し、笑顔で割り込む。

どうもこの身を乗り出す仕草は彼女の癖らしい。

「クロト兄弟、気合入ってるね! でも、ガラドの連中は侮れないよ。噂じゃ、鎌の男ってのがガラドと一緒にいるって話だ。市場の端で見たって客が言ってたよ。薄汚れた外套に、長柄鎌を担いでる奴。北の砂漠で傭兵連中を一人で切り伏せたって噂、聞き覚えないかい?」



バルクの背筋に冷たいものが走る。鎌の男。なんだそいつは。なぜさっきそれを話さない。

ジンがソリアを一瞥し、低く呟く。

「その噂、聞いたことある。刃の動きが鬼神のようだったとか。そいつが本当にガラドの仲間なら、厄介だ」

ロッツが笑いながら言う。「なんだよ、ジン兄さん、怖気づいた? 鎌だろうが槍だろうが、俺がぶっ刺してやるよ!」

デアロがロッツの頭を軽く叩き、「お前は黙ってろ。ジン、どうする?」とジンを見た。

バルクはジンが話すよりも早く言った。

「200枚だ。前払いで120枚。200枚、これ以上は出せん」

商人とはいえバルクもいくつか死線を越えてきている。

本能でクロト兄弟が本物の強さを持っていると直感した。

そしてここで逃がす訳にはいかないと。

「分かった。受けよう。出発はいつだ」ジンが言う後ろでロッツが飛び跳ねる。

銀貨の袋の重さが、胸にずしりと響く。

ソキエタスへの道が、赤い岩の谷の先に待っている。

ソリアが小さく「命は銀貨じゃ買えないよ」とつぶやいたがバルクの耳には届かなかった。

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